Birthday 2017 モビーと共に過ごした季節は、両手の指で数えられる数をゆうに越えた。それでも経験していないことは、まだまだ沢山ある。
例えば海軍大将との激突。これは出来ればこの先も経験したくない。
例えばポーネグリフ本体との対面。これはいずれ機会があるだろうと思うと、楽しみで仕方がない。
そして……
「え、わたしだって嫌だよ……いくらサッチの頼みでも、これだけは……」
「そう言うなって。今日だけはどうしてもほっとくわけにはいかねぇだろ? それに絶対、男の俺よりルリの方がいいに決まってるっての」
「……お酒一本。もちろん極上のやつね?」
「くそ、背に腹は代えられねえ……」
なんてお決まりの駆け引きを経て、わたしはイゾウさんの部屋の前に立っている。
正直気が重い。お酒二本にするべきだった。
16番隊に居た頃から、この役目だけは避けて来たというのに……
イゾウさんの寝起きはとても良い。
ただしそれは、平時の話。
イゾウさんには何故か年に数回、物凄く寝起きの悪い日というものが存在する。
そんな日は余程でない限り起こさないのが暗黙の了解なのだけれど、どうしても起こさなければならない事態というのは、残念ながらまま発生する。
そんな時のイゾウさんは、それはそれは筆舌に尽くし難い……らしい。敢えて言うならば鬼、般若、鬼神……どれを取っても結局は鬼。生きた心地がしなかった。皆が口を揃えてそう言うけれど、幸いわたしは一度もお目にかかったことがなかった。
もちろん、見てみたいと思ったことが一度もないとと言えば嘘になる。
だからと言って、何でよりにもよって今日――イゾウさんの誕生日に、この日が巡って来てしまったのか……
「……イゾウさーん……もうお昼過ぎてますよー」
心なしか控え目になってしまったいつもの三回ノックに返事はなく、少しだけホッとする。
「絶対に黙って入るな」それだけを何度も言い聞かされてここに来た。
覚悟を決めて静かに、でも気配は隠さずにドアノブを捻る。
“被害”は主に、入室した直後に発生しているらしい。確かに脊髄反射で動くイゾウさんに銃口を向けられたら最後、生きたままこの世の終わりを見ることになるのだろう。
「開けますよー入りますね……」
ところが予想に反して、イゾウさんの反応はなかった。
「イゾウさん?」
試しにもう一度名前を呼び、慎重に様子を伺う。
大丈夫、動く気配はない。大丈夫、今なら行ける……
意を決し、そろりそろりと足を踏み入れる。
「あら、ら……」
緊張感の欠片もない、我ながら気の抜けた声が出たと思う。
イゾウさんにしては珍しく、部屋が散らかっていたのだ。
昼間眠る時にはきっちりと下ろされているブラインドも今日は中途半端に上がっていて、陽の差す室内は眠るには少し温度が高い。
脱ぎ捨てられた着物を衣紋掛けに引っ掛け、崩れ落ちて散らばる書類をざっと整えながら少しずつベッドへと近付くと、聞こえてきたのはすうすうと静かで規則的な寝息。
その穏やかさに緊張の糸はたちまち緩み、不意に沸いたのは、本格的に眠り込むイゾウさんの姿を見てみたいという、ささやかで純粋な興味。気付けば寝台の隅に膝を付いて、寝顔を覗き込んでいた。
「わ……ホントに寝てる……」
陽が高くなってきたからだろう。イゾウさんの眉間には、薄く皺が寄っていた。やっぱり少し暑いのかもしれない。せめてブラインドを下ろしてあげようか――そう思って手を伸ばした時。
きしっ……と小さな音を立てて、スプリングが沈んだ。
「あ……」
反射的に漏れた声と止まった呼吸。それでもまだ動かないイゾウさんからは視線を外さずに、強張った身体をゆっくりと戻す。
危なかった。起こさなくて良かった。そんな言葉が頭をよぎっていることに気が付いて、思わず笑う。
だってわたしはイゾウさんを起こしに来たのだ。それなのに。
「イゾウさーん。今日は何の日か知ってますかー?」
至近距離から控え目に呼んでみても起きる気配は全く見えなくて、「イゾウさん?」もう一度呼んだその声は、自分でも驚く程にか細かった。
どうやらわたしの中には、自分が起こせばすぐに起きてくれるかも。なんて僅かな期待があった様で、じわりと少し、ほんの少しだけ寂しさが滲んだ。
それでもここまで熟睡している人を起こすのは忍びなく思えて、これ以上声をかけることは出来なかった。
今日はともかく、イゾウさんにだって一日中眠る日が有っても構わないと思うのに、矢張り立場上それは出来ないのだろう。
1番隊に所属する今、その時間作りの手伝いを積極的にすることは出来ない。今までそれは当たり前のことだった。なのに急にそれが酷くもどかしくなって、わたしは初めて16番隊に戻りたいと思ってしまった。
「……いつもお疲れさまです」
額に落ちる前髪に手を伸ばし、そっと掬う。
普段なら決してしない行為。
拭えない寂しさと、余りにも無警戒に眠るイゾウさんが、そうさせたのかもしれない。
艶やかな黒髪は触れれば柔らかく、何度持ち上げてもはらりはらりと逃げてしまう。その向こうで潤む漆黒の瞳が……
瞳、が……!?
経験した事のない強さで、心臓が跳ねた。
「イゾウさん!!わたしです!!ルリですーー!!」
無意識のイゾウさん対わたしの生存本能。
気怠げな瞬きがひとつ終わるより早く、わたしはイゾウさんの枕と腕を全力で押さえていた。柔らかなクッションが作る不自然な膨らみ。硬い感触。
そこに何があるのかは、一目瞭然だったから。
「お……はようございます……」
「……あ?なんでルリが……」
「イゾウさんが起きて来なかったので、その……心配になって……?」
触れたままの腕はいつもより温かく、イゾウさんがまだ覚醒していないことを直に伝えてくれる。
それでもサッチにお酒一本で買収されて起こしに来ました――なんて素直に言える筈はなくて。イゾウさんの瞳に普段の強さが戻りきらないのをいいことに、にへらと笑ってやり過ごす。
「……くそ……」
状況を理解しているのかいないのか、そう一言だけ吐き捨て、見た事のない怠慢な動きで小さく身を捩りながら毛布を被り直すイゾウさんは、どう見ても二度寝を決め込もうとしている。
もぞもぞと動いていた頭はすぐにぴたりと善い位置に収まった様で、少しだけ満足そうな表情で目蓋を閉じた。
そのとんでもなく無防備な姿に絆されたのでは……ない、と思う。でもわたしはここへ来た役割を完全に放棄し、起こすことはやめようと本気で決意していた。
イゾウさんのことだ。どれだけ眠くても疲れていても、次第に大きくなる外の賑やかさに気付いていないわけでも、今日が何の日か忘れているわけでもないだろう。
それでも起きたくないとイゾウさんが言うのならば、今のわたしに出来るのは――
「あの、イゾウさん」
「酒二本……」
「へ?」
「二本やるから、もう少し寝かせてくれ……」
「……!!??」
ほんの一瞬意識を起こしただけなのに、なんで見抜いてしまうのだこの人は。
あっさりと絆されていた自分も自分だけれど、しっかりとサッチの上を提示して来るなんて、イゾウさんはいつでも全力でイゾウさんだ。
「そんなのいらないので、ゆっくり寝てください。でも……もしわたしが怒られたら、助けて下さいね?」
流石に今日は本気で怒られるかもしれない。という思いがなかったわけではないけれど、実の所はせいぜい存分に揶揄われる程度の事だろう。
分かっていてもそう言い添えたのは、秘密の共有の様な悪戯の共犯の様な……小さな仲間意識とちょっとした甘え。
とにかくただ、なんとなくだったのだ。それなのに……
「当たり前だろ……だいたいこんな我が儘、今日じゃなくたってルリにしか言わねェ……」
「……っ」
一瞬で限界まで爆ぜた鼓動は、言葉と理性をあっさりと灰にしてしまう。
イゾウさん、何を言ってるんですか?
イゾウさん、今の言葉は起きても覚えてますか?
イゾウさん――
ふつふつと沸騰し続ける血液が熱くて暑くて、焼けた喉は何ひとつ音を発してくれない。
「ねぇ、イゾウさん……」
本当は起きてるんですよね?――ようやく口にしたそんな問い掛けに答えたのは、すやすやと穏やかな寝息。
きっちりとブラインドを閉じると漸くイゾウさんから眉間の皺が消え、最後にそっと毛布の位置を直した。
これはこれでひと仕事終えた気分になったわたしの中からは、さっきまでのもやもやした気分が全て消え去っていた。
わたしはわたしで今のまま、イゾウさんの為に出来ることをやっていけばいいのだ。
「お誕生日おめでとうございます。できれば今日中に起きて来て下さいね。みんな……わたしも、待ってますから」
さて、まずはサッチに任務失敗の報告だ。
それからイゾウさんがいつ起きて来ても良いように、宴の準備をしっかりとしておこう。
それから――
happybirthday! 2017!!!
イゾウさんと、イゾウさんを好きな全ての皆様へ。
ありったけの愛を込めて。
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