気が付いた時には、もう夕方であった。
ずきずきと痛む頭を押さえて身を起こすと、斎が水の入った湯呑みを差し出してくれた。あの透き通る瞳は黒い布で隠れていたため、少しだけ残念だった。
丁度化野が座敷へ入って来て、また数日後に此処へ来るよう私に告げた。正直な所、私はもう逃げ出したかったが、祟られている以上そういう訳にもいかなかった。
渋々、了承の旨を伝えると、化野は数枚の紙幣と何かの札を渡してきた。今日はもうこれで帰れということらしい。
化野の住所を聞いて、私はこの傾いだ家を後にした。玄関を出る際、斎が手を振ってくれたことが、唯一救いになった気がした。

その日写真館に帰った私は、明かりが照らさない闇に怯えながら一夜を過ごした。怯えながらも熟睡してしまったことは、我ながら些か無神経のような気もしたが。
右腕の痣の痛みで目覚めた時には、もう真昼間になってしまっていた。ちらりと痣を見ると、心なしか昨日よりも大きく広がっているような気がした。
明るい日差しの有り難さは漸く思い知ることは出来たが、こんな時間に目覚めた所で仕事をする気にはなれなかったので、また一日休業することにした。
昨日のことなど忘れて休養出来るかと思ったが、届けられた新聞のある記事を見てから、それを諦めざるを得ないことを悟った。
東京のとあるホテルで客が変死した事件があったことを告げる記事の、その名前に私は見覚えがあった。先日、私の写真館を訪れたあの青年である。
化野の昨日の言葉が思い出されて、私は軽い眩暈を感じた。全てがあの男の描いた図面の中で動いているような、不安定な心持ちになった。私はどうしても彼が死んでしまったことを信じたくなかった。それを信じれば、化野や榊の言うオカルトを認めてしまうことになるのだ。しかし、忌まわしい箱の中身である、あの獣の眼窩を思い出すと、信じなくてはいけない気にもなる。
そんな風に、私が頭を抱えて逡巡を繰り返していた時であった。階下から聞き慣れぬ若い男の声が聞こえた。ぼんやりとした頭で分析した結果、その声は店主たる私に用があるようである。どうやら、表の貼り紙など見ていないらしい。
大方、田舎から出て来た書生か何かだろうと思い、私は疼く頭を押さえつつ階段を降り、寝巻きのまま硝子戸を開けた。
しかし、そこに立っていたのは私の予想とは掛け離れた人物であった。
まず、大輪の花が散った翡翠色の着物が目に入った。私よりも三寸程背の高い若い女が其処にいた。いや、女にしては肩幅が広く、あちこち骨張っている。だが、鳶色の瞳と藍のリボンに彩られた赤茶の髪を見て、恐らく西洋の血が混じっているのだろう、と無理矢理納得した。それよりも、若いご婦人の前で寝巻き姿を晒してしまったことを少々恥じた。
ならば先程の声の主は一体何処にいるのであろう、と考えた時であった。女は長い睫毛をちょっとばかり下げて、私の顔を大きな瞳で一瞥すると、漸く言葉を発した。
「あんたが谷口先生?」
女の装いとは正反対の、若々しいテノールが場に響いた。思わず幻聴かと思ったが、何よ、と呟く声と共に喉仏が大きく上下するのを見て、やっと事態を飲み込んだ。その瞬間の私は余程間抜けな顔をしていただろう。
「き……君は誰かね」
「あたしは百目鬼。化野さんのお使いで来ましたの」
百目鬼からあの忌まわしい化野の名前を聞いた途端、男の声で女の口調を使われるむず痒さを感じるのと同時に、自分の気持ちが勝手に気分が沈むのを感じた。




×
第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
- ナノ -