数ヶ月前から海図と睨めっこして、綿密に航海の計画を立てた。
目指す航路は春島の春〜初夏の海域、つまり船上でも快適に過ごせる季節。
航海士さん達の読み通り、今日は最高のお天気になった。
モビーは朝からいつも以上に慌ただしく、けれど普段と違って華やいでいる。
わたしもずっと駆け回っていて、自分の事はついつい後回しにしてしまっていた。
「おいルリ、急げよい」
「あとちょっと…先に行って下さいっ」
ドアの向こうのマルコ隊長に叫びながら、緩くまとめた髪から散らした後れ毛を挟まないように、慎重に背中のファスナーを上げる。
「やっぱり、イゾウさんに髪を編んで貰えば良かったかなぁ…」
とはいえ直して貰う時間は無いし、準備の途中を見られるのも何だか気恥ずかしい。
大きめのピアスとネックレスを身につけ、イゾウさんに貰った簪を挿す。最後にストールを羽織って久しぶりに引っ張り出したパンプスを履けば、漸く身支度が完了する。
くるり、と鏡の方を向き直ると、たっぷりとしたサテンのスカートがひらりと踊った。
今日モビーでは、クルーとナースさんの結婚式が執り行われる。
新郎新婦とナースさん達以外は、殆ど誰も正装なんてしないからわたしもその積もりだったのに。
「華が足りねえよい」
というマルコ隊長のまさかの一言で、わたしもドレスアップする羽目になってしまった。
スカートの中に忍ばせた愛銃…これだけは譲れなかったけど。
「お待たせです」
「へえ…化けたじゃねえか」
「マルコ隊長が普段通り過ぎなんです」
ぐるり周囲を見渡せば、シルクのスーツ姿が素敵なビスタ隊長、かっちり固めた前髪のサッチ、ハルタもよく見ると普段より光沢の有るシャツを着ている。
つまり隊長たちは、みんな多少なりとも気を遣ってるのだ…マルコ隊長とエースとラクヨウさんを除いて。
(あれ…イゾウさん…?)
気配は有るのに…
家族で溢れかえる甲板を見回すも、なかなかその姿を捉えられなかった。
「あ、ステファン!」
人混みを物ともせず揚々と歩くステファンを見つけ呼ぶと、尻尾を振りながらこちらへ駆けて来る。飾りのつもりなのかマストに巻きつけられていたリボンを一本拝借して、ステファンの首に蝶結びを作った。
「はい、出来たよ。これでステファ…」
「ステファンも粧して貰ったのか?」
聞き慣れた声、間違い様も無い気配。
でもご機嫌にステファンが纏わり付く足元は見慣れない色で。
「え…?イゾウさ、あ、…っ」
その違和感に驚いて顔を上げたら、普段より高くて細いヒールの所為で動いた重心を捉えきれずバランスを崩してしまう。
「何慌ててんだ」
はしっとすかさず掴まれた手をそのまま引かれ立ち上がると、イゾウさんの瞳に映る自分がヒールの高さ分近い。うっかり見つめてしまった視線をしっかり絡め取られ、心臓がきゅうっとなった。
「ありがとです…イゾウさん、それ…」
イゾウさんが羽織っていたのは、誕生日にわたしが贈った着物。それ以外はいつも通り、髪もきっちりと纏められていたけれど、紅は注していなかった。
「俺の場合は地味にする方がいいだろ。色直しした花嫁じゃねェしな」
「…やだ、誰がそんな事言ったんですか?」
「いや?それに、こっちの方がよく映えるんだよ。行くぞ、もう転ぶなよ?」
「映えるって…あ、待って下さい手が…」
家族全員が揃う場所を、手を繋いだまま歩くなんて…
今日はイゾウさんもわたしも普段と違い過ぎて、明らかに人目を引いている。
感じる視線から逃げる様に俯き、若干おぼつかない足元に意識を集中して歩く。
「わ、ふっ…」
その所為で足を止めたイゾウさんに気付かず、ぽふんと背中に突っ込んでしまった。その広さにドキリとしていると、乱れてしまったらしい髪をさらりと直してくれたイゾウさんはクツリと喉で笑い、「また後で、な」と一言だけ残し、隊長たちが並ぶ親父の椅子の側へと、何事も無かったの様に歩いて行った。
それはほんの僅かな距離だったけれど、何かから逃げてる様な、何処かに向かっているかの様な不思議な感覚で。すうっと息を吸い込み呼吸を整えると、1番隊の仲間の居る場所へと足を向けた。
親父を中心に隊長たち、そして全ての家族が揃って見守る中、元は神職だったという家族が式を進行している。神職から海賊なんて、最初に聞いた時は冗談だと思った。モビーには本当にいろんな人が居る。
(綺麗、だなあ…)
キラキラして、眩しかった。
春にしては強い陽射しも、時折跳ねる水飛沫も、勿論花嫁さんも。
誓いの言葉が結ばれ、歓声が上がる。
静かに見守っていた家族が紙吹雪に花吹雪、更にはよく分からない物まで、手当り次第に投げながら一斉に動き出していた。花婿と一緒にラクヨウさんまで胴上げされてるのは、多分花婿が7番隊だから。
その一方でナースさん達が盛り上がり始めたという事は、きっとこれからブーケトスなんだろう。
遠くからわたしを呼ぶ声が聞こえたけれど、喧騒で聞こえない振りをしてその場を離れた。
どうしてか分からない
ただ何もかもが眩し過ぎて
少しだけ目が痛かったから
人の流れに逆らい食堂の扉をそっと開ければ、宴の仕切りの為に下がっていたサッチが目をぱちくりとさせ、ニヤニヤと笑う。
「何でルリがここに居んだよ。ブーケいらねーの?」
花弁まみれの前髪が可笑しくて指差すと、ふるりと頭を一振りしたサッチの周りをひらひらと花弁が舞い落ちる。
「うん、わたしはいいの」
「いいきっかけになんじゃねーの?」
「…っは!?」
差し出されたグラスに口を付けた瞬間そんな事を言われ、げほげほと派手にむせ返って目端に涙が滲む。
文句の一つでもと放ち掛けた言葉は、指示を仰ぐ厨房担当の大きな声にかき消され、直ぐさま踵を返したサッチの背中に小さく手を振る。
きっとこれから朝まで、賑やかな宴が続くのだろう。
ありがとう――いつも家族を支えてくれるサッチにそっと呟いて食堂を出ると、人の少ない船尾へと向かった。
幸せは伝播する
それはもう何度も、家族のお祝い事が有る度に実感して来た事だった。
いつだかマルコ隊長に見せて貰った陸に居るお姉さんも、今日のナースさんも本当に幸せそうでキラキラしていて、思い出すだけで心が暖かくなる。
わたしの幸せ、は…
親父の目指す先まで、共に歩む事。
そこには何一つ偽りは無い。
それ以外を望むのは、贅沢な事?
欲しいモノは奪え――海賊の信条の様なその言葉が頭を過るも、奪ってまで欲しいモノなんて今は浮かばない。でも、奪われたく無い…失いたくないモノは、有る…
手摺に身体を預け、はぁぁ、と大きな溜息を水面に投げ落とした。
こんなおめでたい日に何を考えているんだろう。一人でこんな所に居るからいけないんだ、と波間に消え行く溜息を見詰めていた視線をゆっくりと上げると、ふわりと甘い薫りと共に白くなる視界。
「わっ…」
「ぼんやりして、どうした?」
ぼん!と目の前に現れた花束。
しかもそれは、後ろからわたしを抱え込んだ腕で眼前に差し出され、よくよく見ればブーケの様に見えて…
「イゾウさん、取ったんですか!?」
ナースさん達の気合いは、背中越しでもよく伝わって来ていた。それを押し退けて…?でもまさかそんな…
「まァな……と言いてェ所だが…流石にそれはしねェよ」
イゾウさんがクツクツと肩を震わせて笑う所為で、やわやわと花弁が口元を擽る。
「これは花嫁が持ってた方だ。ルリに渡せだとさ」
そう言われおずおずとブーケに手を伸ばし受け取ると、わたしの手ごとそっと握り直されビクリと肩が揺れる。
忘れてた…わたし、イゾウさんの腕の中に居るんだった…
心なしか緩く抱き締められているのは、もしかしなくてもわたしの服を気遣ってくれているから。こういう些細な優しさが本当に嬉しくて心地良くて、思わず頬が緩む。
その優しさの隙間の中をくるりと回り、イゾウさんに向き合う。
ぽすっとイゾウさんの口元にブーケを押し付けると、少しだけ背伸びをして、ブーケ越しにそっと口付けた。
「ありがとです」
ブーケ一つ分、決して詰められない距離を利用した、今のわたしに出来るギリギリ限界の大冒険。
珍しく目を瞬かせて驚きの表情を貼り付けたイゾウさんにふふっと笑い、その隙にするりと腕から抜け出し駆け出した。
追い付かれるまで、あと数歩。
今度は隙間なく後ろから抱き締められ、逃げる事が出来なくなったわたしは、その距離と自分の行動にただただ赤面して、ブーケに顔を埋めるしか出来なかった。
fin.
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