部屋の暗がりから、何かが此方を覗いていた。 薄く差す月の光が作る翳の中に、よくわからないものがいるのが分かる。 もう慣れたことだから何も感じないが、先日部屋を移されたのはこの所為だろう。 僕は色々なものを寄せる体質なのだ。ヒトでないものも、金も、男も。 家を追い出されてから、躯を売りながら生きてきた。 初めはそれが嫌で嫌で暴れ過ぎたので、檻の中に入れられたまま売り飛ばされた。 それからすぐ客を取ったが、一度取ってしまえばどうということはなかった。 身請けの話も幾つかあったが、どうせ悪いものを寄せることが分かっていたから全て断った。 別に幸せなどいらないのだ。 居場所さえあればそれでいい。 だから、追い出されるのは嫌だ。 去年の今頃は、丁度三軒目の見世を追い出されたのだったか。 暑い中歩いて女衒の所まで行ったのを覚えている。 あれは一番辛かった。 綺麗な着物も貰った本も、みんな取られてしまった。 特に、青い硝子の根付まで取られたのは悲しかった。 洋行帰りの若い男から貰ったそれは、透き通っていてつやつやで、まるで海を閉じ込めたようだった。 まわりに付いた銀の飾りがしゃらしゃらと鳴るのも、とても涼しげで好きだったのに。 丁度今頃の季節に貰ったのだ。 海が似合うよ、と誰かが言っていた気がする。 僕の知っている海は、遠い記憶の中の汚い海だった。 どんよりとした空の色を移し、きつい潮と生き物の腐る匂いがする、淀んだ深い水溜まりだ。 きっと、本物の海はあのびいどろのように美しいのだろう。 それを思い浮かべようと目を閉じた時だった。 ぎし、と床板の軋む音がした。 こんな夜中に客は取らない。皆とっくに眠っているだろう。 しかもこの部屋を使っているのは僕一人だけだ。 物盗りだろうか。 僕は背中から体が硬直していくのを感じた。 しかし、月の光を受けながら部屋に入ってきたのは、背の高い男だった。 浅葱色の着流しで、長い黒髪を一つに束ねている。 顔は闇に紛れて分からない。 けれど男が来た瞬間、暗がりにいた何かが溶けるように消えるのが分かった。 目の前の男はヒトのように見えるが、そうではないのだろう。 すっ、と静かな足取りで男は此方に近付いて来た。 動けなかった。 恐ろしくはないのだけど、動くことは出来なかった。 やがて男は僕の目の前にやって来た。 僕が何かを言う前に、男はあくまで自然に覆い被さってきた。 四肢が動かない。 抵抗しようとは思わなかった。 為すがままに、手足を弛緩させて畳の上に寝転がることしか出来なかった。 月の光が照らす男の顔が美しかったからか。 人間ではないからだろうか。 「探していたよ」 耳元で低い囁きが聞こえた。 頭の奥が痺れてぼうっとなった。 そして、男の腕が優しく身体を包んだ。 凍てつく程冷たい腕だった。 胸に顔を押し付けると、塩気の無い真水の匂いがした。 そうして、たった一度、短いくちづけを交わした。 それはほんの刹那だったけれど、もっと長く長く感じた。 其処からはあまり覚えていない。 男の振る舞いが優しかったのと、真っ青な水の中を泳ぐ幻影を見たのだけは覚えている。 それと、「迎えに来るよ」という低い囁きもだ。 気が付くと、何時もの古い畳の上に寝ていた。 何故か裸で、藍の浴衣が布団のように体にかけられていた。 手首には、男のものだろう青い紐が結ばれていた。 ふと目眩を感じて、水を飲みに立った。 すると、とくん、と何かが腹の中で動く感じがした。 卵の殻一枚を隔てたような不思議な音だ。 それは生き物の音であった。 動物でもヒトでもない何か。 そっと腹に手をやると、微かに真水の匂いがした。 男と同じ匂いだった。 唇に指を這わせると、氷のような唇と、口の中に広がる骨のように乾いた味が蘇ってきた。 嗚呼、あの瞬間僕はあのひとの妻になったのか。 孕んだのだ。 卵を産み付けられた。 透き通って硬質な、水の香りのする卵が、今僕の腹にあるのだ。 それを自覚すると、途端に水が恋しくなった。 汚れもなく、塩気もなく、ただ透き通った真水が欲しい。 一度だけの逢瀬をすすぐような、耳に残る囁きを洗い流すような。 「……迎えに」 卵を孵そう。 薄汚れた座敷なんかじゃなく、もっと美しい場所で。 あのひとにまた、見つけてもらえるように。 僕は初めて、自分の居場所から逃げた。 ← |