「ヤセガミ」 鈴の鳴るようなソプラノで、斎は唐突にそう言った。 その瞬間、明らかに座敷の空気が変わった。むっとした湿気と、そしてあの生臭さが強くその場に立ち込め、斎は操り人形の糸が切れたように、がくん、と頭を垂れた。 次の瞬間、ぶるぶると痙攣するように斎は体を震わせ、その唇から獣のような呻きが洩れ始めた。 言葉とはいえないそれはしばらく続き、やがてはっきりした咆哮になった。それはまるで犬のような、いや、写真が真実を写すならば、狼の叫びなのだろう。 「われをよぶはたれぞ」 突然、顔を伏せたままの斎の口から、少女のものとは思えぬ太く低い声が響いた。その変化に、斎はたった今まさにその身に神を降ろしたのだと悟った。 私はその異様さに血の気の引く思いであったが、化野は臆することなく斎に憑いたモノに問い掛けた。 「貴殿の名はヤセガミだな」 斎でないモノは何も答えなかった。 沈黙を肯定と受け取ったのだろう。化野は更に重ねて問うた。 「貴殿を奉る者は何処にいる」 再びの沈黙。化野がまた問い掛けようとしたその時であった。 「おまえをたたる」 唐突に狼のようなモノはそう言った。 「どうぞ。どうせ幾重に祟られている」 化野は全く意に介すことなく、むしろ何処か楽しげに返した。 だが、急にあの爬虫類の瞳に不穏な光を宿しながら、地の底から響くような声で驚くべき言葉を発した。 「ただ、祟るなら必ず貴殿を食い殺す」 「ならばたたろう」 得体の知れないモノはにやりと気味の悪い笑みを湛えながら、斎の身体を借りて化野に息を吹き掛けた。そして、生臭い風と共に大声でしばらく笑うと、不意に大きく息を吸って畳に倒れ込んだ。 私は今まで目の前で行われたことが真実とは思えなかった。しかし、例えこれが綿密に脚本を練り上げた演劇であったとしても、私は必ず恐怖しただろう。 これは人が踏み入れて良い世界ではないと思った。 情けないことに、倒れた斎を榊が元の座敷へ運び戻って来るまで、私の両手はぶるぶると震え続けていた。 「成る程、やはり厄介だ」 「正体は分かったのかね」 変わらず不機嫌そうな顔の化野に、榊が尋ねた。 「大体ですが。先生、この箱を持ってきた客が何処の人間か分かりますか」 突然話を振られたので、私は心底驚いた。化野の真意が掴めぬまま、震える手を押さえながら答えた。 「た、確か……ち、ち、秩父だとか」 化野はそれを聞いてふん、と鼻を鳴らすと、懐の煙草入れを取り出して、キセルに火をつけた。雁首と吸い口に踊る骸骨が彫られたそれは、化野に似合いすぎる程似合っていたが、あまりにも悪趣味であった。 私がキセルから漂う薬臭い奇妙な煙に噎せた時、榊が厳しい表情で化野を睨んだ。 「枯木、説明はまだかね」 苛立った様子の榊を諌めるように、化野は煙草盆の縁に雁首を軽く叩き付けた。 「勿論、しますよ。先生にもすべき話かどうかは分かりませんが」 「わ、私は」 むくむくと沸き上がる好奇心と恐怖心に私は抗うことなど出来なかった。私の姿を見て何かを感じ取ったのか、化野は淡々と話を始めた。 「まずこいつは呪物です。人を害するように出来ている。中身は恐らく獣、それも狼でしょう。人を食っているか、もしくはもう妖物と化した奴だ」 「何故狼だと言える」 「まず、ヤセガミと言う名。マタギの使う山言葉でヤセとかヤミは、狼を表します。それに秩父と言ったでしょう。彼処には三峯神社がある。山岳信仰ですよ。大口真神を奉っていると知っているなら、きっと狼を使う」 次 ← |