畜生腹///鬱

氷のような風が、外套をすり抜け私の肌を刺す。
夜陰の中、雪がぼんやりと光るように降っている。
ひどく冷たい白と黒、この二色の風景は、私の心をぐるりと囲んで暗澹たる気分にさせた。
私は今日、彼の女に伝えなければならぬ。

女に出会ったのは何時だっただろうか。
あの日も雪が降っていたのを覚えている。
最初は特に変わったこともない、ただの売笑婦と客の関係だった。
世間知らずの私がふらりと迷い込んだ遊里に、私の心を捉えて離さない美しい女がいたというだけのことだった。
確かに、女は美しかった。
上流階級の女のしとやかさとは違う、奔放さと強さがあった。
多分、私にはそれが珍しかったのだろう。舶来の玩具を贈られた小さな子供のように、私は彼女を愛した。

しかし、それだけだった。
私は心からの情愛ではなく、あくまで女を珍しい物として愛でているだけだった。
誰にでも、人生において迷う時はある。私の場合、それはこの時だった。
自分の身分も地位も、何もかも簡単に捨てた気になっていた。
でも、それは単なる錯覚で、結局私は何も変わっちゃいなかった。
廓通いが親に知られることもなく、私の人生は淡々と最初から決められたものに沿って進んでいった。
半年前に縁談が持ち上がり、三ヶ月前に結婚の日取りが決まった。
女にそれを告げる暇もなく、それまでの自分を省みる時もなく、私は三日後に結婚しなければならない。

そんなことを考えている内に、待ち合わせた場所に着いた。廓の中の、名も知らぬ木の下である。
もう既に女が立っていた。すんなりと抜け出せたのだろう。
「シュウさん」
女の美しい声が耳朶に触れる。腕が絡め取られる。
ちらりと女の足元を見ると足袋など履いておらず、痛い程に白い肌が眩しかった。
「大事な話って何サ」
「君には辛い話かもしれないけど、聞いてくれるかい」
私は三日後に結婚することと、もう此処には訪れないことを女に告げた。
女は黙って聞いていたが、一瞬瞳の中に燃え上がるような光が煌めいた。
それはゆらゆらと形を変え、すぐに真っ黒な瞳の奥へと吸い込まれて消えた。

しばらく沈黙が流れた。

突然、女は雪の花片を吹き飛ばすようにして笑い出した。獣の咆哮のようでもあり、堪えきれぬ慟哭のようでもあった。
「シュウさんは律義だねェ。妾は、こういうことには慣れっこなんですよゥ」
だから言わなくていいのにサ、と女は静かに、少しおどけて言った。
明るく振る舞ってはいるけれど、女の目には涙が溢れ、今にもこぼれ落ちそうに揺らめいていた。
何故だろうか。
その濡れた瞳を目にした瞬間、いっそ心中してしまった方が私にも女にも幸せなのではないかという思いが沸き上がった。
先程までは、死ぬ考えなど毛頭無かった。
さっさと縁を切り、騒ぐようなら相応の金を押し付けて帰ろうとさえ考えていた。
だのに、女は実に静かに、恨み言一つ言わずにいる。
それを愛おしく、何て不憫だろうと思ってしまった。

「死のうか」
その一言はあくまでも自然に私の口からこぼれた。
私はもはや死の恐怖を見失っていた。
それよりも、自分が人生の中で唯一己の意思で愛玩したこの女と死にたいと思った。
その気持ちは、決まりきった自分の人生への反抗でもあった。
「冗談で死ぬのは御免だワ」
「本気だよ」
「妾で良いのかエ。いい人がいるんだろ」
「所詮、親が決めた女さ」
私が言うと、女は笑って袂から透明な液体の入った小瓶を取り出した。
ゆらゆらと震えるそれは、ひどく恐ろしい物に見えた。
「心中用に持ち歩いてるのサ」
「君こそ僕で良いのか」
「シュウさんみたいに優しいお方なら本望さネ。年季が明けてもどうせ苦界からは出られやしない」
女は小瓶を私の手に握らせると、微笑んだ。
「僕を、選んでくれてありがとう」
「シュウさんこそ。ネ、妾の名前を呼んでおくれ」
「珠菊、珠菊。本当に良いんだね」
「シュウさんが良いなら、妾は何処へでも」
私は満たされた気持ちになった。
瓶を開け、中の液体をきっかり半分飲んだ。
珠菊は私の手から瓶をするりと取ると、一気に嚥下した。
私達は毒の所為か愛の余韻からか、重なり合って木の根本に倒れた。
胸が苦しくなり、息が細くなった。私は今まさに死の淵に立っているのだ。
「ねェ、心中したら来世でも一緒になれるんだとサ」
「離れ離れでもまた出会えるのか」
珠菊は私の手を強く握った。決して離れまいとするような、痛い程の力だった。
「いいえ、次はおんなじ女の腹から産まれて来るのだって。産まれる前からおんなじ水の中に浸かるのよゥ」
「それでも君と愛し合えるだろうか」
「ええ、ええ。きっと次の世でも」

珠菊はそれきり喋らなくなった。ああ、死んだのだな、と思った。
次は温い女の腹の中で、また出会うのだろう。
私はそう夢想しながら目を閉じた。





畜生腹
(題:レトロ悲恋)
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