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windfall

 新世界の荒波を物ともせず進むモビーディック号の船内は、ここ数日とても静かだ。
 と言ってもそれは平時と比べれば……の話。鍛錬も酒盛りもそのついでの軽い諍いも、普段通りそこかしこで行われている。

 鯨を模した巨大な船の抱える海賊の数は、本来ならば小さな町と同じかそれ以上。しかし今船上に居るのは約500人。クルーの半分以上が、様々な任務で船を空けている。こんな事はモビーの長い歴史の中でも初めての事だった。

 食堂に浴場、雑居部屋に医務室。
 時間帯によってはこれでもかとごった返す場所が、ごくごく普通の混雑程度で済んでいる。
 それが有り難かったのは、ほんの一時。慣れない閑散とした空気に誰もが物足りなさを感じるようになるまでに、そう時間はかからなかった。



「ふあぁ……っと、あぶな……」

 一人船内を歩いていたルリは、無意識に漏れた欠伸を慌てて噛み殺した。
 今のモビーでは、普段のように人混みに埋没する事が出来ない。かと言って皆が忙しく動いているこの時分、緩んだ様子を堂々と晒すのは流石にはばかられる。
 普段は16隊に割り振っている作業を7隊でこなしている所為で、ルリを含め幹部たちは特にオーバーワークだった。
 とは言えそこに不満を抱いている者など、誰一人居ない。遠征に出ている家族に比べ、ここでの作業は安全で気も楽だという事を皆理解しているからだ。

 方々との連絡は昼夜を問わず行われ、遠征艇へと移した物資の補充は一朝一夕で賄える量を軽く超えている。足りない時間を捻出する為に犠牲にした睡眠時間のツケは、気力と体力に確実に影を落とし始めていた。

(分かっていても、眠いものは眠いんだよなぁ……)

 弛緩しかけた背筋を正した矢先。ふわぁともう一度、今度は制する間もなく漏れた欠伸。ダメだ、眠い――ルリはとうとう抗う事を諦めた。その途端襲い来る現金な睡魔にほわほわと巻かれながら、気力だけを頼りに足を進める。とにかく今は、ひとつひとつ片付けるしかないのだ。

「あとは……弾薬庫と燃料庫を確認して……あー、みんな帰ってきたら補修用の玉鋼も必要になるし……それから……」
「さっきから全部漏れてるぞ?」
「もれ……?え?イゾウさん??あ……」

 聞き慣れた声に振り向いて、そこでようやくルリは自分が思考を音に乗せながら歩いていた事に気が付いた。更にあろう事か、目的の部屋のドアノブを握りしめたまま立ち尽くしている。一体いつから。いや今はそれよりも……
 視線が合うなりニヤリ、と動いたイゾウの口元が再び動くより先に、ルリは慌てて口を開いた。こんなに防御力の無い状態でイゾウに何か言われたら……よろしくない事だけは、経験上想像がつく。

「あ、わわっ……これはその、声にしないと忘れそうと言うか、頭の中だけで考えてるとぐるぐると考えがどこかに行ってしまいそうで……」

 聞かれて困る内容ではなかった。けれど人に……イゾウに見られたのだから、当然恥ずかしい。そうでなくともいっぱいいっぱいの頭は、次にやろうとしていた事ですらスムーズに思い出せなくなっているというのに。

 ひとしきりの弁明が終わるのを待っていたイゾウにクツクツと遠慮なく笑われて、ルリの中の取り繕う余力は綺麗に燃え尽きた。けれどその所為か、思考はほんの少し回復したようだった。

「イゾウさんの方は落ち着きました?」
「ぼちぼちだな。そっちはどうだ、終わりそうか?」
「こっちもぼちぼち……だといいんですけど……」

 イゾウの問いかけになんとも言えない表情で答えて、ルリは手元の書類の一部を手渡す。ざっと検めたイゾウはそのまま自分のものと一纏めにすると、ばさりと傍らに放ってしまった。

「へ?」
「お互い予定より順調だな……少し休むか?」
「いえ、大丈夫です。みんなまだ動いてるし……」
「少しなら問題ねェだろ。それにここでルリが倒れでもした方が、先々よっぽど困る」
「わたし体力あるし大丈夫ですよ。もう先は見えてますし……」
「ならその貯金で休め」

 有無を言わせぬ物言いでどっかりとその場に胡坐をかいたイゾウは、そのまま自分の足をぽんぽんと叩いた……ように見えた。

「あの……ぽん、って……」
「どうした?」
「どうした、って……100歩譲って休むとしても、ですよ?ぽんって……それは……」

 イゾウが勧めているのは、明らかに自身の足。素直に従えばすなわちそれは“膝まくら”、という事になるのだが……

「部屋で休めってここで別れたら、休むか?休まねェだろ?」
「う……そうですけど……でもそれじゃあイゾウさんが……」
「ここじゃ嫌か?」

 イゾウは真顔でルリを見上げながら、しれっととんでもない事を言っている。
 眠気の所為かそうでないのか、上がり続ける体温。くらくらとしてだんだん状況が分からなくなっているが、回らない頭でだってそのくらいは分かる。

「嫌とかじゃなくて……そうじゃなくてその、そんな事したらイゾウさんも何も……」
「ついでに俺も休む。こうしてる時間ももったいねェぞ。ほら」

 再びぽんぽんと誘うように膝を叩かれ、必死の抵抗を続けていたルリはとうとうもろ手を挙げて従った。今に始まった事ではないけれど、イゾウは本当にずるい言い方をする。そんな事を言われたら断れないのを分かっていて、わざとそういう言い方をするのだ、この人は。

「わかりまし……ひゃ、っ」

 そろそろと腰を下ろした途端、半ば強引に頭を抱えられよろめいた。それをしっかり支えたイゾウの手で、ルリはそのままぽすんと膝を枕に横たえられる。
 その反動でふわりと香ったのは、いつか自分の贈った香の匂い。

「こんなところで悪ィな」
「いえ、ありがとです。少しだけ……」

 慣れた香りが運ぶ安心感と睡魔が、ふんわりと優しくルリの意識を覆っていく。
 本音は休みたかったし、思考がまともに回らなくなる程度にはくたびれている。
 そう、今の自分は正常な判断が出来ていないのだ。でなければ作業途中にイゾウの膝で休むなんて……

「イゾウさん……」
「ん?」
「イゾウさんもちゃんと休んでくだ……さい……」
「分かってる。おやすみ」

そう言ってイゾウが頭を撫でてやると、ルリはほんの僅かに口元だけ微笑んで、すぐにすうすうと穏やかな寝息を立て始めた。

「おつかれさん」





 ――ルリが意識を手放してすぐ、深い眠りの縁にようやく手が届こうかという頃。
 幾つか先の部屋から順に扉を開ける音が、こちらへと近付いていた。順当に近付いた気配が二人のいる部屋のドアノブをも僅かに動かしたが、扉は開く事なく気配は遠ざかって行った。

 余程疲れていたのだろう。船が揺れても人の声が聞こえても、ルリは身動き一つせずにぐっすりと眠っている。
 廊下で見かけた時には疲れて見えた頬にはほんのりと赤みが差し始め、ふくふくと動く様は可愛らしい。やはり休ませて正解だったと安堵したイゾウが、思わずそこに指を伸ばしかけたその時。
 きぃ、ときしむ音と共に、細い光が一筋差し込んだ。ゆっくりゆっくりと、様子を伺うように扉が動く。

「こんなとこでなにしてんのさ」

 チラリと覗いてそのまま遠慮なく入室してきたハルタは、イゾウルリイゾウと二人を交互に見遣り、ふーんと呟いてしゃがみ込む。その表情は明らかに何かを言いたげだ。

「見て分かんねェか?ルリを休ませてる。こうでもしないと休まねェからな」
「は……?」

 ハルタから見れば、普通に休ませるよりよっぽど特異な状況に見えるのだが……おそらくそこを突っ込んでもハルタに得はない。ぱっぱと要件を済ませ、ここから離れるのが得策だろう。

「マルコがルリの事探してるってさ。エースがそこで頭抱えてるからなにごとかと思えば……」

 おそらく最初に扉を開けようとした気配はエースだったのだろう。イゾウはルリにぶつける事なく、的確に扉の外だけに向けて覇気を飛ばしていた。それにたじろいだエースと往きあったハルタが代わりにここに来た。そういう経緯のようだった。

「ほんっと、イゾウってこういう隙を逃さないね」
「あ?」
「んぅ……」

 思わず大きくなった声に反応したのか、もぞっと動いた身体と漏れた声に二人は揃って気配を潜める。
 少しだけ動いた頭はどうやらイゾウの方を向こうとしているようだが、まぶたは閉じたままで続く言葉もない。指先だけが何かを探すように小さく動いている。

「……悪ィ、起こしたか?まだ休んでていいぞ?」
「ん……ねむ……ごめんな、さ……」

 イゾウの衣服を掴んでもそもそと顔を埋めたルリの肩は、すぐにゆっくりと規則的な動きを再開する。
 なんだこれ、無防備にもほどが有る。そう思ったハルタは、つまり今自分がどういう状況に置かれているのかを敏感に察した。エースの野生の勘は流石としか言いようがない。

「マルコにはこれそのまんま伝えるよ」
「あァ。すぐに行くと伝えてくれ」
「はいはい。ほどほどにね」

 邪魔者は1秒でも早く立ち去るに限る。素早く部屋を出たハルタは、扉越しにひらひらと手を振った。
 何しろあの瞬間、イゾウはそれはそれは器用に、ハルタだけに向けて殺気を放ったのだ。殺意はないけれど明確で、穏やかな殺気を。

「どんなのろけだよ……やってらんないや」

 扉は静かに閉じたられた。眠るルリを気遣ってくれたのだろう。ハルタの気配が遠ざかるのを確認したイゾウは、眠り続けるルリを覗き込む。久しぶりに間近で見た寝顔はとても無邪気で穏やかで、その表情にイゾウはため息交じりに囁いた。

「ったく……あんな無防備な声、なに他のヤツに聞かせてんだ……」

 散らばる髪を掻き分けてのぞいた形の良い額を指ではじく代わりに、そっと口づけて。

「ルリ、悪いな。そろそろ起きられるか?」
「ん……イゾウさん……?あい、おはようです……」

 なんだかとても幸せな眠りだった気がする――まだ覚めきっていないルリの頭は、状況を理解するより先に満ちた気持ちを心に刻む事を選ぶ。
 

 ハルタやマルコに意味ありげな視線を投げかけられたルリが疑問符を浮かべ、イゾウが今度は容赦ない殺気を放つ事になるのは、もう少しだけ先のお話。

fin.

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