羽虫の夢///

N先生へ

このお手紙は懺悔のために。
先生の治療のお陰で私の体が随分恢復したことを、まずお礼申し上げます。
しかし、優秀な先生のお力添えがありましたとも、私の心が恢復することは、ついぞありませんでした。
この先、どんなに効き目のあるお薬が開発されたとしても、私は立ち直れないでしょう。
今から私は、私の罪と言うものについて此処に記したく思います。
何度も何度もお話致しました、あの夢の話で御座います。あれこそが私の罪そのもので御座います。
記そうとすると、手が震えます。しかし、記さなくてはいけないのです。私は赦しを乞わなくては。

私は夢を見ます。
生まれてから尋常小学校を卒業するまで育った、私の家の夢で御座います。
私の家はどうやら土地を随分持っていたようで、この年になるまで食うに困ったことは御座いません。
その上、父が文化人を気取っておりましたので、庭石から花まで庭にも随分拘りまして、家の中庭には、遠くから取り寄せた自慢の桜が植わっていました。
夢に出て来るのは、この桜の木で御座います。いえ、桜と見知らぬ誰かです。
私は夢の中で、見知らぬ誰かになっています。自分の足と着ているものから察するに、どうやら私は小さな男の子のようです。着崩れた着物は垢じみて汚く、足は細く傷だらけです。
何故だか男の子になっている私は、庭の大きな桜の木に手を括り付けられています。毛羽立った縄はかなりきつく結ばれていて、私の柔らかな皮膚にミミズ腫れを作っていきます。
最初は縄を解こうとしましたが、もうどうにもならないことを知ったのか、やがてぐったりとしてしてしまいました。
絶望。この体は私そのものではありませんでしたが、確かにそのたった一つが誰とも知らぬこの心に満ち満ちているのがひしひしと感じられました。
暫くぼんやりしていると、母屋の方から恰幅の良い男がやって来ます。男の子とは違い、上等の布を使った良い仕立ての着物を着ています。
男の顔は靄がかかったようにぼやけてよく見えないのですが、怒っているようだということだけは分かります。
手には家畜用の鞭を持っています。あれでぶたれることを考えて、誰かの、いえ今や私の体はがたがた震え出しました。
案の定、男は何やら喚きながら、大きく鞭を振り下ろしました。薄っぺらな皮膚が裂け、血が出ます。
ごめんなさい、ごめんなさい、と幾ら叫んでも、男の手は止まりません。むしろ、その謝罪が更に男を怒らせたようでした。
男は鞭を放り出し、大きな拳で私ーー本当は誰とも知らぬ子ですがーーを殴りました。思い切り、加減も無しに殴るので、鼻からも口からも血が出ます。頭がぐらぐら揺れ、一気に口中に錆の味が広がりました。
私である所の男の子も、目の前の男も、もう物狂いのようになって、何方とも分からぬ叫び声が谺しました。
こんなにも恐ろしい出来事が起きているのに、桜の大木はただ静かに花弁を降らせています。風も吹いていないのに、雪のように花弁がぼろぼろの私の足元に積もります。
あんまり男が私を折檻するので、私は、モウどうにでもなってしまえ、という心地になって、されるがままで御座います。
ぼうっとしたまま重い頭を母屋の方へ向けると、だだっ広い座敷が見えます。
座敷の真ん中には、お召しを着た女が
ぽつんと座っています。目の前の男と同じように、顔は靄がかかっているようにぼやけて、よく見えません。しかし、冷ややかに此方を睨んでいることは、何とはなしに理解しました。
女の後ろに隠れるようにして、女の子も此方を窺っています。今折檻されている私よりも、二つ三つ年長の、黒目のぱっちりとした子でした。
恐ろしいことに、女の子は私が折檻される様子を見て愉快そうに笑っているではありませんか!私は頭の天辺から氷水をぶっ掛けられたようになって、ゾッとしました。
私ががたがた震え出すと、女の子はますます大きな口を開けて、高らかに笑い出しました。いつの間にか、額からは二本の角がにょっきりと生えています。あッと思った時には、もう男も女も消えていました。
女の子は真っ赤な袂を翻して、ぽおん、と座敷を飛び出しました。柘榴のような大口を開け、此方へやって来ます。
一歩……何と恐ろしい……もう一歩……近付いて来た……また一歩……ああ、喰われてしまう!
其処で頭の芯を貫くような悲鳴を上げて、私は漸く目を覚まします。
もう指の先まで汗だくです。そして、ふうふうと、荒い息を吐いて、お水を一杯飲んで人心地ついてから、心配そうにやって来た父母を宥めます。
もう十年もこの悪夢に悩まされていますが、幸い癲狂院に入れられることもなく今日まで生きて来られました。
以上が先生もご存知の、私の夢の話で御座います。
そして先日、私はある恐ろしい真実に辿り着いてしまったのです。
先生というお医者様に出会い、人としての理性を僅かながらも保ってしまったばかりに、私は、私の罪の重さを知りました。
先だっての悪夢は、夢などでは御座いません。私が確かに体験した、紛れもない現実で御座います。
私の家、ならば夢の中の人々は誰もかれも私の家族で御座いましょう。そう、あの夢で折檻をする男は私の父、冷ややかに其れを見つめるのは私の母なのです。
そして、本当に恐ろしいのは、私。あの鬼娘こそ、かつての私であるのです。
ああ、何たる残酷でありましょうか。私は全て思い出した。
かつて私には腹違いの、二つ下の弟がいたのです。父が気紛れに、売女に産ませた男の子です。
父母はその子を引き取りはしましたが、人としては扱いませんでした。
まさにあの夢と同じく、父は来る日も来る日も桜の木の下であの子に折檻をしました。何も知らない幼い子に。
誰も悪いことだとは言わなかった。誰も私を諭さなかった。神よ、私の愚かさを御許しください。私は、あの子の命を、何もかもを嘲笑いました。子供だからと許されるべきではない。私は邪悪です。鬼なのです。
やがてあの子は死にました。機嫌の悪かった父が、石で頭を叩き割ったからです。その瞬間、母は袂で私の目を覆いましたが、どくどくと流れる赤いものを、私は視界の端に捉えてしまいました。それでも、私は何も感じませんでした。
弟の死は父がなかった事にしてしまいました。恐らくその時に、私たちも全てを忘れてしまったのでしょう。
先生、私は死んでしまおうと思います。
真実を知ってしまった今、とてもこの先生きていかれません。私は狂人です。人の心を持たぬ、醜い化け物です。
先生、先生、本当にありがとうございました。貴方のお陰で、私は浅ましく生き永らえずにいられます。きっとあの夢は弟が見せていたのでしょうね。それとも、桜の木かしら。
あの子が死んだあの場所で、私も死のうと思います。本当に今までありがとうございました。
最後に不躾なお願いですけれど、このお話はどうか先生のお心に秘めたままでいてくださいませ。
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