夢を見た。

私は見知らぬ辻の傍らで、一人ぽつんと佇んでいる。土ぼこりの舞う、田舎臭い道である。
空には鉛の色をした雲がまだらに立ち込め、風は何と無く生臭く、また生ぬるい。
私は何をするでもなく、ただ辻だけを見つめている。案外、往来は盛んである。
天秤棒を担いだ者。風呂敷包みを背負った者。大八車を牽く者。幼子の手を引く女。杖をつく老爺。懐手の若い男。様々な人間が、忙しなく行き交っている。
しかし、がやがやと過ぎ去るそれらに混じって、異形の者たちも行き来するのが見える。
犬の頭の男、赤い蹴出しから覘く毛むくじゃらの足、影の女、跳ね回る獣。
見てはいけない、と己に言い聞かせるのだが、目を離すことも顔を背けることも出来ない。牛の居ない牛車が通る。車輪の顔が微笑みかける。琴が、琵琶が、物狂いのように駆けずり回る。青い炎が羽虫のように飛び回る。生首の塊が物陰から此方を窺っている。あれは何だ。人か、獣か。
ああ、何と恐ろしい――。
私は、何処か他人事のようにそう思った。まるで、現実味が無い。夢なのだから、当然の話ではあるのだが。
ふと足元に目を落とすと、傷だらけの脛が映る。しかも、私の愛用する革靴ではなく、ぼろぼろの草履を履いている。其処から伸びる足は棒のように細い。そういえば、地面が平素より、ぐんと近く感じる。どうしたことであろう。
掌を顔の前に翳す。何と、小さい。漸く、私は今、子供の姿に戻っているのだと気付いた。不思議なことだが、何せ夢であるのだから、そういう事も起きるだろう。
子供になってしまえば、何と無く身体が軽いように感じる。得体の知れない感情が湧き上がる。突き動かされる。走り出したい。何処までも駆け出したくなる。この辻は何処へと通じているのだろうか。走って行って確かめたい気がしたけれど、何故だかその行為は躊躇われた。
辻へと足を踏み入れぬようにして、右手の彼方を窺う。すると、何やら賑々しい音が近付いてくる。
高い笛の音に、陽気な太鼓の拍子。お囃子が、人々の明るく叫ぶ声に混じって聴こえる。みるみる内にそれは姿を現した。祭りだ。色とりどりの衣を纏った者らが跳ね踊っている。
一見するとそれらは人であるようだが、顔の部分は、文字とも記号ともつかない何かが書かれた、真っ白な薄布で隠されている。陽気なそれらは、狂乱に身を任せて跳ね踊る。美しく染め抜かれた、色鮮やかな布を振りかざす者や、籠を抱えて花を振り撒く者までいる。
手が足が、躍動している。皆、思うがままに体を動かしている。だが、顔に掛けた布の所為で、ひどくのっぺりとした印象を受ける。表情が分からないので、薄気味悪くも、滑稽でもある。
やがて、神輿が近付いてきた。いやに物々しい、豪奢な輿だ。漆は濡れたように艶やかに光り、金の細工は日の光を鈍く反射し、面布の者たちがばら撒く札や色紙の間から、きらきらとした輝きが見える。
この神輿にも、鮮やかな布が幾重にも吊り下がっている。風と人々の動きに煽られて、まるで金魚のように揺らめいた。
色彩はまるで濁流となり、私の視界へと流れ込む。ちかちかと瞬くような、酔っているような、不思議な心持ちだ。子供になってしまったから、何もかもが眩しく見えるのだろうか。祭りの一団が私の前を通り過ぎてしまった後も、私は暫く惚けたようにぼうっ、と立ち尽くしていた。何か、荒々しいものに揉みくちゃにされたような、奇妙な高揚感と脱力感が燻る心持ちだった。
余韻の尾っぽが漸く私の頬を掠めて行った時、今度は先程のものとはまた違う、何かの群れがやって来た。
しゃりん、と金属が涼やかに鳴り響く。鈴の音とも少し趣きの違う、透き通るような音だ。遠くで鳴り響いている筈のそれは、波のようにうねり、私の耳朶を震わせた。
いつの間にやら、辺りが仄暗くなっている。真っ暗闇ではなく、物の判別がし難いような曖昧な暗さだった。彼方を窺うと、ぼんやりと瞬くような灯りが一つ、遠くに見える。橙色のそれは、周りの薄闇と溶けるように混じり合っていた。
しゃりん、と再び音が響く。それに合わせて、大勢の人間が一斉に土を踏むような音も聞こえる。
待っていると、薄墨をはいたような闇に、真っ白な何かが浮かび上がるようにして現れた。暫く眺めていると、それが神官なのだと分かった。白い直衣の袂を揺らし、一歩一歩此方に近付いてくる。
先程の灯りは、彼の持つ提灯だった。真ん丸の提灯には見たこともない紋が染め抜かれ、顔にも同じ紋の入った布が掛けられている。
そして、その後ろにも等間隔に灯りが見えたので、私はこれが何かの行列なのだと気が付いた。
薄闇の中に、頼りない灯りに照らされた、僅かな色が浮かび上がる。先程の祭りとはまるで違う、凍えるような静けさだった。
只々、ゆっくりと、そして厳かな空気で、行列は進む。
神官の後ろには、同じような装束の者たちがしばらく続いている。そして、その後ろからは、古の女官の如き女たちがやって来る。勿論、顔は面布に覆われて見ることは出来ない。
時折響くあの玲瓏たる音色は、緋袴の女達が打ち鳴らす、見知らぬ楽器が奏でたものであった。天女の楽というものが有るのならば、これがきっとそうなのだろう。
しゃりん、という音が辻を抜けて行った頃、女たちに続いて丹塗りの輿が浮かび上がるように現れた。輿に乗っている人物は、雪のような着物を着ている。白無垢だ。私はここで漸く、この行列が嫁入り行列であると気が付いた。
しかし肝心の花嫁の顔は、綿帽子で遮られてよく見えない。ただ、白粉をはたいた肌と、真っ赤な紅を差した唇ばかりが目に焼き付いた。そして、花嫁に仕える者たちだろうか。華々しい衣装の女たちが、花の枝を手にしずしずと、輿の後ろに続いていた。
何と無く、花嫁の顔を見てはいけないような気がして、輿が通り過ぎる間、私はずっと下を向いていた。何故だか、その顔を少しでも見たら、大変なことになる予感がしたからだ。
足元を沢山の人の足が行き過ぎていく。土を踏む乾いた音と、私の呼吸の音ばかりが聞こえる。もう行ってしまっただろうか。顔を上げると、丹塗りの輿は随分遠くへ過ぎ、今は挟箱や長持ちを担いだ男たちが、目の前を歩いていた。
これだけの荷担ぎがいるのだ、花嫁はきっとやんごとない方なのだろう。だらだらと長く連なる中間たちの、最後の一人が辻を過ぎた時、私は思わず溜息を漏らした。
最早、辻には人の気配は無い。夜の帳はすっかり落ちて、一寸先さえ見えない。だが、不思議と恐怖は感じなかった。虫の声だけが響くこの場所に一人佇むのも、悪くはない気分だった。
息をする度、冷え冷えとした闇が肺腑を満たしていくような心持ちだった。都会には無い。冴え渡った空気だ。夢とはいえ、何時迄も此処に居たいと思った。
どの位、そうしていただろう。辻の向からいに目を凝らすと、ぱちぱちと小さな火花が見えた。それはあっという間に微かな火に、そして炎になり、蛇のような動きで闇を駆け抜けた。瞬く間に辺りは昼間のような明るさになった。先程の炎は篝火であった。辻の向かいには立派な塀が、そしてぞっとするように精緻な細工の施された門が、真っ赤に照らし出された。
その門の前に、一人の女が立っている。何かで見た、往古の貴婦人のような、壺装束である。顔をすっぽりと覆う薄布の間から、不吉なまでに赤々とした唇がにこりと笑っている。
女は、私の方を向いて、手招きを始めた。色とりどりの袂を押さえると、白くふっくらとした腕が、肘まで露わになった。私はその腕に、母の面影を見た。乳の匂いが、故郷の家が、ぱっと脳裏に浮かんで消えた。郷愁が湧き上がる。今、子供となった私ならば、きっと抱き締めて貰えるだろう。あの柔らかそうな腕の感触を思うと、胸がざわざわと掻き立てられる。呼ばれているのだ。行かなくては。
しかし、一歩辻へと踏み出した瞬間、何者かに腕を掴まれた。子供の私は、思いがけない強い力に、転ばされてしまった。背後を睨むと、四十手前ぐらいの見知らぬ男が、険しい顔で私を見ていた。
「彼方はあんたの行くところじゃあないよ。さっさと帰った方が身のためだ」
この男は誰だ。何処から現れたのだ。
青年のようでもあり、老人のようでもある奇妙な声に、私は一瞬怯んだが、直ぐに怒りがこみ上げてきた。一体、何の理由があって私を引き止めるのであろうか。私は向こうへ、あの女の元へ帰りたいのだ。それは抗い難い衝動であった。
「向こうに行ったら、帰って来れない。戻った方が良いだろう」
顔についた土を拭って走り出したいのだが、開襟シャツから伸びた男の手は、がっちりと私の着物の襟を捉えて離さない。私は訳も分からずばたばたともがくしかなかった。
相変わらず、女は白い腕をゆらゆらと揺らして、私を誘っている。炎に照らされるその腕を見ていると、目が離せなくなる。私は彼処に行かなくてはならないのだ。それが道理だ。駆け出して、あの女の胸に抱かれたい。私の脳髄は唯その一点にのみ支配されている。
一瞬、ほんの刹那、男の力が緩んだ。私はその瞬間、殆ど獣のように体をよじって、辻へと足を踏み入れた。
其の儘、数歩駆けて振り返る。男と私との間には、いつの間にか赤い彼岸花が境界線のように咲き乱れていた。闇の中、篝火に照らされて、花は怪しく輝いている。
男は、何処か悲しそうな顔で私を見ている。その後ろには、ぼろぼろに朽ちた門が、ぽっかりと口を開けている。奥が知れない程、深い闇が其処にあった。恐ろしい。しかし懐かしくもあった。
戻ろうか、と一瞬迷う。あの門を越えれば、私は目を醒ますだろう。しかし風に揺れる彼岸花が私を嘲笑う。私はもうこの境を越えることが出来ぬ。辻を過ぎてしまったのなら、もう二度と戻れまい。先程の男の言葉が、真実なのだと漸く悟ったが、後悔は無い。女の腕は、今や私にとって甘美なる蜜のようなものと化していた。あの、ふっくらとしたものに抱かれたい。零れる吐息に触れてみたい。嗚呼、母さん。帰ってきました。ただいま、ただいま。
訳も無く笑顔になる。そうだ。私は幸福な夢を見ている。何を躊躇う事があるだろう。これは夢なのだから。
私はただ一切を投げ打って、女の元へと駆け込んだ。

或る夏の昼下がり。銀座の交差点でのことであった。
何か重いものが倒れ込む音がして、パナマ帽がころころと転がって行く。
男だ。白い背広にぴかぴかの革靴。立派な身なりも構わずに、道路に横倒しになったまま、ぴくりとも動かない。
俄かに周囲の人間が騒然となった。老紳士が肩を叩いて呼び掛けるが、反応は無い。ただ、惚けたように目を半開きにして、ぐったりとしている。医者を、と叫んで若い男が何処かへ走って行った。
人垣から少し離れるようにして、その様子をじっと窺う男がいる。革トランクに似た荷を背に担いでいる、四十手前の男だった。怒っているような、悲しんでいるような、複雑な顔で群衆を見つめている。
「こりゃあ、何の騒ぎで」
野次馬が一人、男に声を掛けた。隠し切れない好奇心が表情の彼方此方から、こぼれ落ちている。
「なに、立派な格好の御仁が、いきなり倒れたようですよ。さっき、若いのが医者を呼びに行った所です」
「へぇ、そりゃ大変だ。卒中かね」
「どうでしょうね。本当に、こうも暑いとどうしようもない」
そう言うと、男は紙巻に火を付けて、一筋煙を吐き出した。その時、煙にまかれた何かがもぞもぞ動くのが見えたような気がしたが、野次馬は気にしないようにした。何だか急に、この男が気味悪く思えて、野次馬は適当なことを言って何処かへ消えた。
男はまだ人混みを、いや、その脇に自分と同じように立っている、女の姿を睨んでいた。黒っぽい絽の着物の、袂が風も無いのに揺れている。真っ白なパラソルとのコントラストの、その不吉なこと!女の傍らには、紺の絣を着た男の子が、手を繋いで立っている。
ふと、女が振り返った。怖気が立つような、この世のものとも思えぬ美貌であった。パラソルを持つ真っ白な腕が、目に痛いぐらいだった。男の姿に気が付くと、真っ赤な紅をひいた唇をふっと緩めて微笑んだ。しかし、男の険しい顔は崩れない。女は困ったように眉を顰めて、軽く会釈をすると、さっさと男の子の手を引いて行ってしまった。
男の子はにこにこと、幸せそうに笑っている。時折、母親であろう女に何事か話しかけている。誰が見ても、仲の良い普通の親子に見えるだろう。しかし、男の子には影が無く、女の影はぐにゃぐにゃと何者でもない形にのたうっている。一体何れ程の人が、その奇妙さに気が付くだろうか。二人は人混みに紛れて、去ってしまった。
ようやく医者がやって来たようだ。脈を取り、残念そうに首を横に振る。それを待っていたかのように、彼方此方に蠢いていた蛇や虫のようなものが、死体へと群がった。あれは、中身がとうに抜けてしまった。抜け殻のような物だ。中身と殻とが分かれてしまえば、すぐに得体の知れないものの餌食となってしまう。きっと息を吹き返すことは無いだろう。例え生き返っても、それはまた別物なのだから。
一人、また一人と、人垣が崩れて行く。散り散りになって、みな思い思いの場所へ行くのだろう。男は煙草の煙を細く吐き出すと、荷を担ぎ直して、交差点へと足を踏み出した。






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