桜の綻ぶ季節となって、幾らか過ごしやすくなった。 朝方などはまだ冷えるが、それでも春だと実感する。 雪は桜が珍しいのだろう、日がな一日縁側に座って桜が散るのを眺めている。 この頃は大分読み書きも上達してきて、本なども読んでいる。 幸いこの家には叔父の蔵書が丸々残されている。 少女には少々難しいかもしれぬが、退屈凌ぎにはなるだろう。 クロもすっかり我が家に馴染んで、この所は咲き誇る桜の根本ですやすやと眠っている。 クロと言うのは先日我が家に迷い込んできた子犬である。 黒い犬なのでクロと名付けた。 子犬ながら中々に利口なので助かっている。 初めは雪もクロを怖がっていたが、最近では縁側で詩を朗読してやる程仲良くなった。 今日もすっかり日が暮れた。雪は座敷にクロを連れて首輪を作ってやっている。 首輪と言ってもただの端切れであるが、柄が華やかなので立派に見える。 普通ならば首輪など嫌がるのだろうがクロはじっとしている。つくづく出来た犬である。 その風景をぼんやり眺めていると、庭の方にぼんやりした光が動くのが見えた。 我が家の庭は、山の一部と化している部分がある。 事情を知らぬ農夫が迷い込んでしまったのでは困る。 人と関わるのは避けたいがやむを得ない。 提灯を下げて庭へ向かうと用心棒のつもりだろうか、クロが私の後ろについてきた。 庭へ出たは良いが、奇妙なことに気付いてしまった。 先に見たときは一つだった光が、今は幾つにも増えていたのだ。 おまけに生き物のように漂っているようである。 ランプであるかと思ったが、それは見当違いだったようだ。 私が近付いて行くと、光はゆらゆらと方向を変えた。 その動きはまるで深海に棲むという魚のようだ。 光がふわふわと漂いながら此方へ近づいて来た。 思わず目を瞑って身構えたが、ゆらりと顔の横を通り過ぎるだけだった。 それは、魚だった。 金魚のようで、海の魚のようで。 鰭は布のようにひらひらしていたけれど、どこか硬質な感じだった。 それらは私もクロも気にせず、ただ辺りを静かに泳いでいった。 小さな口をぱくぱく動かす度に、魚の腹のあたりがぼんやりと発光した。 桃色のや薄青の淡い光は私達の回りをくるりと一周すると、ゆっくりと家の方へ流れていった。 私もつられて後を追う。 まるで、海の中を歩いているようだった。 濃い闇が水のように纏わりついて、息が苦しい。 魚は相変わらず前を泳ぎ、自分が海底を這う貝のように思えた。 やがて、雪が縁側に座っているのが見えた。 魚どもは雪の近くをせわしなく動き、さっきのように口をぱくぱくさせている。 呼吸に合わせ放たれる光が、ぼんやりと雪の白い髪を照らす。 雪は笑い、魚と戯れる。 その瞬間、確かに其処は竜宮であった。 人ならざる者の故郷である。 深い海の底の底にある、人魚の国だ。 綿津見。にらいかない。空舟の行く先。 名は何であれ、私の踏み入れることの出来る場所ではない。 それだけははっきりと分かった。 美しい雪の横顔。 魚達はまるで、姫に傅いているようであった。 この世の光景ではない。 無骨な提灯の光を下げたまま、私はそれをじっと見ていた。 傍らの桜は、雪のように花を散らした。 ← |