一応バレンタイン話/拍手文の続きです。「部屋、間違えたかと思った……」
目の前に広がるのは、淡いピンク色に染められた自分の部屋。
出掛ける前とは一変したその光景に、ドアノブを握ったままで立ち尽くしてしまった――
寄港した昨日から今日にかけ、自分の時間の殆どはナースさん達の護衛で終わってしまった。
わたしが同行した理由は、彼女達のお目当がお気に入りの隊長へお菓子を買う事だから。
今日はつまり、そういう日なのだけれど…去年皆に配って懲りたわたしは、今年はイゾウさんだけにあげる…という選択肢は選べず、親父の分だけ用意して、後は朝まで自室に篭ろうと決めていたのに…
(これはイゾウさん…だよね…?)
違う人だったらどうしようと思いつつも、期待を込めてその名前を心の中で呟く。
途端にどくん、と大きく弾んだ鼓動で我に返ったわたしは、そーっと後ろ手で扉を閉めた。
桜と薔薇を中心に、その全てが淡いピンクの花で埋め尽くされた部屋。
扉を閉めたので、ほんのりと甘い香りが部屋に満ちる。むせ返る様な甘さではなく、控え目なこの感じ、花の色、種類…
全てがわたし好みで、どれを取ってもこれを仕掛けたのがイゾウさんである事を、疑う要素は無かった。
(どうしよう…これは、何もしない訳には行かないなぁ…)
今日を隠れてやり過ごすつもりだったわたしは、予想外の展開に嬉しいため息を溢し、ベッドに身を投げた。
枕元に置いて有った小さな花束を手に取り、寝転がったまま改めて部屋を眺めれば、机の上もサイドテーブルの上も床の一部にも、見事に花々が敷き詰められている。まるで外に居るみたいで、ここがモビーの自室だなんて嘘みたいだ。
これらをイゾウさんが並べている光景を、思い浮かべてみる。ぶちまけたりせず、イゾウさんの事だから一つ一つ、きっと丁寧に…
(わわ、ダメだ…これは想像しちゃいけない気がする…!)
頭をわしゃわしゃと枕に沈め、その光景を大急ぎで揉み消した。ぽかぽかと熱くなる頬を冷えたシーツで冷まし、少し暴走気味の自分を平時に戻す。
「でも…本当どうしよう…」
街へ行って何か探すには時間が足りない。それにこのサプライズに見合うだけの物を、一朝一夕で用意する自信は無い。
わたしがすぐに出来る事と言えば……
「…よし、出来る限り頑張ろう」
起き上がりつつ声を出して、気合を入れる。
部屋を出て甲板に向かうと、そこには丁度隊務の買い出しから戻ったイゾウさんが居た。
「お疲れです、イゾウさん」
「ルリもお疲れ。昨日からナース達に付きっ切りだったんだってな」
煙管を吹かしながら、軽く眉を上げて“大変だったろ?”と声に出さずに言うイゾウさんは、普段と何ら変わる事がない。
もしや、あれはイゾウさんでは無い?と一抹の不安が過る。でも例えわたしがイゾウさんだと気付かなくても、自分から言う人では無いと思えばこれで良いんだと、わたしも普段通りを装う。あくまでも、普段通りに。
「わたしも楽しんで来ましたから。それよりイゾウさん、今夜は空いてますか…?」
「あァ、これを片付けちまえば後は暇だな。久しぶりに一緒に降りるか?」
「いえ…お花見に来ませんか?花見酒です」
イゾウさんになら伝わる、イゾウさんにしか伝わらない誘い文句。
くくっと喉で笑ったイゾウさんにほっとして、へにゃりと相好が崩れるのを止められない。そんなわたしの頬を軽く摘んだイゾウさんは、「それなら極上の酒を用意しねェとな」と楽しそうに了承してくれた。
「じゃあ…少し準備したいので、後で呼びに行きますね」
熱でとろける頬を抑えてぺこりと頭を下げて。
そのまま一目散に街へと走った。部屋は十分素敵に整っているけれど、どうしても一つだけ、用意したい物が有ったから。
*
目当ての物はすぐに見つかった。
あれだけの量の花を扱う店が有るなら、きっとそれも扱っているだろうと思ったのだ。
「イゾウさん…お待たせです」
コンコンコン、と三度のノックに乗せて呼び掛ければ、間髪入れずに扉が開く。まるで待っていてくれたかの様なタイミングだ。もう今日は何から何まで、わたしのリズムはイゾウさんに心地良く乱され続けている。
戸惑うわたしの前に出て来たイゾウさんは、何処から調達したのか沢山の酒瓶を抱え…担いでいた。
「うわ、沢山だ…」
「そうか?俺は足りねェと思ったんだがな」
「どれだけ飲むつもりですか?」
話しながら一抱え受け取って、そのまま二人並んで歩く。
心なしか船内に人が少なく感じるのは、何となく浮き足立ったこの空気の所為だろう。でもお陰で奇跡的に人目に付く事なく、わたしの部屋まで来られた。
「実はですね…わたしの部屋、さっき帰って来たらこんな事に」
イゾウさんですか?と素直に聞けばいいのにこんな言い方、自分でも随分白々しいと思う。
「…それはまた、暇な奴が居たもんだなァ」
それなのに輪をかけて白々しさ全開のイゾウさんは、部屋をゆっくりぐるりと眺めると、満足そうに笑った…様に見えた。
「…本当、粋な暇人ですよね」
「それは褒めすぎだろ…これを開けるか」
渡されたお酒で満たしたグラスに、小さな仕掛けを施す。
「どうぞ。粋では敵わないので、ほんの気持ちだけ」
ゆらゆらとわたしの気持ちの様に揺れるのは、一枚のハート型の花弁。
「わたしに出来るのは、精々このくらいなので…」
貰った沢山の花々と比べたら、ほんの一欠片だけれど、少しでもイゾウさんに応えたくて。
「知ってるか?女から一方的に贈るってのは、ごく限られた地域の風習でな」
「え?そうなんですか?」
「あァ。本来は男も女も関係ねェ」
「ちょっと安心した…ナースさん張り切ってるから、わたしもやらなきゃダメかなって思ってて…」
「ルリの事だから、そんな事だろうと思ったよ」
まんま見抜かれていた事に、そしてその上で仕掛けてくれたこのギフトの意味に…高速で回転した思考の着地点は、余りにも自分に都合が良すぎて、大慌てでそれを打ち消す。
解らない振りをしたい訳では無い。
ただ、その先を考えると未だにブレーキがかかる。
「ね…イゾウさん。わたし最近まで特別な日って、苦手だったんです」
ちらりと見れば噛み合った目線で続きを促したイゾウさんは、そんなわたしの内側にも気付いていたのかもしれない。
「もし来年その人とのその日が無かったら、その時に改めて哀しくなるから…だから誕生日も、わたしの中では「おめでとう」より「生きててくれてありがとう」の日だったんですけど…」
過去形にしたのは、勿論意図的。
先を憂いるより、日々を充たしたい。失う怖さを凌駕するだけの、大きなモノを得られるという事を、モビーへ来て知ったから。
まだ全ては無理でも、少しだけ、少しずつ。
「こういう日に乗っかるのも、悪くねェもんだよ」
言いながらイゾウさんは、そっともう一枚花弁を浮かべ、グラスをわたしに差し出した。
「え?あ…」
「な?」
それを受け取ると、くるくると回っていた二つの花弁が一つになって、静かに止まった。
「イゾウさんは凄いなぁ…こんな贅沢な時間を、ありがとです」
「なァ、ルリ…俺もたまには欲張っていいか?」
「…はい?」
なんだか楽しそうな声が近くなり、くるくる絡む花弁と手元に影が落ちる。見上げると同時に、さっとグラスを取り上げられてしまう。
「ルリの事だから、ひと月後にどうしようかまた悩むんだろ?だから…先に貰っとく」
「へ…?あ、……な…イゾウさん…っ!?」
「たまには欲張ってみるのも、悪くねェよな」
わたしのくちびるに移った紅を親指でそっと撫でたイゾウさんは、今日一番楽しそうに笑って、二つのハートを一気に飲み干した。
fin.
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