「平穏な日常」とやらにすっかり慣れきってしまうと、人というのは何かを忘れてしまうらしい。どうやらわたしもその一人だと自覚したのは、つい最近のこと。
海賊暮らしが何を、と笑われそうな気もするが、白ひげ海賊団に挑んでくる海賊はそう多くないのが実情なのだ。
酒を飲み、語らい、笑い、眠り、時には荒れた海と戦う。
それはそれで決して悪いものではないのだけれど、そんな日々に満足しているのかと問われれば、答えはノーだ。
「うう、疲れた……イゾウさーん。生きてますかぁ?」
「誰に聞いてんだ。その質問、そっくりそのまま返すぞ」
「あはは……お陰様で、なんとか息はしてますー」
眼に映るのは、絵に描いた様な満天の星空
聞こえるのは、波の音と……少しの呻き声
火種を拾って来たのはサッチだったのか、エースだったのか、それともその両方だったのか。
小さかった種は、あれよあれよという間に飛び火して、大して広くない浜辺はたちまち人で埋め尽くされていた。
そうなってしまうともう、敵も味方もあったものではなくて。
最後の方は脊髄反射で、視界に入った人影に照準を合わせていたような気がする。サッチの大事なものをうっかり撃ち抜かなくて、本当に良かったと思う。
「髪なんてどうせ伸びるだろ。せっかくなら、軽く掠めるくらいしときゃよかったんだ」
「やですよ。一生何か言われますもん」
高みの見物のつもりがいつの間にか得物を抜いていただなんて、自制が効かないにも程がある。
おかげでくたくたに草臥れて息も切れ切れ。投げ出した手足も髪も砂まみれ。
声のする方へ僅かに頭を動かすと、砂にまみれた髪がひと束、頬の上に落ちてきた。ああ、これはきっと顔も砂まみれだ。
そうは思っても、何とかする気は起きなかった。今は見映えよりも、素肌で触れる砂の気持ち良さの方が重要なのだ。それに戦闘の後は多かれ少なかれみんな同じ状況なのだから、誰も気にしないだろう。
ところが胡坐をかいて目を瞑り、小さな欠伸をひとつ噛み殺しているイゾウさんの横顔だけは、普段通り。胸も肩も殆ど動いていない。
何もしていなかった……訳ではない。常にわたしの視界にはイゾウさんが居たし、正直その安心感がわたしを調子に乗せた一因であることは否めない。
顔の売れた隊長が場に居れば、自ずと名を上げたい輩はそこに集まる。それこそ街灯に群がる羽虫の様に、わらわらと。
けれどそれらは当然の如く、群がる先から叩き落とされていった。その数はわたしの数倍、ゆうに百を超えていた様に思う。
それでもイゾウさんにとって、たいした刺激にはならなかったのだろう。手を伸ばせば届く距離に居たのに、流れる空気は完全に別次元だった。
「隊長……」
「ん?どうした?随分と懐かしい呼び方だな」
久しぶりにイゾウさんと一緒に戦った一連の光景が、白ひげ海賊団に入ったばかりの頃を思い出させていた。「イゾウ隊長」そう呼んでいたあの頃。守られていたことにすら気付けなかったあの頃。
いつからか「イゾウさん」と呼ぶようになって、わたしも少しは強くなった。指先くらいはその背に届いたつもりでいたけれど、しっかりと掴める日はまだまだ先の様だ。
イゾウさんも前に進んでいる。待っていてくれる訳ではない。だからわたしは全力で追いかける。
自信を持ってその隣に立つ日の為に。
今は文字通り天と地でも、そこに失望なんてなかった。だって考えているだけなのに、こんなに楽しい。のんびりと過ごしてなんていられない。
「なんだか今、とても気持ちいいです……生きてるんだーって実感する……」
世間から見れば物騒なこの状況も、わたし達海賊にとっては日常のひとコマなのだ。
平穏な生活の充足感とは違う、生きているという確かな感覚。
血の滲む膝、軋む関節……隣り合わせのそちら側に触れ、改めて実感する。わたしはこれを、渇望していたのだと。
充ちている。心も、身体も。
「生きてるからな。死んだら酒が飲めねェ」
「っ、ふふっ……イゾウさんて、生まれた時からお酒飲んでそうですよね。哺乳瓶で甘酒とか、離乳食が酒粕とか……」
想像したらおかしくて、ひとりツボに入ってけらけらと笑い転げる。涙で滲む視界の中のイゾウさんは、甚だ心外だという顔をしていた。
ありえない話ではないと思うのに。きっと誰に聞いても肯定されるに決まってる。
「笑い過ぎだ、馬鹿」
イゾウさんはなおも止まらないわたしの笑いが落ち着くのを見計らい、わざわざ取り出した煙管でぺしっと一発、わたしの額に向けて反論をした。
ひやりとしたその感覚に、思わず反応した身体を動かそうとするも思う様に肩が動かない。長い時間得物を握っていた指にも力が入らない。
ここに来てようやくわたしは、自分の身体が発する悲鳴に気が付いた。それすらも気付かない程に、わたしの神経は昂ぶっていたのだ。
「ガキの頃くらい、せめて人並みにしてくれ」
「全否定はしないんですね……」
再度一発喰らわせるべく構えるイゾウさんと、笑いを堪えるわたし。
その間を遠慮がちに流れる夜風が、高揚の止まらない気持ちを申し訳程度に冷ましてくれる。これから飲むラムは、掛け値なく美味しいだろう。
「さて……と。立てるか?早く行かねェと、飲みっぱぐれちまう」
「え、それは困ります」
思わず漏れた本音に笑いながら差し出された手を素直に受け取ると、砂に沈んでいた重たい身体は軽々と、いとも簡単にイゾウさんに掬い上げられてしまう。
「うっ、いたた……明日は筋肉痛かな……」
「飲んで潰れちまえば、そんなモン寝てる間に治ってるだろ」
「潰れるまで付き合ってくれます?」
へらりと笑うわたしにぺしっと一発。デコピンを飛ばしたイゾウさんの指は、そのままわたしの頬の砂を払い、絡んだ髪の間を通って離れた。
優しくて、でもひんやりとした指。
「そういうことを気楽に口にするんじゃねェよ」
「……はーい」
ああ、やっぱり生きている。
わたしを満たしてくれる、もうひとつのもの。
くたびれた身体は素直にその痺れを受け入れて、全身を巡る熱い血が、今はただ心地良かった。
「イゾウさんが酔い潰れるの、いつか見てみたいです」
「いつでも潰してくれて構わねェぞ?」
「え、良いんですか?わたし、本気出しますよ?」
「あァ……いつでも本気で来な。ルリに潰されるならまァ……それも悪くねェ」
「そういうこと、さらっと言わないで下さい」
「楽しみにしとくよ」
「だから……もう、イゾウさん!なんで笑ってるんですか!」
肩を揺らしながら歩き出したイゾウさんの後を、慌てて追いかける。
重たくて仕方がなかった筈の足は、驚くほどに軽い。自分より歩幅の広いイゾウさんの足跡を踏みながら歩くわたしの姿は、まるでスキップをしている様に見えるだろう。
欲に忠実で現金なわたしの身体は今、アルコールで満たされたくて必死なのだ。
ああ、これなら今夜はイゾウさんに勝てるかもしれない――なんて呑気に考えたことを、わたしは翌朝死ぬほど後悔することになる。
fin.
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