曇り空。
彼女の薄い影が地面に落ちる。

「僕は堕ちるよ」

ここは学校の屋上。
彼女は忙しい僕を呼びつけた癖にそう言って笑っている。
低くも高くもない柵に腰掛けて、明るく快活に。

「堕ちるって……また冗談だろ?」

そう、これはいつものことなのだ。
陽気で空虚な彼女は、こういう陳腐な芝居が大好きなのである。

「いいや、今日は本気」
「嘘だね」
「本気だって」

彼女は困ったように笑うと制服の胸ポケットから小さな紙を取り出した。
僕は自分の目前に差し出されたそれを渋々受け取る。
「はい」
「何だよこれ」
「僕なりの呪いさ」
「……意味が分からない」
「だから、呪いだって」
ふふっ、と楽しげに笑うと、彼女は柵の外側へひらりと飛んだ。
一瞬戦慄したが、そこにはまだ地面があった。
「びっくりした?」
「……まさか」
彼女はけらけら笑うと、僕に新聞紙でくるまれた包みを取るよう頼んだ。

柵の内側にそっと置かれた包みを、言われた通り彼女に渡してから、重苦しい不安が心に広がった。
まさか、彼女は本当に飛ぼうとしているんじゃないだろうか。
そう思い始めたら、心臓が急に激しく鳴りだした。

「なあ、」
「何」
「今回も冗談なんだよな」
「残念ながら本気だよ」
「嘘だろ」
「あ、その紙は僕が飛んでから見て」
「話聞けよ」
「大丈夫、身の回りは整理してきた。遺書も用意したし、花も用意した」

そう言って彼女は包みをそっと広げた。
中身は真っ赤な彼岸花。
ますます不吉だ。

「なあ、おい」
「その紙、他の人には見せちゃ駄目だよ」
「そうじゃなくて」

僕が思わず掴みかかりそうになった時、風が吹いた。

びっくりする程冷たい風だった。
彼女の長い髪を乱して風は去った。

「だめだよ」

彼女は眼鏡の奥の暗く鋭い瞳を向けてそう言った。
それは貪欲な獣を連想させて、僕は背中がぞくりとするのが分かった。

「あと五秒数えたら堕ちるね」
「……待てよ」
「見つかると大変だから、今すぐ走って逃げて。殺人犯にはされたくないだろ」
「な、何でだよ、おかしいだろっ。ぼ……僕は呼ばれて来ただけで」
「だって僕が呼んだんだもの、来なきゃおかしいさ」
「ふざけてる場合じゃないだろっ!」

思ったより大きな声が出てしまった。
彼女の顔は見れなかった。
ほとんど叫ぶように、僕は彼女へ言葉を投げ掛けて、それでいて焦っていた。

繋ぎ止めなくては。

それだけが僕の心を支配していた。

「……そうだね」
「え?」

それだけ焦っていたから、彼女の返答は意外だった。
あっさりと彼女がそんなことを言ったのが驚きだった。

「やっぱり、僕は馬鹿だったよ。君も命も、軽く見すぎてたみたいだ」
彼女はそう言うと、ひらりと柵を飛び越えてこちら側に戻ってきた。
何だか晴れ晴れとした顔だった。
「ごめんね」
そして小さな声でそういうと、僕が握っていた紙をするりと抜き取って、細かく破いてしまった。
はらはらと、白い花びらのように紙は散った。書いてあることは結局わからなかった。

それからは、平凡だった。
何時ものように二人で帰り、僕の家の前で彼女がまた明日、と手を振って家に帰って行った。

次の日も、また次の日も、そのまた次の日も。

僕らはあまりにも平凡だった。
なのに、本当に突然日常は壊れた。

あの日から一週間後、彼女は自殺した。

何も告げず、何も遺さず、彼女は飛び降りた。
花は無かった。遺書も無かった。
理由も、無かった。

彼女は死に何を見た。
幻想か、救済か、それとも現実か。

それを知ったところで僕に何が出来た。

彼女を想うことに意味はなんか無い。

人は、意思を疎通し得ない。
それが真理だ。
彼女が教えてくれた。

僕の忠告など意味は無かった。
止めたところで、止められなかった。

ならば彼女は、僕に何を見たのだろう。
死を考え直すだけの何かが見えたのだろうか。

それとも。

それを考えて、僕は少しだけ不安になった。




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