当時のやり取りに思わず笑みがこぼれた時、床にグラスが落ちる音と同時に水の跳ねるような音がした。うわ、まさか…!
黙々と飲んでいた紅矢の服を見ると案の定お酒がこぼれてしまっている。当の本人はそれに対してノーリアクション…これは相当酔ってるね。
幸いグラスは割れなかったから怪我がなくて良かった…。
『って早く拭かなきゃ染みになっちゃうじゃん!』
慌ててタオルを取りに脱衣所へ走る。備え付けの新品を我が家のガーディのせいでベタベタに汚してしまう事が申し訳なかったけど、この際仕方ないよね!
真っ白なタオルを引っ付かんでリビングへと戻ると、紅矢は焦点の合わない目でボーッと床を見つめていた。
…え、生きてるよね?
顔色を窺いつつ紅矢のお腹辺りの水滴を拭き取る。ポンポンと叩くようにして拭いたら大分吸い取れたけど、それでも半分くらいは染みになり始めている。
これはすぐ洗濯しないとマズいなぁ…。とりあえず脱いでもらわないと。
未だどこを見ているか分からない紅矢の真正面に回り込み、ひらひらと手を振ってみた。
『おーい紅矢ー、大丈夫ー?』
「…目の前に座敷わらしが見える」
『一発殴っていいかな』
人を妖怪扱いってどういう事!?いやでも座敷わらしはその家に幸運をもたらすって言うしまだ許せるかな…。ってそんな事考えてる場合じゃなくて!
『あーもう、問答無用!洗濯するから脱いで紅矢!』
ダラリと力ない紅矢の腕を持ち上げて服を脱がそうとするけど、何ぶんその腕が重い!服の裾を引っ張って上に上げても腕は持ち上がらない。くっ、手強い…!
気分は母親のあたしが悪戦苦闘していると、不意に顔に影が重なった。何?と思い顔を上げようとした瞬間、あたしの体はソファの背もたれに押し付けられていた。
え、何事?
『こ、紅矢…?』
「…誘ってんのか、バカが」
誘う…?何をだろう。ていうか思いきり掴まれた肩が痛い…骨が悲鳴を上げている。
『紅矢、肩痛いよ…!離、』
離して、そう言おうと思ったのに。
「…はっ、」
ギラギラ光る紅矢の獰猛な瞳を見たら、まるで硬直してしまったように体が動かなくなった。
…こ、これは…何となく、ヤバいかも?
『…っこ、うや…離して、お願い』
「…離して、だと?」
ピクリと紅矢の眉が動く。え、あたし何かマズい事言った?
ゆっくり下りてくる整った顔に怖じ気づき、つい目を閉じてしまう。そんなあたしに構う事になく紅矢は耳元で語りかける。
「離して、テメェはどこへ行く。他の野郎の所か?…はっ、んなの認めねぇ」
近い、近いよ紅矢。何言ってるか聞こえなかった…!
男性らしい低い声で呟いた後、そのまま紅矢の顔が更に下に向けられたのが分かった。見た目に反して柔らかい髪がほっぺにかかってくすぐったい。
一体何を…、そう思ったら。
『―――っい"っ!?』
鋭い痛みがあたしを襲った。首筋がズキズキ痛む…噛まれた、らしい。
「…誰かのモンになるのも悪くねぇと、そう思わせたのはテメェだ。だったらテメェも俺のモンにならなきゃ不公平だろうが」
いやに熱の籠もった瞳があたしを射抜く。その水晶体に映るあたしの顔も酔った紅矢に負けず劣らず赤かった。
怖い、この得体の知れない感覚が―――。
「…それでいい、テメェはもっと思い知れ」
俺からは逃げられねぇ、って事をな。
重なって影になった視界に紅矢の牙が見えた。そして頬をぬるりと滑った肉厚なもの…。体が、震える。
『―――…っ』
「今日はこのくらいにしてやる…俺はもう寝るぜ。…せいぜいイイ夢見ろよ?ヒナタ」
ニヤリと、あの不敵な顔で言い残して濡れた服を脱ぎ、去り際に洗濯機に乱暴に放り込んでいった。
あたしの事置き去り!?とか、いつもならそんな事を考えるのに今は到底無理だった。
(…本当に、食べられるかと思った)
先ほど頬を舐めた紅矢の舌の感触が生々しく肌に残っている。そして未だジンジン痛む首筋をさすった。
…けれど、首筋よりも痛むのは激しく律動する心臓。
紅矢の男らしい鎖骨や肩を掴んでいた筋張った手、そしてあの捕食者の瞳…思い出すと体が微かに震える。
けれどこの震えは恐怖じゃない…だったら、何?
赤い顔もそのままに、あたしにはこの動悸を鎮める術はなかった。
分かったのは、今夜はどこかの暴君のせいで眠れそうにないという事。
そして…
あたしはどうやら厄介な獣に捕まったらしい、という事だけ。
end
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