三千世界の鴉を

眠っている時に見た夢をもし覚えていられたなら、その夢は記憶や思い出に変わって残り続けるだろう。
しかし誰かに忘れられた夢は、一体 何処へ行くのか。

何時もどおり、一行の中で一番早く目覚めたのはトラツグミだった。今回の宿として選んだのは、なんとも小ぢんまりとした旅館である。その割に常 連客が居るようで、部屋を一つ取るのがやっとだった。結局、今回は四人で雑魚寝となったのである。
トラツグミは寝癖を指で梳いて直しながら、僅かに眉間を寄せて溜息をついた。それにしても――この喧しい“いびき”といったら。
眼光だけで他者を黙らせる事もできよう一睨みも、流石に熟睡しているカムイには効かな いようだった。とはいえ、意識がある時でさえも彼相手では効果の程度も知れていようが。
そのまま順ぐりに、未だ夢の中に居る一座の顔を見る。体を丸めて幸せそうに寝入るアビサメ。その幼い指先がしかと掴んでいるのは、隣で目を閉じるトリカブトの着衣だった。

確かなものなんて。
確かなものなんて何一つありはしないのだ。
白み始めた空から零れる光が、室内 を薄く浮かび上がらせていく。明るいとも暗いとも形容できない半端な視界は、いよいよもって現実味を失っていた。
何をもってして現実と夢を分けるのか。
夢の中では“これが現実だ”と疑わず、現実にあっても“きっと夢だ”と思う事態が多々ある。今しがた目覚めたトラツグミが了解するこの現実も、
ひょっとしたら“夢の延長”なのだろうか。そんな荒唐無稽な想像に説得力を 持たせる根拠も無ければ、絶対にそうではないと言い切る論拠も無い。
いずれにせよ何が夢であれ現実であれ、願うのは。

「――主」

この人がどうか。

「……トラツグミ」
「!?」

ふと、何の前触れもなくトリカブトの薄い唇が緩やかに動いた。普段なら、周囲がどれほど騒がしかろうと深く眠り込んでいるはずなのに。しかも呼ばれたのは自分の名だ。
トラツグミ は反射的に口元を手で覆ったが、恐る恐る身を乗り出して主君の許へ近づく。 しかし肝心の相手といえば、動いていたのは口だけのようだった。相変わらず目は閉じているし、身じろぎ一つしていない。
アビサメの手を誤って踏まないよう、よくよく注意して寄って みても、細い息が聞こえるのみだった。
もしかしたら聞き違いだったろうか。
いいや、他の誰かならいざ知らず、トリカブトの声を間違えるはずがない。
腕が痺れそうになるのを堪えながら、上体を支えて寝顔を覗き込み続けていると、僅か、ほんの僅か目蓋の持ち上がるのが見えた。
そこでようやく、思った以上に接近してしまった自らに気づくのだが、狭い室内では咄嗟に飛びのくのも叶わず、そのまま対面する事になってしまう。
喉が渇くのを堪えて、できるだけそっと囁いた。

「あ、主。起きてらしたんです、か?」
「さっき……呼んだだろう」
「あ、う、それは……」
「お前の声が聞こえた」

ああ、そうか。
トラツグミは動揺を極める自身から、不意に剥離した自我で考える。
この人が夢と現実の境を飛び越えて応える理由など、それだけで構わないのだ。

「……主、有難う御座います」

再び閉じていく瞳。主を夢路へと見送りながら、トラツグミは居住まいを正す。
叶うなら、この人がどうか――。

「おやすみなさい」

三千世界の果てまで幸せであります ようにと。

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