昔々のお話です。
ある所に貧しい村がありました。山の間に縮こまるようにあるその村に、本当に貧しい水飲み百姓がいました。
男は気も体も弱く、しょっちゅう寝込んで仕事をしませんでしたので、男の子供たちはいつも腹を減らしておりました。
とりわけ、一番上の男の子は自分の飯も小さな兄弟に分けさせられるので、ひどく痩せっぽちでした。
というのも、男の妻は後添えで、兄弟たちと血の繋がらない男の子は、冷たくされていたのでした。
寂しい思いをしながらも、男の子はおっ母さんが好きでしたので、文句も言わず、熱心に仕事の手伝いをしました。
そうしてとある年の冬、おっ母さんが病にかかりました。
みるみる内に調子が悪くなり、ついに床から起き上がることさえ出来なくなりました。
男の子が色々と世話をしていましたが、医者にかかる金も、薬を買う金も無いので、他にどうすることもできません。金を借りるあてもありません。
日に日に顔色の悪くなる母を案じて、男の子は夜も眠れませんでした。
するとある夜、父と母がぼそぼそと、男の子をどこか奉公に出そう、という話をするのが聞こえました。
確かに、男の子が奉公に行けば、薬を買えるでしょう。
しかし、雪で深く閉ざされてしまったこの村では、それも後一月程待たなくてはいけませんでした。
その間におっ母さんが死んでしまったらどうしよう、と考えると、男の子の痩せこけた頬を涙が伝います。
その時、部屋の隅の暗がりから、嗄れた声が聞こえました。
お前の持っているあるものをくれたのならば私が薬を用立てよう、と。
その声が何者なのかは分かりませんでしたが、不思議と恐ろしくは思いませんでした。そんなことも気にならないくらい、男の子は藁にもすがる思いでした。
本当かい、と尋ねると、声は明日の朝までに必ず用意する、と言いました。
その声の言うあるものが何かは見当が付きませんでしたが、どうせ自分の持っているものなどたかが知れる、と思ったので、男の子は薬が欲しい、と声に向かって言いました。
すると、それっきり声と共に気配はさっぱり消えてしまいました。
男の子は不安になりながらも、恐々眠りにつきました。
次の朝、まだ薄暗い内に目を覚ますと、男の子の枕元にちょん、と小さな包みが置いてありました。手に取ると、微かに薬の匂い。
約束は果たしたぞ、と部屋の隅の暗がりが言うと、生ぬるい風が全身を包んで、何処かに吹き抜けて行きました。
男の子は居ても立っても居られず、母の元へ行きました。
弱々しく息をする母の口にそっと薬を飲ませると、にわかにその頬に赤みが差しました。冷たかった指の先も、ほんのりと温かくなっています。
おっ母さん、と呼び掛けると、母はそっと目を開けました。そして、まじまじ男の子の顔を見ると、悲鳴をあげて後ずさりました。
その声を聞きつけて、父や小さな弟たちもやって来ました。父は恐ろしい顔で、男の子を掴み上げて、雪の積もった外へと放り出しました。
男の子が戸に縋っても、誰も開けてはくれません。
訳も分からず、流れる涙を拭いながら、男の子はとぼとぼと当ても無く歩き出しました。
何か悪いことをしただろうか、おっ母さんはそんなに自分が嫌いだろうか、と。
考える内に、男の子は恐ろしいことに気が付きました。
自分の腕にはこんなに肉が付いていただろうか。肌はもっと浅黒くなかっただろうか。裸足で雪の上を歩いているのに、ちっとも凍えないのはどうしてだろうか。
急に恐ろしくなって川に行くと、川面には別人の顔になった自分が映っていました。どこを取っても、自分の顔ではありません。
くすくすくす、と後ろから笑い声が聞こえます。振り返ると、男の子の顔をした誰かが笑っています。
確かに貰い受けた、と誰かは言いました。あの嗄れた声です。
それを聞き終わらぬ内に、男の子はどこかへ逃げ出しました。
その後、彼を見た者は誰もいなかったそうです。

「……もう、おしまい?」
「ああ。これで、おしまい。はい、ちょんちょん、てねェ」
青年は優しそうに微笑みながら、拍子木を打つ真似をした。
その様子が何だかおかしくて、お恵はくすくすと笑ってしまった。
お恵は紙問屋に奉公に出されたばかりだ。
店で使われている小僧たちは、お恵と大分年が離れているし、女手はお恵の他には通いの婆さんが一人ぎりだ。
旦那さまは、まだ幼いお恵が早く仕事を覚えるようにと、手代の勘助に世話を見させるようにしてくれた。
最初こそ、年の離れた勘助が意地悪をしないかと怯えたりもしたが、むしろ何かと世話を焼いて実の妹のように可愛がってくれた。お恵も、勘助を兄さんと呼んで犬ころのように後を着いて回った。
お恵が中々寝付けないでいると、色んな話もしてくれる。
今夜のように凍える夜には、一緒の布団でぬくぬくと話を聞くのが、何よりも楽しみだった。
「今日のお話は、なんだか尻切れとんぼみたい」
「おや、気に入らなかったかね」
「ううん。でも、少し悲しいお話ね。男の子はどうして別の顔になっちゃったの?」
「そりゃあ、声の主に取って代わられちまったんだよ。かあいそうにねぇ」
「それは、おばけ?」
「きっとね。そんな悪さをするんだもの」
お恵はすぅっと背筋が寒くなった。まるで氷を当てられているようだ。
寝る前だというのに、こんな話を聞かせた勘助を少し恨んだ。厠に一人で行けるだろうか。
「なぁに、怖がることはないよ。暗がりが何か喋っても、耳を塞いで答えなきゃいいのさ」
「……本当に?」
「そうさ。怖いんなら耳を押さえて寝ちまいな。すぐに朝が来る」
ぽんぽん、と大きな手がお恵の頭を撫でた。じんわりと温かい手だった。
「ねぇ、兄さんは暗がりがしゃべるのを
聞いたことがある?」
思い付きだった。けれど、そう尋ねてからお恵はしまった、と思った。
勘助はどこか悲しい顔で微笑んだからだ。頑是無い子供ですら分かる、余りに寂しげな表情だった。
「実はね、この話の男の子は私のことなのさ。随分昔にあった、本当の事だよ」
静かにそう言う勘助に、お恵は何も言えなかった。どうしよう。こんなに大事な秘密をうっかり掘り起こしてしまったような――。
「なぁーんてね」
そう言って、勘助はけらけらと笑った。その豹変ぶりに、お恵は驚きと怒りと安堵とが、綯い交ぜになった気分だった。
「ちょいと、からかっただけだよぅ。お前があんまりにも可愛いからね」
「もうっ、兄さんのばか」
「はいはい、御免よぅ。許しておくれ」
勘助は大きな――お恵の紅葉のような手よりも――手で、お恵の丸い頬をそっと撫でると、夜着をそっと被せてくれた。
その上からぽんぽん、と軽く叩く手の感触が心地良い。
ゆっくりと瞼が降りてくる。お恵たちの朝は早いのだ。旦那さまに叱られないようにしっかり働かなくては。
しかし、お恵の胸にはまだもやもやと問いがわだかまっている。
さっきのお話、本当に兄さんのことなんでしょう。
聞きたい。けれど、聞いてはいけない。その問いを喉元に引っ掛けたまま、お恵は静かな寝息を立てた。






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