浮遊する恋慕のための前奏曲///恋愛

貞野伊織が雲井病葉と初めて出会ったのは、十一月のこと、凍てついた空き教室でだった。

それまでの貞野は凡庸で、特に取り立てて目立つ所など無い男だった。
そして、私は物静かな彼の数少ない友人の一人だった。

きっかけは、些細なことだった。
偶然。彼が夢見る詩人へ、そして私が冷酷なる傍観者へ変貌したこの出来事を表すのに、本当にこれ以外の言葉は見つからない。
だが同時に、それは運命でもあり、必然でもあった。

私達はその日、幽霊が出る、という陳腐な噂に導かれてその場所にやって来た。
前から計画していたことではない。私達の雑談の片隅にちらりと表れた噂に、ほんの気まぐれでついていっただけだ。
しかしその幼稚な思い付きは、彼に運命の出会いをもたらした。
運命の人物こそが、雲井病葉その人であった。

雲井病葉を人間として扱うべきなのかどうかは分からない。
ただ、傍観者として私が言えることは、雲井病葉は温度があり実体があり、そして恋をする幽霊だったということだ。
空き教室に浮遊する少女幽霊は、凡庸な詩人と恋に落ちたのだった。
病葉は、異国の生き物の毛皮のような黒髪と硝子玉に似た空虚な瞳、そして陶器の如き真っ白な肌を持った美しい幽霊だった。
深い紺色のセーラー服を纏って宙を泳ぐ彼女の姿が、彼の心を虜にするのにはそうかからなかった。
だが、彼女の姿を見ることが出来たのは、私と彼の二人だけだった。
不器用な彼はたちまち危険人物に認定され、すぐに彼の居場所はこの空き教室だけになった。

その頃からだろうか。彼の外見はめきめきと音を立てるように変わっていった。
私とは別の生き物のように大きくしなやかになり、肉が削げ、睫毛が伸び、きらきらと奇妙な輝きを帯びた。
それでも、夢見がちな瞳とミルクの海のような甘い心は変わらずにいて、毎日毎日いつものように、彼女の魅力と彼女と時間を共有するための机上の空論を、饒舌に語り続けた。
同じように、彼は足繁く空き教室に通い、甘ったるい愛の言葉を彼女にぶつけていた。

「ねえ病葉。君と永遠に一緒にいるために僕は何をすれば良い?」
「決まってるわ。幽霊になればいいの」
「でも僕は死ぬのが怖いんだ」
「あら、死なんて怖くないのよ。彼らは奇妙な隣人なの。それに死ななきゃ幽霊にはなれないわ」
「そうだけど」
「伊織は私と一緒にいたくないの?」

傍観者たる私は二人のやり取りを細かく覚えている。
会話の主題は常に、一緒にいる方法、だった。
意気地無しの伊織はその答えを見つけられなくて、いつも病葉に慰められていた。涙に濡れた夢見る瞳は幽霊にも有効だった。
二人は教室の中で寄り添い合っていて、その姿は美しく背徳的な獣のように見えた。

私達は随分長いことそんな馴れ合いを続けていたのだけれど、ある日突然それは終幕を迎えた。

貞野伊織が死を経ずして、幽霊になったからだ。

傷の一つも作らず、血の一滴も落とすことなく、伊織は浮遊する少年へと変貌した。
学校は騒然とした。
昨日まで生きていた生徒が本当に突然、跡形もなく消えたという事実は、瞬く間に少年少女の心を揺さぶった。
しかし、どんなに噂が広まろうが、彼らはやっぱり幽霊を見ることは出来なくて、仲睦まじく浮遊する恋人達の姿を見つめるのは傍観者である私ただ一人だった。
伊織は幽霊になってから幾日かは空き教室を漂っていたが、ある時私ににっこり笑いかけて別れを告げた。

「お別れだね」
「何処へ行くの」
「分からない。けれど良い場所に行けると良いな」
「もう帰って来ないんだろ」
「うん。夜汽車に乗って、病葉と二人で旅をするからね」
「そうか」
「うん」
「伊織は今、幸せなんだな」
「勿論だよ」
「なら良いんだ」

伊織は最後に微笑みを残すと、病葉の手を引いて空き教室を後にした。

その夜、黒々とした煙を吐く汽車が夜空を走って行くのが見えた。あの何処かの席に二人仲良く座っていたんだろう。
何処か遠くの世界へ、処女と童貞を守りながら、手を繋いで行くのだろう。彼らはあまりにも純粋で美しい関係だった。

二人が何のために、何処へ旅立ったのか。
ちっぽけな傍観者たる私は一生知ることはないだろう。
そして、彼等の愛の在り方が本当に幸福なのかも、理解する日はないだろう。
だって私は所詮、美しい者を静かに見守るただの傍観者だったのだから。




浮遊する恋慕のための前奏曲
(題:病んでも純真)
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