突然雨に降られたのはまったくの不運であった。
書物を買いに町へ出たは良いが、帰ろうとした瞬間黒い雲が湧き出るや否や雨粒が埃っぽい地面を潤した。
やっとの思いで駅舎へ辿り着くことが出来たが、傘がない。何とか書は守ることが出来たが、家までもつだろうか。

「いやあ、降られましたなあ」
そんなことを考えていると、陽気な声が聞こえた。
振り向くと、私と同じように突然の夕立に捕まったのだろう男が立っていた。
「あと少し、という所で夕立でして。いや、災難でした」
その姿を見て、不思議な男だと思った。
年の頃は不惑を越した辺りか。しかしもっと若くも見える。
半袖の開襟に鼠色のズボンに鳥打ち帽をかぶっている。足元は草履で、泥に汚れて滑稽な感じがする。
奇妙なのは男が背負っている物だった。
トランクに革のベルトを付け、縦にして背負っている。
薬売りかと思ったが、何かがおかしい。行商にしてもどこか軽装だ。
「失礼ですが、貴方は薬売りの方ですか」
私の好奇心はむくむくと膨れ上がり、思わずそう問いかけていた。
男は細い目を更に細めて、猫のように笑った。
「本業は本屋です。田舎を回りまして、本やら小間物やらを売ります」
「そうですか。いや、浅学なものですから失礼な質問をいたしました」
「構いませんよ。旦那さんのような方には、ご縁のない商売です」
男は軽く笑うと手拭いを取り出し、針のような黒髪を拭いた。
私も自分が濡れ鼠であることを思い出し、手拭いを取り出したが書の方が心配になった。
「おや、本ですね。濡れては困りましょう。油紙をお使いになりますか」
私がじっと本を眺めていると、男はにこやかに言った。
宜しく頼むよ、と言うと慣れた手つきで書を包んでいく。成程、流石は本屋だと思った。
「これで宜しいでしょう」
「ああ、ありがとう」
「旦那さん、妖怪画に興味がおありですか」
包みを渡しながら、男は笑って言った。
「ははは、ばれてしまいましたか。人様に言える趣味ではないですが、妖怪画というと黄表紙だろうと錦絵だろうと、欲しくなってしまう質でして」
「私もたまに扱います。あまり売れはしませんが」
男はトランクを背から下ろすと、ベンチに腰掛けた。
「今丁度一冊ありますが、どうでしょう。お安くしますよ」
男がトランクから取り出したのは、私の知らない書であった。まだ懐に余裕があったので、喜んで買った。
「しかし、これほど好きな方は珍しい。何か訳がおありで」
「他愛もない話です。私は若狭の出ですが、あすこには八百比丘尼の話が残っているでしょう。子供の時からそういう話が大好きでね、知命を前にしてこの様です」
「ほう。人魚ですか。あれは美しいものですが、食われてしまっては哀れな話です」
「人魚を見たことがありますか」
「ええ。木乃伊ではなく本物をね」
大方、見世物小屋か何かだろうと思った。しかし、この口ぶりでは、冗談なのか本気なのか分からない。
「貴方は面白い方だ。人魚というのは御伽話だと思っていたが」
「彼女らには海の底へ行けば会えますよ。ああ、陸へ上がった人魚の子もいます。私の甥が一緒に暮らしていまして、可愛らしい姪のようなものです」
「それは本当の話ですか」
「おや。気付きませんか。貴方だって昔は見えていたでしょう」
「何の話ですか」
「そら、その絵巻にだって描かれている。異形の者らはすぐ其処にだって」
糸のように細められた男の目が、薄い唇が、年齢の読み取れないその顔が、不意に恐ろしく感じた。
この男はヒトだろうか。それとも別の何かだろうか。
ざあざあ、と途切れるように雨の音が聞こえる。
「じ、冗談はやめたまえ」
「真実ですよ。見ようとすれば、見えてくる」
ぼおおおぉ、と獣のような唸りが遠くで聞こえた。汽車だ。
私は安心した。汽車が来るのなら、ここは異界ではない。
がしゃん、と鉄の鳴る音がする。しかし妙だ。降りる者がいない。
それどころか、汽車からは何の音も聞こえない。車内は墨で塗り潰されたように、何も見ることが出来ない。
「これは貴方の乗るものじゃあ、ありません」
男は一歩、漆黒の汽車に近付いた。その顔には猫のような笑顔が浮かんでいる。
「貴方がもし、本当の妖怪に会いたいのなら何時でも来て下さい」
そう言って男は何かを書き付けた紙を寄越した。
其処には癖のある字で前崎寒月、という名前と住所が記してあった。
「では、私はこれで。貴方はこの後に来る汽車にお乗りなさい」
前崎は、振り返ることなく汽車に乗った。やはり車内は見えなかった。
やがて汽車は動き出した。車掌らしき男が帽子を上げこちらに会釈したが、その顔は一つ目であった。

それからどうやって家に帰ったのかは覚えていない。
その時だけは、ひどく恐ろしかった。
しかし、妖怪画の蒐集も止めることはなく、あの日のことはまるで夢のように頭の片隅に残っているだけだ。妻にも子にも話してはいない。
前崎の残した紙は机の中に眠ったままだ。

貴方だって昔は見えていたでしょう。

あの、前崎の言葉はまだ私の心を捕えて離さない。
何時か、きっと私は彼を訪ねるだろう。
それが恐ろしくも甘美なものだから、私はまだあの紙を捨てられずにいるのだった。





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