『…っひ、ぅく…っ』
あぁ、また泣いている。
声を押し殺そうとしているみたいだけど僕には聞こえているよ。
きっとまた「あの日」の夢を見たんだね。
…お願い、お願いだから、
〈ヒナタちゃんは?〉
「ご飯食べたら部屋に戻ったわ。…多分あれが原因でしょうね」
雑誌を読んでいた澪がページを捲る手を止め、悲しそうにその整った顔を歪める。彼女はヒナタちゃんを妹のように可愛がっているから心配なのだろう。
〈…少し出かけてくる〉
「あら、珍しいわね?雷士が1人で出かけるなんて」
そう、澪の言う通り僕が1人で外出するなんて滅多にない。でもこの時の僕はジッと彼女が部屋から出てくるのを待っていることは出来なかったんだ。
人の姿をとって靴を履く。あぁそうだ、外出する時は財布を持っていかなきゃならないんだっけ。
ハルマが買ってくれた小さな黒い財布をポケットに入れ、澪に一声かけてから家を出る。
…まぁ行くあてなんて考えてないのだけど、それでもただ家にいるよりはマシだと思った。
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ニビシティの正直明るいとは言えない街並みを歩く。キョロキョロと周囲を見回しても、あまり大きな町ではないから店も限られてくるけれど。
見慣れた灰色の空を見上げて僕は小さく溜め息をついた。
(…僕が隣りにいても泣くんだよね)
思い出すのは皆が寝静まっていた深夜。僕が彼女の手持ちになってからは毎日同じベッドで眠りについていた。それまでずっと野生でいて、人間の眠るベッドなんて見たことすらなかった僕はその気持ち良さに思わず感動したものだ。
彼女の暖かい腕に抱かれるとすぐに眠ってしまう僕が異変に気付いたのは出会ってから少し経った頃。いつものようにベッドに入り、彼女に抱き締められながら眠りについた。
するとしばらくして頬に何やら冷たい感触が伝い目を覚ましたんだ。うっすらと目を開けると次いで気付いたのは小さくしゃくりあげる声。
(…泣いて、る?)
間違いない、ヒナタちゃんは泣いていた。 時折お父さん、お母さん、と譫言のように呟いていたから、きっと両親の夢を見ていたのだと思う。
僕がヒナタちゃんと出会ったのはこの子の両親が亡くなって数年経った後だ。だからあの日のことは人伝にしか知らない。
僕を抱き締める腕に力を込め、ポロポロ涙を零しながら縮こまるヒナタちゃん。この子はあの事件が起こった時まだ5歳だったと聞いている。
ポケモンの僕にはよく分からないけれど…人間の5歳というとまだまだ親に守り育てられる歳の筈だ。それなのにこの子は生まれてからたった5年でその権利を奪われた。
血の海に沈み、息絶えている両親を見た5歳のこの子はどんなに傷付いたのだろうか。まだ絶望なんて言葉を知るには早過ぎるだろうに。
今でこそハルマという育ての親やその手持ち達に大切に守られて笑顔を見せているが、それでもこうして頻繁に悪夢を見ているということは当たり前だけど余程心を抉られてしまったのだろう。
こうして彼女の気持ちを想像することは出来ても共感することは残念ながら出来ない。僕にそんな経験はないからだ。
そして人間の心に触れたことのない僕は泣いている彼女の手をソッと握ることしか出来なかった。
ーーーー…ここまで思い出して我に返る。突然立ち止まった僕を見て買い物袋を提げた女性が不思議そうに首を傾げていた。
(…僕は、あの子に親の愛情を与えてやることは出来ない)
第一その役目はハルマが立派に果たしているし、僕があの子にあげたいのはそういうモノじゃない。
でもあの子は泣いている…僕はヒナタちゃんの為に何をしてあげられるのだろう。
「おや坊や、何だか思い詰めた顔してるねぇ。さては恋かい?」
「…は?」
突然僕に声をかけたのは恰幅のいいエプロンがよく似合うおばさん。色とりどりに並ぶ花を見て、ここが花屋であることを思い出した。
「どうだい、花でもプレゼントすりゃ女の子も喜ぶと思うけどねぇ。とりあえず見るだけ見ていきなよ!」
「…はぁ」
まぁ見るくらいならいいか…。
店内に入り鮮やかな花達を見て回る。そういえばヒナタちゃん花も好きだったっけ…だったら確かにプレゼントしたら元気を出してくれるかもしれない。
そう思い立ってめぼしい花を探すと、ふと視界に入ったのは見たことのない白い花。少し興味が湧いて眺めていたらおばさんに再び声をかけられた。
「お目が高いねぇ坊や!それはアングレカムっていう洋ランの一種でね、開花にはかなりの労力がいる上に流通量が少なくて滅多に市場には出ないんだよ。今回偶然知り合いの伝で少しだけど仕入れることが出来たんだ」
「へぇ…、」
通りで見たことないと思った。アングレカムって言うんだ…星みたいな形をしている。
ジッと花を眺める僕を見て豪快に笑ったおばさんは続いてこんな話もしてくれた。
「そうそう、このアングレカムの花言葉がまた素敵でさ!特別に教えてあげるよ。それはね…、」
「ーーーー…!」
おばさんが教えてくれた花言葉。それはまさしく僕が求めていた答えだった。
「…僕、これ買う。包んで下さい」
「あいよ、毎度あり!恋する坊やには安くしとくからね!」
あぁ、ハルマの言う通り財布を持って出てよかった。
おばさんにお礼を告げ、花を抱えて家まで走る。早く、早くあの子に渡してあげたかった。
ーーーーーーーー
「ヒナタちゃん!」
『っ!?ら、雷士…?』
ノックもせずに部屋のドアを開けたのは悪いけど今は許してほしい。案の定驚いたヒナタちゃんは目を丸くして僕を見る。その時彼女の頬にうっすらと残る涙の跡に気付いて胸が痛んだ。
「…これ、あげる」
『え…?』
ピンク色の包装紙で包まれたアングレカムの花を渡すと、ヒナタちゃんは戸惑いつつも受け取る。それもそうか、僕がいきなりこんなもの買ってきたのだからね。
「…それ、アングレカムって言うんだって。珍しいらしいし綺麗だったから買ってきた」
『え、あ、ありがとう…!わぁ、可愛いね!』
良かった、喜んでくれたらしい。物珍しそうに花を眺める彼女に僕の口元が緩んだ。
けれどヒナタちゃんが次第に何かを考え込んでいるような、真剣な表情になっていくのを見てまた不安がよぎる。
「…ヒナタちゃん?」
『ねぇ雷士、あたし…近々旅に出ようと思うの』
「旅?」
『うん、今度ハル兄ちゃんの新しい研究の為にイッシュ地方に引っ越すでしょ?そうしたら家を出てイッシュの色々な町を巡るんだよ。ハル兄ちゃんも昔はたくさん旅をしていたらしくてね、よくその時の話をしてくれたの。だからあたしも自分の足で広い世界を見てみたいって思うようになったんだ』
それにあたしが外で調査をすればハル兄ちゃんを手伝えるでしょ?と言って笑うヒナタちゃんを見て、やっぱりこの子には笑顔が一番似合うと思った。
『あたしね、雷士とならどこに行っても怖くないと思う。もし雷士がよければだけど…旅に出る時は一緒に来てくれる?』
「…いちいち聞くことじゃないでしょ、それ」
僕が何て返事をするのか不安なのか、眉を下げてジッと上目で窺っている。そんな姿が可愛くて、僕は小さな体をギュウと抱き締めた。
「行こう、一緒に。僕が君を守る」
僕は「あの日」の悪夢を知らない。けれど、ヒナタちゃんが苦しんで人知れず泣いている姿は見たくない。
僕の役目は初めから決まっていた。それはどんな時でもこの子を守ることだ。
「君を1人にはしないよ。だから泣かないで?」
…なんて。
そう自分で言った癖に、ヒナタちゃんが僕が今まで見てきた中で一番幸せそうに笑ったから、嬉しくて泣いてしまったのは僕の方だったんだ。
そんなカッコ悪い姿を見られたくなくて隠すようにヒナタちゃんをキツく抱き締めると、彼女が大事に握り締めていたアングレカムの花がふわりと揺れた。
(…僕はこの花に誓うよ)
僕の一生を捧げよう(君と、いつまでも共に)
end
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アングレカムの花言葉:いつまでもあなたと一緒
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