泥の中///鬱

今日、私の故郷は水に沈む。

「由美、行くぞ」
「……うん」

私の生まれた所は山間の小さな村で、その暮らしはひっそりと穏やかであったのだが、それ故に経済発展という不思議な波に飲み込まれてしまった。
公共事業という化物はあまりにもあっさりと村を侵食し、それまでの絆も土地への愛着も、まだ見ぬ未来へと吸い込まれ、崩れ、消えた。

その得体の知れないものが真っ先に襲ったのは、私達の親であった。
戦争の後に生まれた彼らは都会への強い憧れを持ち、何より新しい幸福を掴むためにはお金が必要なことを知っていた。
故郷を捨てない老人達に、新しい幸福について滔々と語り、毎夜言い争った。
その波紋は子供達へも段々と伝播し、大人も子供も目を輝かせながら未来に思いを馳せた。

勿論、大人の中には故郷を捨てられない人もいた。最初はそんな大人の方が多かった。
でも、人間は目の前の利益に弱い。経済発展という化け物は恐ろしく巨大で柔らかであった。
瞬く間に私達の村はお金に換算され、人々は故郷を売った。
そうなると、悪者になるのは私達のような反対派だった。故郷を愛する私達は、幸福を妨害する路傍の石であった。
両親がおらず、祖父と一緒に暮らす私にとって、公共事業などどうでも良かったのだ。そんなことをして何になるのか。私は到底、故郷の土から離れられる気がしなかった。
その結果、学校でも村の中でも、私はどこかおかしな居心地の悪さを感じた。
だが、祖父も畑も川も山も、どこまでも穏やかであった。公共事業など何するものぞ。私には土が有れば良かった。

そうしている内に、一人また一人と、櫛の歯が欠けるように村から人が去っていった。私達は邪魔者から、忘れられた幽霊になった。
村は遂に死んだ。
川は塞き止められ、山は崩されることとなった。
私達の暮らした村が水底に沈むというのは、不思議な話だった。
この粗末で温かい家の中に、冷たい水が満ち満ちているのを想像すると恐ろしくなった。
私の愛した居場所はこの後永遠に水に沈むのだ。私が死んだら、誰がここを想うのだろうか。
結局最後の日まで、私は毎夜泣き続けた。故郷が墓場のように静かになるのが、かつて人々が生きた場所が水に沈むのが、ひどく悲しかった。

最後まで村に残った私と祖父が、街へ引っ越す今日はどんよりと曇っていた。
私達は言葉を交わすことなく荷物をまとめ、村の入り口でバスを待った。
バスに乗り込めば、もう私は村の人間ではなくなる。
ああ、私も町のこどもになるのだ。新しい生き物へと私は変わる。
遠くからエンジンの音が近付いて来る。あの壊れそうに揺れる小さなバスとも、もう会うことはないのだ。
祖父が先にバスに乗り、私は荷物を渡した。
振り返って村を見ると、今までで一番美しいと思えた。涙で滲んでしまったからかもしれない。

「おやすみ」

私は人知れず呟いた。
もう蘇らないこの場所への別れの言葉だった。

故郷よ、永遠に眠れ。
私は二度とここには戻れない。

「おじいちゃん。行こう」
「ああ」

今日、私の故郷は泥に沈む。



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お題:「おやすみ」
120423 魚の耳様提出
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