風が、さらさらと通り抜けた。 頬を撫でるその冷たさに驚いて、白妙はようやく目を覚ました心地になった。 おそらく、気も遠くなるような長い間、眠るようにぼんやりとしていたのだろう。髪に手をやると、鬢付け油もすっかり意味をなさずに、はらはらと崩れた。 でも、もう髪をきっちり結い上げる必要もない。ぱさつく髪を解いて、背に流した。 夢から急に引き戻されたようで、まるで生き返ったようだと感じた。 そんなことを考えた途端、白妙は何だかおかしくって笑ってしまった。生き返るも何も、白妙は随分前から幽霊なのだから。 十年ぶりか百年ぶりかは分からない。とにかく今突然自我を取り戻しただけで、本当に本当に長い間、白妙は幽霊だった。 この山で客に殺された時のことは、まだはっきりと覚えている。 それは温い春の朝方のことで、年甲斐もなく安女郎に懸想した、商人の爺さんに首を絞められたのだった。 そして、苦しくて苦しくて必死にもがく内に、白妙はいつの間にか神社の石段に座っていた。 きちんと弔ってもらえなかったのだろうか。どうして自分が幽霊になったのかも分からなかった。 ただ、今目を覚まして思うことは、自分がひどく空っぽになってしまった気がするということだ。 幽霊なのに恨めしいとか憎らしいとか、そういう気持ちは無い。 ざわめく木の音も、かまびすしい蝉の声も、遠く響く人の気配も。皆心の虚を吹き抜けていく。 眼下に見る馴染みの町は随分様変わりしていて、それがまた得体の知れない涙を誘った。 「おい」 急に呼び掛けられて、白妙は驚いた。声の主は、水色のシャツと紺のズボンを着た目つきの悪い男だった。右手には学帽のようなものを持っている。 「あんたこんな所で何してるんだ」 不躾にそう言う男は、ずんずんと石段を登って来て、白妙の横に座った。 その横顔が、昔白妙の店の向かいで働いていた下足番に似ている気がして、懐かしい気分になった。 「何で笑うんだよ」 「いやさ、あたしの知ってる人に似てたもんだから」 「そうか。で、あんた何してるんだ?まだ祭には早過ぎるだろ」 「何も。ただ座ってるだけですよぅ」 騒がしさは祭のせいだったか、と白妙は納得した。今の祭の様相を見てみたい気もした。 「……まさか肝試しでもやろうっていうんじゃないだろうな、その格好」 「まさか。肝試しなんて子供のやることじゃございませんか」 「ま……まあな。でもその格好なら大人の方が泣いて逃げるぜ」 「へぇ。どうしてです?」 「ああ、この山の名前を知らないのか。御女郎山って言ってな、大昔に本当に女が殺されてるらしい」 「あら、あたしが女郎なんかに見えますかね。失礼なお人だヨ」 白妙はそう言って、心の中で笑った。何も知らずに話す男が可笑しい。 「あのなあ、俺は女郎なんか見たって分からないっての。今どき、しかもこんな場所に和服でいたら、誰だってそう思うだろうが」 そんな昔のことなんかもう誰も知らねえよ、と男は言った。 昔のこと、か。それを聞いて白妙は肩から力が抜けた気がした。 あの大きな桜の花はつい昨日見た気がするけれど、あれからもう幾十年と経っているのだ。 白妙の気持ちなど知りもせず、時はただ過ぎていく。あの老人も、縁のあった人々も、そして白妙さえも置き去りにして。 でも、そんなの何だか寂しいじゃないか。 「まあ、昔の怪談なんかいいんだよ。とにかく、祭に行くなら出直した方が良いぜ」 「……何だかお節介な人だねぇ。あたしなんかほっとけばいいじゃないのサ」 「これが俺の仕事なんだよ。パトロールだパトロール」 「ぱとろおる」 「祭の日だからな。悪い奴らが変な気を起こさないようにしないと」 白妙はここでようやく、男がかつての巡査のようなものなのだと気が付いた。時の流れる内に、随分優しくなったものだと思う。 「……あたしは悪人に見えるかえ」 「いや。ただ、今にも死んじまいそうな顔はしてたぜ」 じゃあ俺は行くからあんたも変な気起こすなよ、と欠伸混じりの声で男は言った。 死んじまいそう?もう死んでるってのにねえ。 白妙はここでようやく、自分が自由になったことに気付いた。 金も男も、苦界すらも知ったこっちゃない。長い長い時を経て、ようやく籠から抜け出せる。ようやく世界を見られるのだ。 何と嬉しいことだろう。 かつては憎かった巡査にも、思いもよらないいたずらで一矢報いることが出来るのだ。 「ねえ、あんたの名前は何て言うんだい?」 「俺か?駅前交番勤務の、勝山正義だ。困ったら連絡を……し……」 幾分か誇らしげに名乗った正義は、すぐに顔色を真っ青にして空中のある一点に釘づけになった。 ぷかりと宙に浮いて、赤い蹴出しをちょっと覗かせる和装の女。 さっきまで親しげに話していた女が、ふわふわ浮きながら楽しくて仕方がないような顔で笑っている。 「あたしは白妙。幽霊さネ」 その声を聞いただろうか。 顔を真っ青というより紫色に変えて、正義は情けなく叫びながら猛スピードで駆け降りていった。 白妙は、たくましい男の化けの皮を、ようやく剥がせたような気持ちになった。あんなに辛かった昔も何もかも、笑い飛ばせるようだった。 安女郎など、死んでからが人生だ。ただ、湿っぽい幽霊になるなんてまっぴら御免。 本当に、心から満足するまで。 精々、この世を楽しんでやるサ。 そうおぼこ娘のよう呟いて、地に足をしっかり着けて、白妙は長い石段を下っていった。 ← |