街に夜の帳が降りた頃。 「あ、やっぱり着替え小さかったか」 柊楪は、風呂上がりの幽山を見て苦笑した。 行き倒れていた幽山は一晩泊めてもらえることになったが、楪は一人暮らし。男物の洋服など持っていない。 ようやく楪が祖父の着ていた浴衣を引っ張り出してくれたが、案の定丈が大分短かった。 「幽山さん大きいからね。お風呂はどうだった?」 「良い湯加減でござった。……何から何まで申し訳ござらん」 「良いの良いの。気にしないで」 楪は笑って、幽山を食卓に座らせた。 幽山には有難いことに和食が並んでいた。 「一人暮らしだからさ、味はわかんないけど」 「楪殿は……どうしてここまでしてくれるのでござろう」 幽山は大きな体を縮ませて問うた。 普通なら、見ず知らずの男を家に泊めたりはしないだろう。しかも楪は一人暮らしの女性だ。 「困ってる人がいたら助けるでしょ。このご時世に行き倒れるなんて、大変なことがあったんだろうし」 「しかし、某は」 「確かに怪しいよね。……でも、話せないような事情がありそうだっていうのも分かった」 楪はふっ、と微笑んで幽山に向き直った。 「もし、出来るなら当面の宿代だと思って、事情を話して欲しい。どんなに不思議な話でも大丈夫。慣れてるからね。何か助けになるかもしれないし」 楪の声はいつもの調子だったけれど、とても優しかった。柔らかく心に沁みるように。 気が付くと、幽山の目からひとしずく涙が落ちていた。 「そ……某は、その……信じて貰えぬかもしれぬが、江戸の人間でござる。元の名を浅野信右衛門と申す」 ごしごしと目を擦り、うつ向いたまま幽山は静かに語り出した。 「江戸から少し離れたとある藩の生まれでござる。某は兄がいたので、江戸で寺子屋でもできればと思い、ぶらぶらと暮らしており申した」 「江戸って……」 「今はもう、幾百年も昔なのであろうな。しかし某は、その時に生きていた」 楪は何も喋らない。黙って聞いている。 「江戸に出て三年、某は一度生家に帰る用が出来て、使いの者と共に向かっておった。山を越えて」 淡々と、幽山は語る。 まるで信じられないような話だと本人も思っている。 けれど話すしかないのだ。 「丁度休んでいた時、山の怪に出くわした。若い女のようでござった。女は某を尻目に、目の前で供の者を取って喰らい始めたよ。某は意味も分からぬままにそれを見ていた」 「……魅入られたんだね」 「多分……そうなのでござろうな。某も助けられねば死んでいた」 ふ、と幽山は自らを嘲るように笑った。 「旅の僧が、いや僧ではなかったのかもしれぬ。山怪を倒し某を救ってくれた。しかし、刀は捨てよ、今後一切のことは考えるな、と言われた」 「どうして……」 「祟られてしまった。山を出ることが出来なくなってしまったのでござる。その御坊は、某に僧衣やら何やら恵んで下さった。某はそのまま言われるがまま、名を捨て刀を捨て山に入った」 「でも、どうして何百年も経つの?山から出られなくなっただけでしょ?」 「どうも、山の怪は某の時の流れ方を変えてしまったらしい。山中で三ヶ月が経った頃、旅人に話を聞いたら幕府は倒れていた。長い時が経ってしまった」 幽山は寂しそうに微笑んだ。 この話がもし本当だとしたら、何て悲しい話だろう。 自分の見知った者も何もかも、いつの間にかいなくなってしまったのだ。それは一体どんな気分だっただろう。 何も悪くないのに、人外の戯れに人生を狂わされて。 「それから二ヶ月して、ようやく山から出ることが出来たのでござる。祟りが消えたのであろうな。それから、とある伝でこの街に来たのでござる」 しん、と静かになった。 楪は眉間に皺を寄せたままだったが、突然肩の力を抜いてふうう、と大きなため息をついた。 「……幽山さんは、妖怪のこと恨んでる?」 「へ?」 突然の問いに幽山は目を丸くした。 「化け猫とか河童とか、そういうの恨んでる?」 「あ……いや、あの山怪はそうだが……山ではそういう者達に助けられ……あっ」 幽山は言ってからしまった、という顔をした。 これでは更に頭のおかしな人だと思われると考えたのだろうか。 それを見て楪は、あはは、と笑った。 「大丈夫、あたし信じてるからさ」 「こ、こんなおかしな話をでござるか?」 「うん」 だってさ、と楪は笑いながら言った。 「幽山さん、真剣だったもん。すごくまともだったし。それにこの街は、そういうことがあるんだ。人の手の届かない不思議ってやつがさ」 「でも」 「何、不満なの?」 「いや、その」 「いいじゃない、信じたって。あたしはね、人を見る目があるの」 楪は真っ直ぐ幽山を見つめた。 幽山はばつが悪そうに大きな体を縮めた。 「人間生きてりゃ何とかなんの。その祟りって、なくなったから幽山さんただの人間なんでしょ」 「そうでござるが……」 「なら、とりあえずここで働きながら暮らせば良いよ。あたし、困ってる人はほっとけないんだよねー」 「え、でも、あの」 「あーもー、ごちゃごちゃ言わない!武士だったんでしょ?黙って厚意は受け取る!あなたが良い人だってのが分かったから、拾って世話焼いてるの!あたしの勝手!分かった?」 「……はい」 楪は分かれば良し、と言った。 また、勢いで、決められてしまった。幽山はそう思った。 昔のようにただ従うままだけど、でも今は何処か幸せだ。 互いに話していないことも聞きたいこともたくさんあるけれど、まだまだ時間はたくさんある。 生きていれば、何とかなる。 その言葉を心の中で繰り返し、幽山はようやく心から笑顔になれた。 ← |