『逢魔時』
 
じわりじわりと夜が滲み出す。常世と常夜が交じり合う。形あるモノは曖昧に、形なきモノは……。


 友人宅を出て、家路を辿る。傾いた陽に照らされた道はまだ明るいが、それまで息を潜めていた影が徐々に膨らんでいく。
 唐突にぐいっと袖を引かれて振り返ると、掻練色が目に飛び込んできた。暮れ掛けた周りの景色が薄闇に沈み込むのに対して、鮮やかなそれはひどく不釣り合いに浮いて見える。

「……どこに行くの?」
 幼い声だった。此方の当惑など気にすることもなく、問いかけてくる『それ』は少女の姿をしていた。

「ね、お兄さんにもあれが見える?」
 何度も袖を引く少女の指差す先にはぼんやりとした光が灯っている。
 緩く速く不規則に揺らぐ光は、目を凝らすと一つではなく、幾つもの光が寄り集まっているモノだとわかった。
「蛍かな?」
 袖を掴んだままで、少女は光の方へ歩き出した。振り払う事も出来ず、俺も遅れてついて行く。
「……さぁ、まだ蛍が飛ぶには早いと思うけど」
「蛍、見た事あるの?」
「夏になれば、河原で飛んでるからな」
 自分から尋ねたわりにさほど興味がないのか、ふぅん…と漏らし、すたすたと先に進んだ。そして少し考え込むように立ち止まると、振り向いた。
「蛍って、綺麗?」
 真っ直ぐな視線に戸惑う。
「……綺麗、だと思う」
「良かった」
 少女の背後で明滅を繰り返す光がさっきより近くて多い。遠く見えていた時には気付かなかったが、光自体が澱んでいる。
「蛍っていうの」
「え?」
「私の名前」

 ざわり…、ぞわり……。
 のた打つようにうねり、蠢く澱んだ光が此方を目指して来ていた。虫の羽音のようなモノに混ざって嗄れた呟きも聴こえる。

‐ナマエヲオクレ
‐カタチヲオクレ
‐オマエヲオクレ

 今にも少女が光に飲み込まれそうで、とっさに手を引き後ろに飛び退いた。勢いがついて、少女を抱き留めたままの格好で背中から倒れ込んでしまった。天地が逆転し、濃紺の空が視界に広がる。まだ西の空に残っていた夕陽がちょうど消えるところだった。

 ふつり……と、羽音のようなモノも呟きも途絶えた。澱んだ光も消えた。
 ただ、昇ったばかりの月が凛とした光を放っていた。

 あのね、と、少女が云う。
「時々、夕方に見えるの。向こう側からこっちに出ようとしてるんだって、婆ちゃんが云ってた」
「向こう側?」
 先に起き上がった少女が、俺の手を引く。
「よくわからないけど、たまに線路が見えるの。その向こう側だと思う」
 ほら、と少女が指を差す。俺が歩いて来た道の先、月明かりの中に確かに線路が見えた。

「お兄さんも向こう側から来たんでしょ?お兄さんが歩いて行くのも、時々見えてたもの」


 こんな時間に境界線を越えたり、落とし物なんか拾いなさんなよ、お前さん、お人好しの上に惹かれやすい質だから。
 友人の顔を思い出す。ニヤリと笑ってからかうようにそう云った。


「日が沈んでちょっとしたら光も消えて、線路も見えなくなっちゃうし…全然怖くないんだけど、婆ちゃんは魔に惹かれるから見ちゃいけないって云ってたの」
 つまらなそうに線路の方を見て話す少女が、少し寂しそうに見える。

「…ね、お兄さんは誰なの?どこに行くの?」
「俺…?」
 俺の袖を掴んだ手に力が籠もるのが伝わってきた。
「向こう側に…帰っちゃうの?」
「…家に帰るだけだ」
「私も、行っちゃ駄目かなぁ?」
 振り絞るように呟くのが聴こえた。
「…お前、自分の家に帰らないのか?」
「もう婆ちゃん、いなくて、帰るところ…ないから」
 袖を掴んだ力は少女の精一杯なのだろうけど、それはか弱いものだった。振り払う事は簡単で、同時にすごく難しい。

「朧」
「おぼろ…?」
「俺の名前」
 不思議そうに見上げてくる少女の頭に手を乗せた。
 ずっとずっと昔、誰かが俺にしてくれたように。
「…これからは、簡単に名前を明かすんじゃない」
「え?」
「名前には力がある、名前を明かせば繋がりが出来る。それは良い繋がりばかりじゃない…。昔、そう教えられた」
 まだよくわからないというような顔をしている少女の手を引いて歩き出す。
「ほら、帰ろう…蛍」
 少し間を置いて、手を握り返した少女は大きく頷いた。


 じわりじわりと夜が滲み出す。常世と常夜が交じり合う。
 鬼が人の子連れ帰り、人の子角なし鬼になる。

‐終‐





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