雪女郎///和

師走も半ば。
冴え冴えとした風が吹き荒れて、早くも江戸に雪を連れて来た。
文蔵の住む神田でも勿論それは同じで、往来のあちこちに、子供らの作った小さな雪兎がちょんと顔を覗かせていた。
夜五ツを半刻ばかり過ぎても雪は止まず、明日には雪達磨が幾つも出来そうな様子だった。
そんな夜更けに、誰かほとほとと戸を叩く音がする。
炬燵でこっくりこっくり舟を漕いでいた文蔵も、傍らで針仕事をしていた孫のお雪も、互いの顔を見合わせて、怪訝な顔で戸口を見遣った。
再び戸が鳴る。
お雪は身を硬くしたが、文蔵はその音を聞いてふっと柔らかな笑みを浮かべた。ととん、と抑揚のついた叩き方に聞き覚えがあったのだ。
「お雪、開けておやり」
文蔵は心配そうに眉を下げたお雪に笑いかけ、大丈夫だよ、と言った。
戸惑いながらも戸を開けると、若い男が頭に雪を乗っけて佇んでいた。
寒さで赤くなった頬を擦りながら男が緩い笑みを浮かべた途端、お雪は安堵の表情を見せた。
「何だ、平さんだったのね」
「へへへ、御免よ。ちょっくらお邪魔さしておくれ」
男は文蔵の知り合いである、飾り職の平吉であった。
平吉は勝手知ったる様子で家へ上がると、火鉢を抱き込んでぶるりと一つ、身体を震わせた。
「どうしたんだい、こんな夜更けに」
「なァに、呑みに出たは良いが、おあしが無いんじゃ話になんねェ。そこで一つご隠居に恵んで貰おうと」
「困ったお人だねぇ。でも、私は帰って来ないお鳥目をやる程お人よしじゃないよ」
「そんなぁ。後生ですから。あっしがからからになって死んじまっても良いんで?」
そこそこ見てくれの良いつるりとした顔を崩して、平吉は文蔵に嘆願している。
十年前ならいざ知らず、歳をとれば堅物だって吝虫だって、情にほだされやすくなる。
文蔵も平吉の姿に、若い頃の自分を覗き見たのか、柔らかな笑みを小さく浮かべた。
「しょうがないねぇ。お雪、燗を付けておやり」
「ひゃあ、ありがてぇ。流石ご隠居、あっしの行きつけのとこの親父より気が利いてまさァ」
満面の笑みで喜ぶ平吉の肩をぺちん、とお雪が軽くはたいた。
「調子が良いんだから、もう。言っておきますけど、あんまりお酒無いんだからね」
「そんぐらい分かってらぁ。へッ、小言が多いと嫁の貰い手が無くなるぜ」
「余計なお世話よっ」
お雪はぶつぶつ言いながら、土間に降りると銚子や猪口を用意し始めた。
「お雪、私も少しいただくから、何かつまめるものも頼むよ」
文蔵が孫娘の背中にそう言うと、はぁい、と上の空の返事が返ってきた。
その様子がかつての自分の娘――つまりはお雪の母である――にそっくりで、訳もなく文蔵は笑顔になった。
「ねぇ、ご隠居。肴になるような話を一つ頼みますよ」
「なんだい、急だねぇ」
「へへ、あっしは絵草紙だ何だより、ご隠居の捕物話の方が好きなんで」
「持ち上げたって何も出ないよ」
文蔵はかつて、この辺りでは知らぬ者の無い、腕利きの岡っ引きであった。
隠居するようになってから、文蔵は昔話が一つの楽しみになった。
勿論、捕物の話である。
若い者が己の話を、きらきらとした目で聞いているのが、どうしようもなく楽しい。
ぺろりと唇を舐めて、文蔵は今か今かと待ち構える平吉の顔を見た。
さて、今日は何の話をしようか。


今日の話は、私が見聞きした中でも、いっとう不思議な話だよ。
こんな捕物は後にも先にもこれっきりさ。
あれは、私が御用聞きとして足腰も軽々動いた頃だから、幾十年も前の話だ。
丁度今夜みたいに雪が降っていてね、提灯を持つ手もかじかんじまって。
え?何があったかって?
殺しだよ。若い女が縊り殺されて、大川に投げ込まれたのを、酔っ払った棒手振りが見つけたんだ。
その棒手振りは、女の顔を知っていてね。日本橋だったか、小間物屋の女中のおみつって女だってすぐ分かった。
……ああ、店の名前か。もう色んなことを忘れっちまったからなあ。
ううん、取りあえずは和泉屋とでもしておこうか。
とにもかくにも、検分してみると、どうも下手人は男らしいということが分かった。
首のところの痣がね、男の力で出来たようで。
うん?ああ、そりゃあ、見るだけで分かるのさ。岡っ引きなんてのは、そういうものばっかり見るんだから。
雪が積もっていたから、鞋の跡がくっきり残っててね、手下をやったから、下手人はすぐ捕まるだろうという話になった。
ただ、一つ不思議なことに、女は赤子を抱いていたようだったんだ。
当の赤子はどこにもいないんだけれど、綿のたっぷり入った御包みをぎゅっと抱きしめていたんだよ。
こりゃあ赤子も水の中へ沈んじまったろう、ということになったんだが、同じ頃合いに、辺りを妙な女がうろついてるって話が私の耳に入ってね。
その話の出所は、おみつの骸が上がったすぐ近くの、茶問屋だった。
小心者の番頭が、震え上がっちまって話を持ち込んだらしい。
何が妙だって、こんな夜更けにあちこちへ火を貰いに訪ねてるって言うじゃないか。
何処へ行っても断られているみたいで、年若い女中は随分怖がったようだよ。
そりゃそうだ、この寒い中白い浴衣一枚ぎりで履物も無しに、雪の中乳飲み子を抱えてるって話だ。
うん、平さんの言う通りだ。私も、まるで化け物のようだと思ったよ。
こりゃあ怪しいってんで、その女を追ってみると、何と、手下に追わせた鞋の跡が行く方と同じなんだ。
いよいよ怪しいと思ったんだが、おかしなことに女の足跡は無いようだった。
引き返そうかと思っていると、ぱっと手妻のように、もう一つ骸が見つかった。
図体のでかい男がばったり倒れ込んでいたんだ。
胸には懐剣が深々と刺さってて、こう雪の上にじわじわと、真っ赤な血溜まりが。
ははは、聞きたくないかね。そうだなあ、聞いてて良いものではないからねえ。
おっ、平さん酒が来たよ。お雪も、悪いねえ。
さあさあ、仕切り直しだ。まずは一杯、ほれ、呑みねえ。
うん、それじゃあ私も。
おっとっと、そんなにいらないよ。
……ああ、全く歳はとるもんじゃあないねえ。すっかり酒もいけなくなっちまって。
さて、どこまで話したかね。
ああ、それで鞋の跡はそこで消えていたから、どうもこの男が下手人らしいということが分かった。
だが、先に行かせた手下はそこで座り込んで、ぶるぶる震えていやがる。
やい、大の男がみっともねえ、と思わず叱り付けたんだが、手下が見ている方を向くと、女が一人立ってるじゃないか。
そうだよ。それが、茶問屋の言っていた妙な女だ。
御用のために色んな恐ろしいことを見てきたもんだが、その女を見た途端、それはもうぞっと来たね。
肌がね、真っ白だったんだよ。
見たことはないが、吉原の大夫なんかよりもずっとずっと白いだろうと知れたね。
まるで紙のようで、何だかひんやりとした心地が、離れていても伝わるようだった。
襤褸の提灯で肌がぼうっと照らされて、そうそう、丁度幽霊芝居のような。
おまけに唇ばかり紅を引いたように真っ赤でねえ、およそ人とも思えなかったよ。
こっちは芯まで凍えそうだってのに、裸足で雪をしっかり踏んで。それなのに、足の先すらちっとも赤くなくって、あれは大層気味が悪かった。
これが話に聞く雪女かと思ったよ。
私が向き合った途端に風がびゅうびゅう吹いて、女の結っていない髪を揉みくちゃにして。そりゃあ、生きた心地がしなかった。
それでも私がどうにか踏ん張れたのは、女が赤子を抱いていたからだねえ。
何を喋ったか覚えちゃいないが、手下の前だ、震えちゃならねえ、赤ん坊は助けにゃいけねえ、と腰を据えてね。
それが雪女にも伝わったんだろうよ。
綺麗な瓜実顔をすっと曇らせて、ちょっと迷ってから私の方へ赤子を渡したんだ。
それまで大人しかった赤子は、私の腕に収まった途端、火の点いたように泣き出してね。
雪女はそれを見届けてから、軽く頭を下げて、目の前で煙のように消えちまった。
いや、煙というか。そうだな、あれはまるで灰神楽のようだったね。


「……というお話だよ」
文蔵が長い昔話を語り終えた時、平吉は少し不満げな顔で空の銚子を軽く揺らした。
「何だか、ふわふわした話だなァ。結局、下手人は誰だったんです?」
「ああ、それは胸を刺されて死んだ男だよ。おみつと夫婦だった熊五郎という男でね、長屋住みの大工だったんだが、よく悋気を起こす奴だったようだ。その上、酒は浴びるように飲むし、女房にすぐ手を上げるという困った野郎だったんだよ」
「そりゃあ、男の風上にもおけねえ野郎だ」
「そうだねえ。おみつが殺された日、熊五郎は何時ものように悋気の虫をひょっこり出して、女房をちくちくいじめやがった。なんでも、小間物屋の手代に色目を使いやがったと、ね。これにはおみつもかちん、と来たらしくって、茶碗は飛ぶわ障子は外れるわの、大喧嘩になったみたいでね」
「それで、何でおみつが死ぬんです?そんな所でやっちまったら、長屋の連中にばれちまう」
「喧嘩の途中でおみつは逃げ出したようだよ。熊五郎は加減を知らない野郎だから、まずいと思ったのだろう。着の身着のまま、生まれたばかりの赤ん坊を連れて逃げたは良いが……ってえ寸法さ」
うげえ、と平吉は苦虫を噛んだような顔をした。
「嫌な野郎だぜ、全く。……あれ?じゃあ熊五郎は何で死んだんだ?まさかあの雪女が、ってこたぁ無いでしょう」
「……それは今でも、皆目分からないんだよ。何しろ雪女は、こうぱっと、消えちまったんだもの。この懐剣はあんたのもんですか、熊五郎とは知り合いですか、なんて聞く間もないわな」
「ふうん。でも化け物が刀なんか使いますかね。奴ら金気を嫌うってえ話だ。それに、何で赤ん坊を助けたりするもんか……何だか尻の据わりが良くねえ話だァ」
そう大声で喚くと、酔っているらしい平吉はそのままごろりと横になった。
いつの間にか、空の銚子が三本も転がっている。
平さん風邪をひいてしまうよ、と声を掛けたが、当の平吉はぐうぐう鼾をかき始めた。
文蔵は、苦笑いをちょっと顔に浮かべ、誰に言うでもなく呟いた。
「おかしな話だけどね、私にはあれがおみつに似ているように見えたよ。きっと、幽霊だ。死んでも熊五郎が、憎くってしょうがなかったんだろう」
そう思ってやった方がいいんだ、と口の中で呟いて、文蔵は外の音を聞いた。
あの晩のように、しんしん、と雪の積もる音が聞こえた気がした。


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お題:師走
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