あたしのお勤めしている屋敷には、どうやらおかしなことが起こるようだ。はっきりと何が有る訳ではない。もっともやもやと、形の定まらないものがいる。それらはあたりを気ままに行き交って、たわいないひそひそ話をしたりする。
だから、みんな気味悪がって、早くに此処を辞めて行ってしまう。見えたり、聞こえたり、そうでなくても体を壊す子もいた。
あたしは、そういうものを気にしない。あたしにとっては特に害は無いものだし、忙しいから構っている暇も無い。たまに、噛み付いてくるようなものはいるけれど、指が取れてしまう訳でもない。何しろ、人手が足りないのだから、働かなくては。
あたしには、家族というものがいない。いや、かつてはいた。けれど、あたしは売り飛ばされてしまったので、もう家族ではないのだ。
きっと、家族もあたしが気味悪かったのだろうと思う。小さな頃から、薄暗がりに何かを見ていた。あたしには生きているものと、そうではないものの見分けが付きにくいから、あたしの姿はさぞかし不気味に映っただろう。
売られた果てに薄汚い女郎屋へ入ったけれど、あたしの目が猫のように吊り上がっているのと、気味の悪いことを度々言うのとで、早々に下働きに回された。下っ端の一番下だから、わけもなく折檻されるし、同い年の子らは苛めてくる。何と無く女郎屋へいるのが嫌になり、逃げに逃げた果て、疲れて眠りこんだのが今のお屋敷の門だった。旦那様も奥様も、野良猫のようなあたしを追っ払わずに、食事と寝床をくれた。こんなに優しくされたのは、生まれて初めてのことだった。
それから、頼み込んで働かせてもらっている。拾われた時から5年経ったが、あたしが一番古株だ。化物屋敷と言ってしまえば、そうなのだろう。でなければ、もう少し人が居着くだろうから。けれど、あたしにとっては天国だ。旦那様も奥様も、あたしに本当によくして下さる。
奥様はあまりこういうものが見えないようだ。いつも明るく楽しげだ。それでいい。そういう風なら、怪しげなものは近付かない。
でも、旦那様は逆だ。いつも、色々なものをくっ付けている。そんな時は、あたしがチョイと払ってやる。そういうものは、軽くはたいてやれば何処かへ消える。アラ旦那様お洋服に糸屑が、なんて調子でやると、不思議にも思われない。あたしはできた女中だ。
勿論、屋敷の彼方此方にもそんなものが吹き溜まっているから、あたしはバタバタと掃除に追われる。戸を開けて風を入れ、箒やはたきで外へ追い出してしまえば大丈夫。大事を取って塩も投げつける。前に一度、庭師に怪訝な顔をされたけれど、蛞蝓よ、と言っておいた。
毎日毎日そんなことをしているので、近頃は屋敷の中も少し明るくなってきた。でも、物置の中や戸棚の奥にはまだ色んなものが蠢いている。そんな場所まで引っ掻き回すわけにはいかないので、そこが悩みどころだ。
掃除ばかりにかまけている場合ではないので、買い物かごを手に取る。今日は買う物が沢山あるのだ。手が足りないから、全てをあたしがやらなくては。一歩屋敷を出ると、夏の日差しがかんかんに照り付けた。じわじわと、蝉がけたたましく鳴いている。そういえば、あたしがこの屋敷に来た日も、こんな風に暑い日のことだった。
思わず空を見上げて歩いていると、門を出てすぐ誰かにぶつかった。尻餅をついて、買い物かごまで投げ飛ばしてしまった。旦那様のお客様だったかもしれない。粗相をしてしまった。咄嗟に謝るが、怖くて下げた頭が上げられない。
「おっと。こいつは失礼」
聞こえてきたのは、青年のような老爺のような、おかしな響きの声だった。見上げると、四十手前の男。草臥れた開襟シャツを着て、髪は針ネズミのようにツンツンしている。男は微笑みながら、買い物かごを拾って私に持たせてくれた。優しい人だとは思ったが、一瞬何か違和感を感じた。
「すまなかったね。君、この家の女中さんですか」
「は、はい」
旦那様の客だろうか。しかし、私が口を開く前に、男が言葉で遮った。
「旦那様――ええと、誠之助さんはいらっしゃるのかな」
ええ、という返事を思わず飲み込んだ。この男は何だか変だ。細長い目の笑顔は優しい。でも、この暑い中、箱のような形の大きな荷を背負っているのに、汗一つかいていない。それに、何だか空気が良くない。変にひんやりして、黴臭いような匂いが混じっている。
「どういうご用件でしょうか。あの――旦那様に一度尋ねてからでないと、知らない人は家へ上げられませんから」
「ははは、随分しっかりしている。私は、君の旦那様の弟。寒月が来たと言えば分かる筈だから。通しておくれ」
くだけた口調で男は言った。弟と聞いて、戸惑う。本物だったら、あたしが案内しなければ失礼になる。けれど、あたしはこんな人を見たことがない。屋敷に飾ってある写真でも、旦那様のご兄弟が集まるパーティでも。でも、あたしが知らないだけだったら――。
何気なく視線を下に落とす。どうしようか。悩む、悩む。その時、視界の端で何かが動いた。目の前の男の影だ。じっと目を凝らすと、影の中に何かがいるのが見える。ゆらゆらと、泳いでいる。魚だ。しかも、一匹ではない。何匹も影の中にいる。
思わず息を飲んだ。普通の人間であったなら、どうしてこんなことがあるだろう。やはり、この男は怪しいものだ。
「駄目。やっぱり駄目です。お引き取りください」
「どうして。早く旦那様に訊ねておいで。何も、悪いことをする訳じゃないんだから」
男の足元で、魚が水音をたてた。真っ黒な影の中にいるのに、なお黒い。生き物の形をしてはいるけれど、生気の欠けた奇妙な魚。こんなに得体のしれないものを、お屋敷にあげる訳にはいかない。
「駄目ったら駄目よ。帰って頂戴」
「おいおい。仮にも私は、君の旦那様の弟なんだ。そんな言い草は――」
「よく回る口ね。あんたが人じゃないのはもう分かってンのよ」
こういうものには、気迫で負けてはいけないのだ。ドンと構えて、腰に手を当てる。男はというと、からかうように口笛を一つ吹いた。
「へえ!分かるのか。誠之助の奴め、良い女中さんを使うもんだ」
誠之助、だなんて。なんて馴れ馴れしいのだろう。どう見たって、目の前の男は旦那様より若いようだ。それに、旦那様のことをどうして知っているのだろう。おかしなものの癖に、変に人間くさい。ますます怪しい奴だ。
「さ、早くどっかへ行っちまいな!あたしの目ン玉が黒い内は、あんたみたいな奴は、一歩たりともお屋敷になんか入れないよ!」
「ミツ。何を騒いでいるんだ」
あたしが買い物かごを思いっきり振り回した、丁度その時だった。真後ろに旦那様が、立っていた。紺の浴衣に、黒の帯を締め、恰幅の良い体をどっしり構えている。
「あの、それは」
「私が来たから、騒いでいたのさ。あんまり責めないでやっておくれ」
男はあたしを庇うように、旦那様の前へ出た。得体の知れないものに庇われるなんて。もやもやする。
「寒月――何の用だ」
男を目にした途端、旦那様の顔がさっと険しい色を帯びた。今まで見たことの無い、本当に厳しい表情だった。それに応ずるように、あたしがさっき掃き出したばかりのおかしなものたちが、旦那様によろよろと纏わり付いた。
やっぱり、この男はおかしい。あたしは訳もなく不安になった。一見、害の無いように見えるけれど、旦那様に近付かせてはいけなかったのだ。
「誠之助、お前が私を呼んだんだろう」
「お前になど何の用も無い。帰れ」
「いいや、あるさ。ヨウイチを見つけたぞ。私が始末を付けてやるから、話をしようじゃないか」
ヨウイチという名を聞いた途端、旦那様の顔に怒りと悲しみと、何だか分からない気持ちが綯い交ぜになって浮かんだようだった。周りを蠢くものたちは、それに合わせて、俄かに活気づいたようだった。
男の影では、魚が狂ったように水音を立てていた。さっきまではひどくのっぺりとしていたそれが、あたしには何故だか恐ろしく映った。
「お前が関わるべきことじゃない。手を退け」
「おや、誠二はヨウイチを見つけたようだったけれど。このままでは、誠二もお前と同じようになってしまうかもしれないな。可愛い息子なのに。何せ、ヨウイチは――」
やめろ、と旦那様は声を荒げた。あたしは思わず身を竦めた。恐ろしかった。あたしとが知っているのは、穏やかで落ち着きのある旦那様だけなのだから。得体の知れないものと言い争いをするような、そんな人では無いのだから。
「……もう、いい。話は聞く。それでいいだろう」
男は返事をせず、ただ笑っていた。旦那様は男を睨み付けて、屋敷へ入るように促した。
「あの、旦那様」
あたしがどうにか言葉を絞り出すと、旦那様はあたしを振り返り、悲しそうに笑った。さっきの険しい顔は、もう何処かに消えてしまっていた。
「ミツには悪いことをしたな。大変だったろうから、今日はもう休んでおいで」
「いえ、大丈夫です。あたし、ごめんなさい、何も出来なくて」
「ミツ」
旦那様は慌てるあたしの肩に手を置いて、真っ直ぐにあたしの瞳を覗き込んだ。悲しい、何だか濁ったような目をしているようだった。
「今、見たことは忘れなさい。あれは、私の腹違いの弟ということになっている。例えお前が何を見たとて、誰にも何も言ってはいけないよ」
噛んで含めるような物言いに、あたしはただ頷くことしか出来なかった。
「……では、買い物を頼んだよ。釣りで、何かお前の好きなものでも買いなさい」
何時もの優しい口調でそう言うと、旦那様は屋敷へと戻っていった。普段なら、どんなに嬉しいお駄賃だろう。けれど、今は素直に喜べない。
あの男は何だったのだろう。ヨウイチとは誰で、誠二様とどんな関わりが有るのだろう。そして、どうして旦那様に怪しいものが憑くのだろう。そもそも、旦那様はあれらが見えているのだろうか。
考えれば考えるほど、足取りは重くなる。嫌な考えばかりがぐるぐると頭の中を巡る。けれど、あたしのような一女中には、何も教えて貰えないだろう。ならば、守るしか無いのだろう。得体の知れないものから屋敷を守るのも、あたしの役目なのだから。
遠くの方で雷が鳴っているようだ。夕立のやって来る前に、買い物を終えなくては。何せ、人手が足りないのだ。あたしが働くしかないのだから。






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