親兄弟、最初の船の仲間、モビーの家族……沢山の人と出逢い、そして別れて来た。
その度に悲しかった。苦しかった。涙だって沢山零した……なのに……
いつから自分は、こんなに薄情になってしまっていたのだろうか?
一粒の涙も出ないなんて――
崩れ落ちるように身体を沈めたベッドの上。
もぞもぞと落ち着かない身体が、綺麗に整えられていたシーツを少しずつ乱していく。
視界も思考もふわふわと何処かを彷徨っていて、ルリの頭の中は真っ白だった。
どのくらいそうしていたのか、不意に何かに吸い寄せられたかの様に動きが止まる。回らない頭でその意味を考え、その視線の先にあるモノに気付いたルリは、表情を変える事なくゆるりと背を向けた。
そこまでは……医務室までは何層も離れている。それなのに声が、音が……聞こえた気がしてしまったのだ。
静かに目を閉じるとゆっくりとした自分の呼吸が感じられて、何故か安堵した。
まだまだ航海は続く。これから先ずっと、どこまでも。
その旅路を共に歩き続ける為に今出来る事は、何もない。何もしない事しか出来ないのだ。
悲しい筈がない……だってまだそこに居る。だから……大丈夫、わたしは大丈夫。今は少し休もう―――
そんな事を考え始めた矢先、俄かに船内が騒がしくなった。その中から足音がひとつ、こちらへ向かって全力で駆けて来る気配を感じ取ったルリの身体は強張った。ずり落ちかけていたシーツを引き寄せ、強く握り締め、耳を塞ぐ。何も聞きたくない。今はまだ……
「ルリ!寝てる場合じゃねぇぞ!!イゾウが目を覚ました!!」
ノックも無しに開かれた扉から飛び込んできた大声。
皆まで聞かず身体を起こし振り向くと、そこに立っていたのは涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにした、年若い隊長だった。
「……大丈夫?」
「何言ってんだ!? おれもイゾウも大丈夫だ!!生きてんだ……兄弟が生きてんだよ……だから、早く行け!」
乱暴に腕を掴まれ、部屋から投げ出された。
反動でよろける身体と縺れる足を立て直して前に踏み出すと、沈んでしまうのではないかと思う程に心臓が揺れた。
呼吸の仕方も忘れてしまった。
だから何も考えずに走った。
曲がる場所を何度も間違えた。
それでも走った。
医務室へと繋がる廊下は、人払いをされているのかとても静かで、響く自分の靴音を頭の中で数えながら走った。
50歩、100歩……薄く開かれた扉まであと3歩――そう思ったのに、たった一歩でそこに手が届く。
「……さ、ん…っ……イゾウ……さんっ!」
それが、トリガーだった。
身体中の細胞が一斉に目を覚まし、弾けたのが分かった。
そしてなんの前触れもなく端から端から零れ落ち始めた涙で、ルリの視界は一瞬で水没してしまう。
「よか……った、本当に良かった……イゾウさん、わたし……」
悲しくなかった訳ではない。
情を無くしていた訳でもない。
現実を見る事が怖かったのだ。
だから名前を口にする事が出来なかった。無意識に避けていた。
「イ、ゾウさん……っひっく、わたし……っ」
「あァ……」
安堵で全身の力が抜ける。
言葉もロクに紡げず、涙が邪魔で視認も出来なかった。それでも確かに聞こえる声は、とても今し方まで生死の淵を彷徨っていた人間とは思えない程に明瞭で力強い。
イゾウはここに居る。自分の目の前に。
だから繰り返し繰り返し、ただひたすらに名前を呼んだ。
他の言葉は出てこなかった。
イゾウさん、イゾウさん。
まるで迷子の子供みたいに何度も何度も、その名前だけを。
「ルリ、立てるか?悪ィが今はそっちに行ってやれねェんだ」
こくりとひとつ頷いて、立ち上がる。
ひくつく喉を必死に抑え見据えれば、瞳が捉えたのはいつものイゾウ。
あちこちに巻かれた包帯姿が痛々しいが、何も変わっていない。
良かった。これで良かったのだ。
変わらない為に二人が耐えたのだから。
「心配かけたな」
「心配は……してない、です」
ふふっと笑いを零すと薄情な奴だと額を弾かれ、そのまま引き寄せられた。
ツンと鼻をつく薬剤の匂いの強さに、あぁこの人は本当に怪我をしているのだと気付かされ、ルリの身体が強張る。
それでもすぐに感じた温もり。
触れられる。生きている。
これ以上はない証だった。
「信じてたから……でも、ごめんなさい。わたし何もしなくて……出来なくて……」
「いや……よくやってくれたよ。お陰で今は随分と気が軽い」
人の気を知らぬ訳ではないだろうに……思わぬ言葉に意地悪で返したくなったのは、安心の裏返し。
ふいとそっぽを向き、なに呑気な事を……と呟いてみた。
ところが……ルリが予想していた様な反応は無く、代わりに怪我人とは到底思えぬ強さで、ぎゅうぎゅうと抱きしめられてしまう。
「あ、う……嘘ですよ!?そんな顔しないで下さ……」
余りの強さに軽く身を捩り、僅かに出来た隙間からイゾウを見上げたルリは、我が目を疑って言葉を飲み込んだ。
「イゾウ、さん?」
強く2、3回瞬いて、恐る恐る目を開けた。
そんなはずはない。そんな事、有るはずがない。
「どうした?」
「いえ、なんでも……ううん」
零れる寸前の小さな球がひとつ、目の端に見えた気がした。気の所為かもしれないし、本当に見たのかもしれない。
けれどそんな事は、今はどうでもよかった。
「イゾウさん……帰って来てくれて、ありがとう」
「ただいま、ルリ。待っててくれる家族が居るってのは……悪くねェな」
今更何を言ってるんですか?と笑って見上げれば、笑い返したイゾウの表情は、今までに見た事がない程に穏やかで柔らかく温かい。導かれる様にルリが伸ばした両の手は、躊躇わずその頬に触れる。
「おかえりなさい」
これからもいつもずっと、ここで待ってる。
今度は少し驚いたその表情も、手のひらに伝わる温かさも、全部。
大切に大切にそっと、その胸に抱き寄せた。
fin.
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