思わず酔ったような気分になったその時、前を歩く男が突然歩みを止めた。前方からぺたぺた、と奇妙な音がする。今迄辺りに充満していた、生物の気配がさっと消え失せた。何かが来るのだ。そう、感じた。
「……ちぇっ、厄介な奴に出くわした。いいですか、何を問われても、絶対に喋ってはいけませんよ。約束を覚えていますね」
男は私の方を振り返り、早口にそれだけ言うと、何処からか「商ひ中」と書かれた旗を取り出し、器用に自分の荷にくっ付けた。そして、いつの間にか、一つ目の描かれた面布で顔を隠している。
男のただならぬ様子に私は少しばかり怯え、女羽織を深く被り直した。
周りはすっかり暗くなり、ぺたぺた、という音だけが不気味に響く。
「おや、珍しい顔だ」
ぺたぺたが止み、頭上から嗄れた声が投げかけられた。男と女と、老いも若きも様々な人間の声を混ぜ合わせて一つにしたような、本当に奇怪でゾッとするような声だった。
「久方振りだねぇ。景気はどうだい」
その声に、男が平然と答える。
「まあ、ぼちぼち」
男の持つ灯りで、声の主の姿がちらりと見えた。
それは、異様としか言い表せなかった。
三メートルはあろうかという身の丈に、枯れ木のような色の肌。真っ黒の擦り切れた浴衣をただ一枚、荒縄を帯代わりに纏っている。四肢は長く、ゴツゴツと膨らんでいる。そして、最も醜悪なその顔――!
変に大きなその中心には、ギョロギョロと血走った目が一つきり有るのみで、目の下からは黒い薄布に覆われて見えない。
奇怪な声と共に、何やら生臭い息が吐き出されて、不快極まる。
「おい、その羽織、綺麗だなァ。寒月、幾らだね」
突然、化け物の視線が此方に向けられたので、私は身を震わせた。羽織を抑える手に力がこもる。
「駄目駄目、いけないよ。これは売り物じゃないからね」
「ケチ臭いことを言いやがる」
「勘弁してくんねぇ。今し方、其処の御仁に譲ったばっかりさ」
どうやらこの男、名を寒月と言うらしい。随分肝が据わっているのか、化け物相手に怯まない。余程見知った相手なのだろうか。くだけた口調だ。
「なあ、あんた。その羽織を、売ってはくれねぇか。なぁに、銭は沢山ある」
突然、化け物は私の方へ向き直った。
大きな掌に小銭を山程乗せて私の目の前へ差し出してきた。節くれだった指が、物欲しげにぴくぴくと動いている。
私は焦っていた。どう動けば、この化け物の機嫌を損ねないのか。私にはその方法が皆目分からない。
「やめときな。この羽織は、首括った女のモンだよ。ほら、聞いたことがあるだろう。東京の女郎だよ」
男の言葉に、化け物は凄い勢いで後ずさった。
しかし、その言葉に驚いたのは私も同じである。そんな縁起の悪いなど、今すぐ放り出してしまいたいが、そういう訳にもいかない。粟立ち震える腕を抑えながら、必死に耐える。
「そんなの、こっちから願い下げだァ。女の死体はいけねぇや。子供も男も構いやしねぇが、女だけは駄目だ。おお、恐ろしい。あんた、そんなもんが好きなのかい。全く、恐れ入ったぜ」
それは違う、という叫びをどうにか飲み込んで、ようやく安堵した。どうやらこの化け物は、羽織に興味を失くしたらしい。しかし、女の死体を怖がる化け物というのも珍しい。
「今度は曰くのねぇ奴を頼むぜ。そいじゃあ、またな」
化け物は再びぺたぺた、という足音を立てて遠ざかっていった。やがて、巨体は豆粒程になって、視界から消えた。
よかった、と思った瞬間、腰が抜けた。
「おや、大丈夫ですかぃ――いや、失敬。大丈夫ですか?」
江戸言葉の混じる男に助け起こされて、ようやく一息ついた。にこにこと笑う男に色々と言いたいことはあったが、喉は焼け付いたように上手く動かなかった。
「まあ、文句は後で聞きましょう。もう少しで抜けられますから」
そんなことを言われては、そうせざるを得ない。しかし歩みも自然と早くなる。
暫く無言で歩き続けていると、足元の苔が短い草になり、短い草は山でよく見る草にと変わっていった。十分も歩くと、道幅も段々と広くなっていき、羽織の隙間から漏れる光は、妖しげなものから柔らかな陽光へと変わった。
「――もう、羽織はよろしいですよ」
投げ出すようにして、羽織を取った。
何故か空は夜明けの色をして、じんわりとした暑さを肌で感じた。
あの奇妙な光景は消え、すっかりごくありふれた山中に辿り着いていた。鮮やかな緑と、日の光が目に染みる。
見渡すと、何処と無く懐かしい風景だった。ようやく戻ってきたのだ。
安心してしまうと、肩の辺りにどっと疲れが襲ってきた。
「遅くならないうちに戻ることが出来て良かった。それでも、貴方の方は大騒ぎでしょうが」
大きく伸びをしながら、男は笑った。
「まさか夜が明けているとは……私が迷った頃はまだ……」
「あの場所は、此岸と少しズレているのです。あんまりもたもたしていると、浦島太郎だ」
男は私の放り投げた羽織の汚れを払うと、畳んで背に負った荷の中へ仕舞った。そして、ズボンから煙草を取り出し、美味そうに吸った。
「ま、ちょいと厄介なやつにも会いましたが、丸く収まったようですね」
「本当にありがとうございました……何とお礼をしていいのやら」
「おや。礼ならほら、先程お話したでしょう。それで十分ですよ」
男の言葉を思い出すと、何だか笑いが込み上げてきた。
不思議な御仁だ。化け物や不思議な世界に詳しく、その上中々ユーモアのセンスもある。
何者かはこの際どうでも良くなってしまった。ただ、もっと彼の話を聞きたくなったのだ。
「いや、それだけではあまりにも申し訳ない。食事でもご一緒しませんか」
「お心遣いは有難いですが――」
「食事も勿論ですが、貴方ともっと話がしてみたい。どうです?良い洋食屋を知っているんです」
まるで口説き文句じゃないか、と気付いた時には、もう遅かった。男は大口を開けて笑っていた。私は何だか恥ずかしくなった。しかし、私は話がしてみたい。まるで、子供のようにお伽話を楽しみにしているのだ。
男はひとしきり笑い倒すと、それではお言葉に甘えて、と言って笑顔を見せた。私は何故か温かい気持ちになった。





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