男は駆けていた。
若さの中に一片のあどけなさの残る、顔立ちの良い侍だった。
男は薄ぼんやりとした記憶の底にある、朽ち果てた廃寺を目指していた。
右手に引っ提げた刀からは、生温い血がぽたぽたと滴っている。
刀を鞘に収めることすら忘れていた。ちらりと見る刀身には、砂埃が纏わり付いている。
――此処まで来れば。
辺りを見回しても、誰かが追って来ている気配は無い。
大きく息をついて、男は手頃な藪の陰に座り込んだ。手も脚も疲れ切っていて、鈍い痛みがじくじくと湧いてきた。
ぺたりと顔に手をやると、かさかさに乾いた血の欠片がはらりと落ちた。
男は荒い息と不安を落ち着けるために、膝を抱えて顔を埋めた。
――どうして。
どうしてこんな事になったのだろう、と男は自問した。しかし、肝心な記憶は酷く朧気だった。ずきずきと痛む頭で考えると、女の影と廓の光をちらりと思い出した。きっと、つまらない諍いだったのだろう。男はまるで他人事のように、そう思った。そんなものの為に、人を斬ったことも忘れて。
懐に違和感を感じて探ると、一通の手紙があった。取り出して広げると、女の文字と、名も知らぬ香袋の香り。あの女だ。前は美しいと思えた手筋が、今はのたうつ蛇に見えた。
見てくればかりは美しい、そんな女だった。それを愛した自分が愚かしく見えて、思わず自嘲の笑みが漏れた。
取り出した文は男にとって何の価値も無かったが、破り捨てることは何と無く躊躇われて、結局元のように綺麗に畳んで、また懐へ仕舞った。
「おい、あんた怪我してるのか」
突然、背後から声がしたので、男は刀を構えたまま振り返った。
相手の顔を見ぬまま思い切り斬りつける。刃が肉にめり込む感触にはうんざりしたが、背に腹は変えられないと思った。
しかし、男がどうやら、此処もそろそろ危ないようだ、と溜め息をついた瞬間だった。
「おお、痛い。酷いことをするじゃあないか」
先程、斬りつけた筈の人物が、むくりと起き上がってそう言った。ちょっと何処かでつまづいたような、何でもないような様子だった。
男は心底驚いて、刀を放り出して後ずさった。
「着物が裂けちまった。ひでぇことしやがるなぁ。私はただ、声をかけただけだろ」
声の主は、何処かの手代のような青年だった。細い目、年は二十ほど。簡易な旅姿で、荷を担いでいる。
傷に目をやると、墨のように黒い血がじわりと滲み出すだけである。
本当ならば、今頃虫の息の筈だ。平然としている訳がない。
それなら、目の前のこの青年は何だ。きっと、人ではない。何か、違うものだ。
だが、不思議と恐ろしさはない。異形と言うにはあまりにも、その気配が薄っぺらだった。
「ほら、水だ。飲んだら落ち着くだろう。もう、斬りつけないでくれよ」
――何を考えているのかわからない。
投げかけられた竹の水筒に口をつけながら、男はそう思った。
普通、血刀を手にした男に会えば、一目散に逃げて行くだろう。少なくとも、こうして容易に情けを振りまく相手ではない筈だ。
もしや、水に毒でも入れてあるのだろうか。しかし、そんなことをしても得は無いし、そもそも水を飲む男には何の異変も起きていない。
それとも、人には通じない理屈の上でこうしているのだろうか。化け物には化け物の理があるのかもしれない。
「何故……助ける」
「だから、声をかけただけだ。あんたがまさか、人を斬ったなんてわからなかったからな」
「嘘を言うな!この刀が見えなかった訳ではあるまい」
それを聞いて、青年はふふ、と笑った。
男の必死な様子が、逆に滑稽に映ったのだろうか。
「私は、そういうものには鈍いタチなんだ。気付かなかった。本当だよ」
「ならば、もう捨て置け。水の恩は忘れぬ。さっさと元来た道を引き返せ」
「――いや、そういう訳にもいかなくなった」
青年はにっ、と笑って、あんたから美味そうな匂いがする、と言った。
男はそこでようやく、背中の毛が逆立つのを感じた。
人の姿をしているとはいえ、本性は知れないものなのだ。小役人どもに捕まり生き恥を晒すのも、腹を切るのも、首を切られるのも御免だと思っていたが、化け物に喰われるという悍ましい最期だけは嫌だった。
思わず刀を構えたが、柄を握る手はみっともないくらいに震えていた。
情けない。人を斬った癖に、目の前にいる平凡な男が恐ろしいのだ。
「おいおい、何もあんたを食おうっていう話じゃないんだ。そう怯えなさんな」
「化け物の言うことなど信用出来ぬ」
「成る程。化け物、か。確かに私は人じゃあないが、お店奉公の身。商いの片手間に人を食うなんて器用な真似、例え出来たってやらないよ」
ふふふ、と青年は楽しげに笑った。
「私が欲しいのは、あんたの懐にあるその文さ」
隠した文を見抜かれてどきりとした。この青年の前で、一度たりとも文の存在を匂わせたことなど無いのに。
「――よく分かったな」
「女の文だろう。匂いがする。人の肉なんかより、ずっと美味そうな匂いだ」
「お前はこんな物を食べるのか」
人のような姿の癖に気味の悪い、と男は吐き捨てた。
「気味が悪いのはお互い様さ。山中で血刀引っ提げるなんてねぇ」
男はそこで漸く、己の酷い姿に気が付いた。
着物には乾いて赤黒くなった血が彼方此方に染みていて、その上枝に引っ掛けたのか、所々ほつれて穴が空いていた。
足元は泥と砂にまみれているし、鬢も崩れてきている。
ーー確かに、気味の悪い。
これでは、幽鬼に間違われたとて、仕方無い。思わず自嘲の笑みが漏れた。
「……言ってくれるな。良かろう。文はくれてやる。煮るなり焼くなり、好きにしろ」
青年は顔を綻ばせて、どうも、と文を受け取り、かさり、と音を立てて文を開くと、始めから終わりまでじっくりと眺めて、懐から箸を取り出した。つやつやとした黒い塗り箸だった。
そして、そのまま箸を文に押し付けると、不思議なことに、紙の表面がゆらゆらと崩れた。まるで水面のような其処を暫くまさぐると、形の定まらない黒い靄のようなものをつまみ上げた。
嗚呼、あれがきっと文の中身だ、と男は思った。じっと見つめていると、文字に見えないこともない。
青年は、男の視線など気にも留めず、文の海から文字を拾い上げては、その口へ運んで行く。
それを見て、この世から文が消えて行くのを、男は肌で感じていた。
目の前で行われる奇妙な食事には何の感情も抱けない。ただ、一時でも愛し、そして憎んだ、あの女との繋がりが、淡雪のように失われているのを理解しただけだった。それは、心から望んでいた筈の事なのに、何故か魂にぽっかりと穴が空いたようだった。この感情を何と呼ぶのか、男は知らなかった。
みるみる内に白蛇の如き文字は青年の口へ消え失せ、後には真っさらな紙一枚だけが残された。
「ご馳走様。あんたのお陰で、五日は飢えずに済みそうだ」
青年はにこりと笑って、男の肩を軽く叩いた。
「……お前、名は」
男は暫し放心していたが、消え入るような声でそう聞いた。
突然の問いに青年はちょっとばかり面食らったようだったが、素直に答えた。
「寒月」
「大層な名だな」
「まあ、普段は勘助、と名乗っているんだが」
「お前は何だ。人か、化け物か」
男はぽつぽつと放るように言った。他に伝えるべきことは沢山あるような気がしたが、鈍い疲れのせいで上手く考えられなかった。
「かつては、人だった。今は、ただのあやかし、さ」
「……そうか」
青年――寒月のどこか晴れ晴れとした口調を聞いて、男は何故か穏やかな気分だった。
人を斬った事実は消えず、その火種が下らない痴話喧嘩であったことも変わらない。しかし、その原因は、あの文は、この世から欠片も残らず消え去ったのだ。
もう、悲しみも熱情も、憎悪も嫉妬も、抱けない。いや、忘れてしまった。
生を捨て去る気分では無いが、死はもはや忌み嫌うものでもなくなった。
男の胸中には、よく分からない靄だけが、埋み火のように残るばかりだった。
「それで、あんたはどうするんだ。この先には坊主のいない寺しか無いがーー」
「さあな。気が変わった。道を戻るさ」
「捕まるぞ。いいのかい」
「捕らえられれば、それまで。逃げ果せたなら、それはそれ、だな」
「卑怯だな。お武家の風上にも置けないねぇ」
「ふん。何とでも言え」
来た道へ一歩踏み出した男は、いつの間にか平生の調子に戻っている自分に気が付いた。まるで、憑き物が落ちたようだった。
「――おい、寒月」
振り返って、逆の道を行く寒月に声を掛けた。寒月は、不思議そうな顔で男を見やった。
「礼を言う。貴様のお陰で、鬼に成り果てずに済んだぞ」
男の言葉に、寒月は右手をひらりと振ったのみだった。そして、何を言うでもなく、何処かへ向かってさっさと歩き出して行った。
――もう二度と会うことは無いであろう。
男はその姿が小さな点になるまで見送って、やがて来た道をゆっくりと戻って行った。






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