何処か遠くで、獣の声がした。
夜の帳はすっかり落ちて、三寸先もろくに見えない山中で、私はほとほと困り果てていた。
祖母の葬儀で帰省した迄はいいのだが、其処は田舎、暇を潰すようなカフェーなども無く、止む無く幼い頃によく遊んだ山へ散策に出掛けた。
子供らが遊ぶのだから、そう深い山ではない。そう思っていたのだが、長い都会暮らしで、私の感覚は鈍りきったようで、あっちへこっちへ右往左往している内に随分奥深くまで来てしまったようだ。昔はそれこそ、山の端から端まで駆けずり回った記憶があるが、もう私は年を取ってしまったということなのだろう。
しかし、夏の終わりとはいえ夜の山は冷える。食べ物や灯りはおろか、上着すら持たないので、その肌寒さがいっそう不安を煽った。
このまま歩いていれば、何処か人のいる場所へ行き着くだろうか。いや、もしかしたら更に奥へ奥へと進んでしまうかもしれない。
彼方此方で、得体の知れない音がする。獣だろうか、いや、風の音だろうか。
嫌な考えばかりが浮かんでは消え、恐怖の奥底を撫でて行く。
怖い。やはり、人は明るい場所の生き物なのだと、思い知らされる。
――ふと、灯りが遠くに見えることに気付いた。頼りないが、そろそろと歩いているように見える。
きっと人だ。悪人かもしれないが、頼み込めば何とか灯りくらいは分けてくれるだろう。そもそも、私は今、本当に何も持っていないのだから、盗人だとしても見逃すだろう。
これを逃しては台無しだ。根拠の無い無鉄砲な考えであったが、灯りを追う足は自然と早くなり、いつの間にか木の根に転ばされながらも、懸命に走っていた。追い掛ける内に、薄ぼんやりではあるが、人の輪郭が見えてきた。
「あ、あの、すみません」
三分程走って漸く追い付いた。息も切れ切れに声を掛けると、人影はゆっくりと振り返った。
曖昧な光に照らされた顔は、三十半ばを少し過ぎたばかりの男のものだった。服や荷物はよく見えないが、物騒な空気は感じない。
「怪しい者では無いのです。ただ、迷ってしまって……」
不思議そうな表情で此方を見る男に、私は慌ててそう言った。
「――貴方、どうしてこんな場所に来たんです」
しかし、返って来たのは思いも寄らぬ言葉だった。
男の声は青年のような若さと、老人のような深みを混ぜこぜにしたような響きで、闇の中に谺する。そして、私が何か言い出す前に男は頭上に灯りを翳した。
驚くべきことに、其処には私の想像を超えた風景が広がっていた。
幼い日に親しんだ、ざわめく木々の面影など微塵も無い、艶めく硬質の洞窟であった。鍾乳洞だ。薄暗い中でも、乳白色の柱が彼方此方にあるのが分かる。
幾らこの山の記憶が、昔々の不確かなものだったとしても、こんな物がある筈は無い。何故なら、何もかも、恐ろしい程大きいのだ。天井も、底も、遥か遠く果てしない。
呆気に取られる私に、男はぶつぶつと何事か文句を漏らしながら、しゃがみ込んで何かを漁り出した。
「困ったなあ。人は滅多に迷い込まないと聞いていたのに」
「こ、これは一体……?私は、ただ、山を歩いていただけで」
「私も不思議ですよ。此処は裸虫杜と言いましてね、人ならざるモノが通り道に使うのですが、人がいるのを見たのは初めてです」
「らちゅうのもり?此処はそういった地名なのですか?ならば、帰り道を教えて下さい。そうすれば一人でーー」
「いや、此処はそういう場所では無いのです。現と重なり合っていて、理はまるで違う。一つ間違えば、戻れなくなってしまいます」
男の姿はよく見えない。奇妙な響きの声ばかりがゆらゆらと聞こえる。
これは本当に現実なのだろうか。耳に心地いい男の言葉は、この世の話だとは思えない。馬鹿げている。到底信じられない。だが、本人は大真面目だ。
あまりに、奇妙。まるで、私を取り巻いていた世界の全てが瓦解していくような気分だった。
「兎にも角にも、これをお貸ししましょう」
男の言葉と共に、何か柔らかなものが顔に投げかけられた。手に取って広げると、女羽織。上等な手触りに、かろうじて見える花筏の文様も細やかな、高価そうな品である。香が焚き染めてあるようで、布地が揺れる度に華やかな香りが広がった。
「……これは?」
「魔除けのようなものですよ。頭から被って――ああ、顔が見えないように、そうそう、そんな具合です」
訳の分からぬまま、男に従う。私は腹を括った。この空間で、話の通じる者は目の前の男しかいないのだ。縋るより他は無い。
「一つ約束して下さい。私以外のモノに出会ったなら、言葉を発しないこと。息を吸うのはいいですが、どんな事を尋ねられても、絶対に答えてはいけません」
「それはどういう訳なのですか?」
「後でまたお教えします。まずは歩きましょう。もう暫く進めば、灯りが要らなくなる」
混乱する私を置いて行くかのように、男はさっさと歩き出した。慌てて後を追う。こんな場所に置き去りにされては、ひとたまりもない。
互いに何も語らず、冷ややかな洞窟を進む。頭から被った羽織のお陰で、寒さは幾分か和らいだが、その分視界が狭くなった。前に浮かぶ男の灯りと、辛うじて見える足元だけが頼りであった。何しろ洞窟が桁外れの大きさであるので、どれだけ進んだのか、皆目検討が付かない。
時折水音と、ひょうひょうと風の吹き抜ける音が聞こえる。何とも物寂しい風情であった。
「――さて、明るくなってきたようだ」
男の呟きに顔を上げると、先程の闇が嘘であるかのように、辺りは柔らかな光に包まれていた。
光源は、空中を漂う球形の何かと、地面の彼方此方に生えた花のようなものだった。ここで初めて、足元にあるのが草ではなく苔である事に気が付いた。
まるで巨大な蛍のような球形のそれは、ゆっくりと瞬いているため、まるで鍾乳洞全体が呼吸をしているように映った。
普段ならいざ知らず、この状況ではこの光景を見たとてさして驚かない。ただ、美しい、と感じるのみである。
そして、ここで漸く男の姿をはっきり見る事が出来た。
鳥打帽に、開襟シャツ、それと鼠色の草臥れたズボン。其処までは良くある労働者の姿に見えた。しかし、奇妙なことに足元だけは裸足に草履である。
そして、最も目を引くのは、その荷である。旅行用の大きな革トランクにベルトを渡し、縦にして笈のように背負っている。一体何をしている人物なのだろうか。
「少し、疲れたでしょう。ここらで一先ず、休みましょう」
示し合わせたかのように腹が大きく鳴り、私は赤面した。男は苦笑しながら、経木に包んだ大福を差し出してきた。自然と恐縮するしかない。
「いやはや……迷惑ばかり掛けて、申し訳ありません」
「いえいえ、お気になさらず」
「家に戻れたら、お礼を差し上げます。一晩、宿など如何ですか」
「其処までの事を私はしていませんよ。代わりと言っては何ですが……古い日記や手紙、不要であればそういったものを頂きたい」
「お安い御用です。丁度、曽祖父の物が有りまして。処分に困っていた所です。――しかし、どうしてそんな物を?」
「なに、そういう物に目が無い性分なのです。あまり人に言えた事では無いですがね」
そんなものか、と私は納得した。まだまだ、この世には私の知らない事など数多あるのだ。それを今日学んだ。
「もう三十分も歩けば、この道も抜けられるでしょう。それ迄は暫しの辛抱です」
そう言って、にっこりと、男は笑った。
「あのう……今更ながら、此処はどのような場所なのでしょうか。私はまだ、夢を見ているようです」
聞くのならば、今しか無いと思った。私が触れるべき世界では無いと分かるが、何も分からぬままでは、何と無く尻の据わりが悪い。
男は笑顔を崩さぬまま、粉まみれの経木に指で一本線を描いた。
「良いですか。この線の右側が、所謂この世、此岸です。左側が、あの世や彼岸と呼ばれる世界です」
「はあ」
「此岸は、貴方方のように生きている者の世界です。で、彼岸は死者の世界。そして、今私たちのいるこの場所は、この二つの境です」
男は、経木をなぞった線を、とん、と一つ指で叩いた。
「境というものは、生と死の交わる場所ですから、人でなく死者でなく、あやかしの世界です」
「あやかし、ですか」
「ええ、妖怪だとか化け物だとか――童の戯れ絵によくある、あんな風なものですよ。もっとも、恐ろしいのは姿形だけですが」
まるで、妖怪の類をよく見知ったような口振りである。否、きっと知っているのだろう。此処はそういう場所なのだ。もはや、私は困惑することなくそう思えた。
「――さて、そろそろ行きましょうか。あんまり遅くなると、貴方の方に障りがあるでしょうから」
少しの沈黙の後、男は立ち上がりそう言った。私は黙ってそれに従い、服の埃を払ってから、元のように歩き出した。
頭から被った羽織の隙間からは、うっとりするような景色が見える。
やはり、此処は此岸ではないのだ。人でも獣でも無いものが住む場所なのだ。
球形の蛍に、空を飛ぶ百足に似たもの、七色に光る糸のような何か、雪のように舞い落ちる欠片、霧を吐く蟲。
妖怪と呼ぶにはあまりに有機的なそれらに、私は思わず魅入っていた。
もやもやとした、淡い光は私の心を掴んで、妖しく揺さぶる。聲が聞こえる。囁きのように誘う。呼び声だ。ああ、迷わないようにしなくては。迷えばきっと、戻れない――。





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