雨が降っている。
糸のように細い雨だ。

一週間ほどしとしとと降り続いているので気が滅入る。
クロは外で走り回れないのが不満なのか、ずっと土間に寝そべっている。
雪はと言うと、雨が珍しいのだろうか、長い間ぼんやりと空を見ていた。

そうなると私もやることがなくなり、天気の悪い日特有の重苦しい頭痛を感じながら庭を眺めるしかないのだった。
幸い私の書斎もどきとして使っている部屋からは、見事な紫陽花を見ることが出来たので、そうそう鬱屈とした気分になることはなかった。

ある日何時ものように庭を眺めていると、刹那、華々しく着飾った女達が笑いながら其処を横切って行った気がした。
くすくす、というくすぐったい笑い声が耳に残っている。
慌てて追いかけるがそんなことはない。
顔はよく見ることが出来なかったけれど、確かに通った気がしたのだが。

首をひねりながら部屋に戻ると、いつの間にか庭に墨衣を纏った人影が立っていた。
肩の辺りがほっそりしているから、きっと尼なのだろう。
しかし誰だ、と思う気持ちよりも、またか、と感じる気持ちの方が勝っていたのでさほど驚くこともなかった。
その人物の袖が入水したかのように濡れていたので、一目瞭然だった。
これは何時もの怪異だ。

ただ奇妙なことに、その顔には能面がぴったりと付けられていた。
若い女を表した、小面と言うものだったろうか。

私が呆けた顔でいると、尼は優雅な仕草で片手をこちらに差し出した。
その手には鈴が、もう片方には鉢が収められている。
気味は悪かったが、手持ちの小銭をいくらかくれてやった。そうすれば消えると思ったからだ。
すると尼はちりりん、と鈴を鳴らして、袂から古びた巻物を取り出した。

一礼して、尼はそれをばさりと開いた。
その瞬間、私はぞくりとした。
これは悪い、恐ろしいものだと、体も頭も警告していた。

それは何の変哲もない海の絵だった。
青々と何処か陰気な海に、小さな舟が一艘ぽつんと浮かんでいる。
尼が持つのには不自然な、写真のように鮮やかな絵であった。
それなのに、恐ろしく気味が悪い。
しかし、声をあげることも体を動かすことも出来なかった。

ちりりん、と鈴の音が部屋に響く。
気が付くと私は絵の中の海にいた。
見渡す限りに青い、荒々しい水が世界を支配していた。
吹き付ける風は凍てつくほど冷たく、波は高く容赦なく私の乗る小舟に打ち付けた。

ぐらぐらと舟が揺れる。
私の指は凍えて動かない。
とうとう小舟は転覆し、私は冷たい水の中へ沈んで行った。

氷のような水が肺に流れ込んで来る。
痛い。苦しい。頭がぼんやりする。
私は自分が氷になったように感じたが、喉の辺りだけ変に熱い。

腕だ。白い、すべすべした手が私の首を押さえているのだ。
あの尼だ。
ゆらゆらと広がる僧衣がそれを暗示していた。
身をよじってどうにかその顔を見た私は戦慄した。

ふわりと漂う髪は白く、その瞳は深い瑠璃色。
妖しく光る足の鱗。
そして何よりも、雪によく似た面差し。

この尼は人魚だ。
同族だから似るのか、血縁だから似るのか。
それは分からないが、雪よりも幾ばくか年長の人魚は、私の喉を締めながら何事か呟いている。人魚の声は水の中だけで聞こえるのだと、私は初めて知った。
私を恨んでいるのか。
きっと人魚は陸に上がるべきものではないのだろう。
しかし、私がどう思おうとも、雪が此処を選んだのだ。私にそれを覆す権利などない。

頭がぼんやりとしてきた。もうすぐ私は死ぬのだろうか。
そう思った瞬間、何処かで女の笑い声が聞こえた。目の前の人魚ではない。
そして、不意に何かに引き上げられるように体が水面へと引っ張られた。
ごうごう、と水を裂く音の後に、私は頬に畳の固さを感じた。
起き上がって辺りを見渡すと、尼もあの絵も消えていた。私の髪も着物も濡れていたが、鱗一枚落ちていない。
代わりに、赤と青の紫陽花が何かに押し潰されたように少し離れた場所に落ちていた。
くすくす、とまた女の笑い声がして、思わず庭の方を見た。
先程の着飾った女達が、袂で口元を隠して笑っていた。
追い掛けようとすると、女達はぱたぱたと駆け出し、雨の中咲き誇る紫陽花の前で溶けるように消えた。
紫陽花が恩を返したのだろうか。しかし、私は返されるような恩など売っていないのだが。
何時かこの礼に枝でも整えてやろう、と私は思った。




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