庭の緑が目に染みる季節になった。 雪は南国の生まれだからなのだろう、暑さが気にならないらしい。ワンピースを買ってやると喜んで庭を散歩しに出かけた。 私はと言うと、この暑さにへばってしまい、粥さえ喉を通らない日もあった。 しかし体を動かさないのでは寝込んでしまうだけだ。木々も暑さが染みるだろうと思い、こんな昼間から水をやっていた。 じいじい、と蝉が鳴く。 不思議なことに、水の撥ねる音に混じって、葉の揺れる気配がする。 すると、それらに紛れるようにして人の声が微かに聞こえてきた。 もしや泥棒かと思い身構えていると、それはかすれた甘いうめき声に変わった。 そして、庭の木の陰からごろりと人の体が転がってきた。 そこには色褪せた藍の浴衣を着た、大人びた雰囲気の少年がいた。 何故か少年の腹は瓜一つ分ほど膨れている。 私が肩に触れようとすると、少年はそっと首を横に振った。 その顔はやけに美しくて、女のような柔らかさを帯びていた。 長く伸ばした髪の所為だろうか。 少年のようであり少女のようでもある。何故か時折匂い立つような色気が感じられた。 「――水を」 少年はそれだけ呟くと、ぐったりとして座りこんでしまった。 雪に手伝わせる訳にはいかないので、私一人でどうにか座敷まで引っ張り上げた。 華奢で軽かったのだが、やはり人一人分の重さである。 布団を敷いて少年を寝かせる頃には、私は全身汗だくになっていた。 やがて雪が変事に気付き、やってきた。 クロも心配そうに少年の白い指を舐めている。 少年の方はとりあえず水を飲ませたら、幾らか落ち着いたようだ。 「この腹は一体どうしたのだい」 私はようやく少年に問うことが出来た。 「――お恥ずかしい話ですが」 「もしや、病」 「いえ――孕んだのです」 そう言うと少年は変に艶っぽく微笑んだ。 孕むとは奇妙な話である。 もしや、狐狸の類が私を化かしているのだろうか。 そんな考えが頭をよぎった。 「冗談はやめてくれ」 「そう思っていただいても構いません」 しかし、彼の顔はおんなとはまた違う。 男にも女にも、そういうものに縛られていない気がする。 この口ぶりからすると、全くの出鱈目を言っている訳でもなさそうだ。 「その――孕んだ、とは」 「はい、竜の子を」 そう言うと、少年は困ったように笑った。 「竜と契りを結びましたので」 「はあ」 「子を授かりました。真っ白な卵です」 その口調と表情が、幼さを残したような少年に似合わなくて、私はひどくどぎまぎしてしまった。 まだ十五、十六くらいの少年だろうに、時折ぷんぷんと花のように色気が香るのが、不自然に思える程であった。 「あのう」 少年はなおも色気を含んだ声で私に問いかけた。 「空を見えるように、してはくださらないでしょうか」 「庭ではなく」 「はい。迎えが来ますので」 そう言うと、青い紐を結んだ手首でだらりと虚空を指差した。 おまじないだろうか。青い紐の先には小さなガラス玉が結ばれていた。 「ほら、あすこに」 少年の白い指が示した先には、竜がいた。 真っ青な空を切り裂くようにして、ぐんぐんと此方へ向かってくる。 最初は蛇程の大きさだったのが、御伽話や絵に見るような白竜の大きさになっていた。 白竜はごうごうと大きく鳴きながら、どこか嬉しげに私と少年の間に突っ込んできた。 激しい風が家を揺らしたが、実体が無いものなのだろう。何処にも傷はつかなかった。 白竜が通り過ぎたすぐ後に、少年の腹から白い煙のようなものが立ち上った。 それはゆらゆらと揺らめきながら、徐々に生き物の形をとり始めた。 鰻とも蛇ともつかないようなそれは、みるみる内に先のような、しかし先よりも小さな竜になった。私は、卵が孵ったのだな、と思った。 その円らな黒い瞳は、じっと母を見つめていた。 しかしそれは一瞬のことで、竜の子は鱗を煌めかせ、真っ直ぐに空へと昇っていった。 クロは吠えたてて、雪は麦藁帽子を振って、それを見送った。私はというと、すっかり圧倒されてしまい、ただその姿を見ているだけしか出来なかった。 そして二匹の竜が飛び立った後、にわかに黒い雲が湧き、彼方で雷鳴の轟く音が聞こえた。きっと彼らが雲を連れて来たのだろう。 少年はぼんやりとそれを見つめていたが、すぐに顔を押さえて泣き出した。細い肩を震わせ唹咽を漏らす姿は、痛ましく、しかし凄艶であった。 「子が行ってしまったことが、悲しいのかい」 異形と契り、子を産む気持ちは私には分からない。しかし、私の母ならば或いは。 「いいえ、悲しくなぞ」 「ならば、何故」 「嬉しいのです。僕のような者でも、ああして世界の片隅に証を遺せたということが」 少年は年相応の、清々しい笑顔を浮かべた。それは全てを語っていた。私には何を言う資格も無い。 黒雲からは稲光と共に、大粒の雨が降ってきた。 私は、少年の横顔に母の俤を見て、少しばかり泣きたくなった。 ← |