人生という名の少女 | ナノ




その少女の名前は、人生といった。
そんな頓狂な名前を付けたのは、彼女の父親でも母親でもなかった。彼女を産み落とした女であった。
昔の話だ。
彼女の父親は、堅物で有名な軍人だったのだが、ある時森に迷い込んで、一人の女を連れ帰ってきた。父親曰く、拾ったのだと言う。若くはない、罅割れた美貌の女だった。
女は女中として、少しばかり左に傾いだ屋敷に住むことになったが、その扱いは誰が見ても妾であった。
最初こそしおらしくしていたものの、じき獣が舌舐めずりをするように、ちらりちらりと女の奔放な本性が見え隠れするようになった。しかし、それに気付いたのは人生の母親だけだった。屋敷の男たちは、女の周りに漂う不穏な空気を恐れて、関わり合いになろうとしなかった。
やがて、女は身籠った。
誰の子か?――その答えはあまりにも明らかだったが、使用人すら、そして妻すら、誰も何も言わなかった。
父親は、ようやく自分の仕出かしたことの重大さに気付いて、朝も晩も、恐怖と後悔の中で神に祈りを捧げた。
女はどこ吹く風で、丸く膨れた腹を愛しそうに撫ぜた。腹の中では、その行為に抗うように羊水がぱしゃりと揺れた。罅割れていた女の顔はつやつやとした若さを取り戻していて、まるで屋敷中の不幸を吸い込んだかのようであった。
父親はその姿に更に恐れ戦き、黒々としていた髪は真っ白になってしまった。

凍える冬のある日、とうとう赤ん坊が産声を上げた。
窓硝子を震わせる程の声で泣く赤ん坊を見て、女は満足そうに笑った。赤ん坊はつるりとした肌の女の子だった。
女は赤ん坊を人生、と名付けた。
産まれてしまえば、女は人生をたいして可愛がらなかった。見兼ねた女中たちが世話をするようになると、女は人生を置いてさっさと屋敷を去っていった。
この哀れなる私生児の噂は幸いにも屋敷の外に広がってはいなかったので、父親とその妻は人生を自分たちの子供として育てることにした。皮肉なことに、夫婦は長い間子供を授からずに悩んでいたので、親族たちは大いに喜んだ。
人生はあの女から産まれたとは思えない程素直で聡明な良い子だったので、父も母も人生の忌まわしい生い立ちなど無かったかのように、そして夫婦の実の娘のように大切に育てた。それは使用人たちも同じで、彼らは尊敬と少しの同情の念を持って人生に接した。
しかし、人生が十二になる年に、かつて屋敷で馬子をしていた老人が金をせびるために、やって来た。勿論、父母は箒で掃き出すように追い返したが、老人は腹立ち紛れにあの忌まわしい女と人生の話を洗いざらい大声で喚きながら帰って行った。
怒った父は、老人を馬小屋の柱に括りつけて折檻をしたが、その話を聞いてしまった人生は青ざめた顔で、大きな瞳からぼろぼろと涙を零して震えていた。
母は人生の髪を撫で、肩を抱き、優しい優しい声音で人生を慰めた。屋敷の使用人たちも、本にお菓子に、果ては花や香水を片手に、代わる代わる人生の部屋を訪れた。
暫くの間、人生は床に伏せって泣き暮らしたが、やがて、泥のような気持ちの中で、人生は一つの答えを出した。道を外れず、何よりも真っ当に生きてやろう、と。
それからというもの、人生は何かに憑かれたように、懸命に禁欲的な生活を送った。
人生は修道院に行くことを望んだのだが、両親が泣いて引き止めるので、それはやめた。代わりに、あらゆる難解な書物を読み、労働を厭わず、朝晩の祈りを欠かさない信仰者となった。鉄色の長い髪をきっちりと三つ編みにして、流行りのドレスにも、香水にも、何ら興味を示さなかった。父の頼みでごく稀に社交会へ出席してもそれは相変わらずで、古臭いデザインの地味なドレスを着て、いつも隅っこの方で、つまらなそうな顔で立っていた。
それでも、人生の花のかんばせはその輝きを失わずにいたので、物好きで浮ついた男たちが戯れに声をかけることもあったが、そういった時に人生の薄桃の唇はよく動き――まるで獲物を見つけた獣のように――しなやかに理屈っぽい皮肉をお見舞いした。
人生は女たちには「女教授」などと噂され、男たちには好奇と熱っぽい視線を投げかけられながら、禁欲的に娘時代を終えた。年頃の娘がみな、ドレスという鎧を着るその傍らで、人生は知識という鎧を着ていた。厳しい光をたたえたその姿は、さながら誇り高い騎士のようだった。
娘時代を終えて暫くして、人生は一人の男と結ばれた。熊のような体躯で、顔の大きさに不釣り合いなほど小さな目をした、寡黙な軍人だった。しかし、彼は誰より優しく、実直で、穏やかな心の持ち主だった。
口さがない人々は、凍りつくような美貌の人生と、ある種醜いとも言えるこの男とを見て、まるで美女と野獣だ、と囃し立てた。しかし、人生はそんなことは何処吹く風で、心から幸福そうに、日々を過ごした。
慎ましやかな結婚式が行われてから数年後、人生は子を身籠った。日に日に人生の腹は丸く膨れて行き、時折幽かな水音を立てた。夫が緩んだ顔でそわそわするその横で、人生はというと、張り詰めた表情をしながら、来たる日のことを考えていた。走馬灯のように思い出される己の出自と、何時迄も何時迄も戦った。写真を一度見たきりの、会ったこともないあの女の笑い声が聞こえる気がして、夜もろくに眠れなかった。

とうとう、その日はやって来た。
窓に吹雪が叩きつけられる凍える冬の夜だった。実家から手伝いに訪れた女中たちは、耳を塞いでぶるぶる震え、中には泣き出す者もいた。確かに、悲しげな風の音には、女の笑い声が混じっているように聞こえた。陰鬱とした屋敷の中で、夫が心配そうに刻む靴の音だけが救いだった。

奇妙な静けさの中で、人生は幾度も見知らぬ女たちの幻影を見た。女たちは判で押したように同じ顔をしていて、ゆらゆらと半透明な瞳で人生を見つめていた。
そして子が産声をあげたのは、傍らに控える女中の声と、幻影の女たちの泡のような声がゆらゆらと溶け合い始めた頃だった。
ひどい難産の末に産み落とされた赤ん坊の股はつるりとしていた。女の子だった。
人生は我が子を一目見て、何て平凡なのだろう、と思った。その赤ん坊は、目も鼻も眉も、母である美貌の人生に全く似ていなかったからだ。例えるならそう、社交会で小鳥のように笑っていた、あの月並みな娘たちのような顔だった。
――勝った!その瞬間、人生は叫び出しそうな程であった。
あの美貌、悪徳のかんばせから逃げ切ったのだ。呪縛から放たれたのだ。
その証拠に、部屋の隅に立つ人生とよく似た顔の女が、恨めしげに人生を睨んでいた。きっと人生にしか見えていない、半透明のかんばせ。あの女だ。罅割れた美貌の、金色の髪の魔女だった。
人生は高らかに叫んだ。
見ろ。私の娘はこんなにも平凡だ。血は途絶えた。怠惰でもなく、奔放でもなく、私は真っ当に生き抜いてやった!
人生は、涙で滲んだ視界の端で、女の幻影が煙のように揺らいで消えるのを捉えた。
しかし、懸命な我が子の泣き声と、嬉しそうな夫の声を聞くうちに、そんなことは忘れてしまい、自分の中の女の記憶も揺らいでいくのを感じながら、ゆっくりと眠りに落ちていった。





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