※時間軸は連載開始時より数年前です(カントー在住の頃)
「よし、洗濯は終わったな。ハルマの仕事は澪と昴が手伝っているし、風呂掃除は樹がやっているから俺はリビングの掃除を…あぁいや、時間帯的には先に買い出しに行った方がいいか…」
『…斉はいつも忙しそうだねぇ』
「ん?ヒナタ、1人か?雷士はどうした?」
『ぐっすりお昼寝してるよー。耳を持ち上げても尻尾を握っても全然起きないの』
「はは、睡眠中の雷士にちょっかいをかけると感電するぞ」
エプロンの紐を外して椅子にかけた斉は、そう言いながら小さく笑った。その姿も言動もまるで「お母さん」そのものなのだけど…斉の場合はやっぱり「お父さん」が似合うかな?顔付きも体付きも男の人らしくて逞しいしね。
『ねぇ斉、何か手伝うことはない?』
「そうだな…じゃあ買い物に付き合ってくれるか?早めに行かないと特売の品が売り切れてしまうからな」
『あはは、了解!いっぱい食べる雷士が増えたし、出来るだけ安く買わないといけないもんね!』
「さすがはヒナタだ、お前は将来いい嫁になるぞ」
『そうかな?そうなったらきっと斉の教育のお陰だよ!』
「壊滅的なハルマと違ってお前には家事の才能があるからな。…だがまぁ、まだ当分は嫁に出す気はないぞ?」
あたしの頭を撫でる大きな手のひらはとても温かい。あたしはハル兄ちゃんの養子ということになっているし、勿論育ての親はハル兄ちゃんなのだけど…個人的な感覚としては歳の離れたお兄ちゃんのように思っている。だから余計に斉のことをお父さんみたいに感じてしまうんだよね。実際擬人化している斉とこうして2人で出掛けたとき、親子だと思われたこともあったから…。それを嬉しいと感じるのは斉も同じだといいなぁ。
「よし、準備は出来たか?」
『うん!』
「ハルマ達には書き置きを残しておけば大丈夫だろう。ヒナタがいるとなると樹辺りが自分もついて行くと煩いだろうしな…。さぁ、出発するぞ」
しっかりと玄関の鍵をかけたことを確認して斉が歩き出す。その後を追いかけながら、あたしは久し振りに2人で出掛けることが楽しみで買い物のことばかり考えていた。
だからこの時、あんな思いもよらない出来事に遭遇するなんて…知る由もなかったのだ。
−−−−−−−−−−
「…ヒナタ、重いだろう。俺が持つから無理はするな」
『だ、大丈夫これくらい!斉だってもう両手塞がってるし!』
「…ふ、お前は健気だな。だが特売にかまけて買い過ぎてしまったのは俺のミスだ。せめてそこのベンチで休憩してくれないか?」
『う…わ、分かった。ありがとう斉、本当は結構手が痛かったんだ』
「だろうな、付き合わせて悪かった」
あたしが自分から手伝いを買って出たのに、斉は優しいなぁ…。怒ったときはすごく怖いんだけどね!
斉に誘導されて近くにあった公園のベンチに腰掛ける。買い物袋を横に置いて、両手が解放されると何とも言えない安堵感に包まれた。こういうときに車があれば便利なのだろうけど…あいにく我が家は誰も免許を持っていないんだよね。ハル兄ちゃんも移動は基本的に公共機関か昴かだし。
「俺は飲み物を買ってくるからここで待っていてくれるか?」
『うん、ありがとう!行ってらっしゃーい。』
この公園はそれなりに広いらしく、自販機も少し離れた場所にあるようだ。遠ざかっていく背中を見送りながら、あたしは木の上で羽づくろいをしているポッポ達の様子を眺めたりしていた。
〈…ニオう、ニオうなぁ。このニオイは、アイツの…、〉
『…え?』
しかしそれは突然だった。どこから現れたのかとか、いつの間にこんな近くにポケモンが来ていたのかも分からないけれど、とにかく気付いたときにはすぐ間近に見知らぬキュウコンが立っていたのだ。
〈ねぇ、君はだぁれ?どうしてアイツのニオイをさせているの?……って、人間に言ったって無駄かぁ〉
『や、無駄ではないんだけど…』
〈え?〉
『あの、あたし…ポケモンの言葉が分かるから。だからあなたの声も聞こえてるよ?』
〈へぇ、すごい!そんな人間には初めて会ったよ〉
興味深そうにあたしを見つめながら、ふさふさの尻尾を揺らしているキュウコン。黄金に輝く体毛や宝石のような赤い瞳がとても綺麗で、思わず見惚れてしまいそうだ。声からして恐らく男の人だろう。
彼はしきりにあたしに鼻を寄せてニオイを嗅いでいる。そういえばさっき言っていたアイツって…?
『ねぇ、あなたはどこから来たの?あたしから誰のニオイがするの?』
〈…あぁ、そうだったねぇ〉
『っ!?』
あたしが問い掛けた瞬間、キュウコンの雰囲気が一変した。ぐんっとあたしに顔を近付け、もう一度ニオイを確かめるように鼻で大きく息を吸い込んだ。つい先程まで美しいと思っていた瞳が、まるで別物のようにギラギラと妖しく光り恐怖を煽る。うっすらと笑みを浮かべている口元からは鋭い牙が見え隠れしていて、あたしは近過ぎる距離と共に逃れるように後ずさった。
〈この辺りをたまたま人の姿で散歩していたんだけどさぁ、そしたらどこかから懐かしいニオイを感じて…。より正確にニオイを辿る為に元の姿に戻って探していたら、こうして君の元に辿り着いたってわけ〉
あたしの怯える姿が可笑しいのか、キュウコンはクスクス笑いながら話し続ける。
〈ねぇ、君はアイツの何なの?〉
『何、って聞かれても…そもそもアイツって…?』
〈…僕のだぁい嫌いな、ニドキング…だよ〉
口にするのも忌々しそうに、けれどどこか嘲笑うように彼は言った。ニドキング…?あたしの知っているニドキングって言ったら1人しか…、
『斉、のこと…?』
〈あぁ、確かにそんな名前で呼ばれていたっけ…。やっぱり知り合いなんだねぇ。じゃあ君はアイツの何?〉
思った通り、キュウコンの言うニドキングは斉のことで間違いないらしい。答えに満足したように微笑んだ彼は、瞳孔が開いた真っ赤な瞳であたしを舐めるように見つめている。どうしてキュウコンは斉のことを大嫌いだと言ったのだろう…。口振りからして斉を昔から知っているようだけど、何故こんなに彼は負の感情を剥きだしにしているのか分からない。それを問い掛けたいのに、この瞳に射抜かれて体がすくんでしまい動けないでいた。
〈ねぇ、早く答えてよ。アイツの知り合いなんでしょ?アイツは今近くにいるの?ねぇ…、〉
『ひ…っ』
痺れを切らしたのか、あたしに向けて九本の尻尾をゆっくりと伸ばしてきた。美しく神々しい筈のそれも今のあたしには恐怖でしかない。向けられた尻尾に小さく悲鳴を漏らすと、キュウコンは妖しい笑みを深くして尻尾の先に炎を灯した。
〈喋れないっていうならぁ、僕が無理やり喋れるようにしてあげてもいいんだけど…?〉
『や…っやめて…!』
怖い、怖い…!ゆらりと揺らめく炎がじりじりとあたしに近付いてくる。逃げなければと思うのに体が言うことを聞いてくれない。もうダメだ、と涙を滲ませてあたしはギュッと目を瞑った。
〈―――――今すぐその子から離れろ〉
〈っ!?〉
『!』
何が起こったのかは分からない。けれど低い声が聞こえたと同時に、向けられていた炎の熱さが一瞬で遠ざかったのを感じた。恐る恐る目を開くと、つい先程まであたしの目の前に立っていたキュウコンは打って変わって大きく距離を取り、代わりによく見知った顔があたしを心配そうに見つめていた。
『斉…っ!』
〈大丈夫か?ヒナタ〉
『うん!』
〈っ、…怖い思いをさせて、済まなかったな。アイツに攻撃を仕掛けたらお前も巻き込んでしまうと思って…ギリギリまでタイミングを見計らっていたんだ〉
『ううん…来てくれて嬉しい』
いつの間にか原型に戻っていた彼に思わず抱き付くと、それに応えるようにしっかりと太い両腕で抱き締めてくれた。すごいな、斉が近くにいるだけでこんなにもホッとするなんて…。
〈…気配を殺すのは僕達キュウコンの方が得意なのに…。この僕に悟られずに近付けるなんて、ほーんとムカつくよねぇ〉
『!』
じゃり、と公園の砂つぶを踏みながらゆっくりとキュウコンが近付いてくる。その顔には苛立ちを露わにした歪な笑みを浮かべていた。
『斉…あのキュウコンは誰?斉のこと知っているみたいだけど…』
〈あぁ…。昔、まだ俺とハルマがカントーを旅していた頃に出会った奴だ。バトルを挑んできたコイツを俺が打ち負かしてからというもの、しつこく足取りを追ってはリベンジなのか逆恨みなのか攻撃を仕掛けてきた。旅を終えてからはしばらく姿を見ていなかったんだが…どうやら嗅ぎ付けられたようだな〉
〈そうだよぉ、だって僕はお前を叩きのめさないと気が済まないもの!お前に出会うまでは負けなしだったのに…!〉
〈相変わらずだなお前は。何度も返り討ちにしてやったんだが…本当にしつこい奴だ〉
全身の体毛を逆立てて威嚇するキュウコンを一瞥した後、斉はあたしを自分の背に隠すように前へ出た。
〈俺から離れるなよヒナタ。キュウコンという種族は執念深い奴が多いが…コイツはその中でも特別だ。そして実力も相応に伴っている。ここで追い払わないと厄介なことになるからな〉
『う、うん…!』
〈…ねぇ、その子何なの?新しいトレーナー?確か前は男のトレーナーと一緒だったよねぇ?〉
〈あぁ、俺のトレーナーは今も昔もお前が知っているその男だ。そしてこの子は…俺の、娘だ〉
〈……はぁ?〉
娘、その言葉を聞いたあたしはこんな状況でなんだけど心が暖かくなるのを感じた。あたしが斉をお父さんだと思っているように、斉もあたしを娘のように思ってくれているのが嬉しかったから。
けれどキュウコンは心の底から嘲笑うような表情を浮かべて、牙を剥き出しにしながら大きな声で嗤い始めた。
〈ふっ…あっはっはっは!!何だよそれ…!!お前にしては随分面白い冗談じゃないか!!その子はどこからどう見ても人間だよぉ!?それが何をどうしたらポケモンであるお前の子どもになるっていうの!?〉
『…っ』
可笑しくてたまらないと言わんばかりにキュウコンが吐き捨てる。そんなに、他のポケモンからすると変な言葉だったのだろうか。確かに血が繋がっているわけがないし、そもそも人間とポケモンだから本当の親子とは言えないのかもしれないけれど。でもあたし達が抱く感情は…キュウコンからすると信じられないようなものなのかな…。
あたしに背中を向けているから斉の表情は分からない。斉はどう感じたのだろうと不安に思っていると…斉が小さく、けれど深い静かな声で語り始めた。
〈…お前は今も孤独なんだな。俺からすれば哀れでならない〉
〈…何…?〉
〈幼いヒナタを迎え入れたあの日から、俺はハルマと共にヒナタを育ててきた。飯を食わせ、風呂に入れ、色々なことを教えて…その成長を見守ってきた〉
斉の言葉に耳を傾けていると、あたしの頭の中にも数々の思い出が蘇ってくる。斉は出会ったときから何でも出来ていた。ずっとハル兄ちゃんのお世話をしてきたからみたいだけど…とにかく家事全般が完璧で、中でも料理の腕前はきっとプロ級だと思う。あたしも初めて斉を見たときは正直強面で怖かったけれど、彼の料理を一口食べたらあまりの美味しさに一瞬で斉が好きになった。そこは我ながら単純だったよね…。
それに斉は悪夢にうなされていたあたしを抱き締めて眠ってくれたこともある。ハル兄ちゃんの家に来たばかりの頃はまだ両親の事件のことがトラウマになっていて、何度もあの夢を見ては苦しんでいたのだけど…。そんなときには斉が大丈夫だ、と言いながら頭を撫でてくれた。勿論ハル兄ちゃんも同じようにしてくれたけれど、研究で忙しいハル兄ちゃんよりも斉の方がたくさん一緒に寝てくれた気がする。
こうやって考えると斉とも本当にたくさんの思い出があるんだ。あたしは知らず知らずの内に自分の目に温かな涙を滲ませていた。
〈当初はハルマにヒナタの面倒を見てやってくれと頼まれもしたが、俺はすぐに自分から世話を買って出るようになった。日に日に成長していくヒナタの姿を見るのが何よりも嬉しかったんだ。もう二度とこの小さな子供に苦痛を味わわせたくないと思った。いずれ大人になって手が離れても、ずっと幸せに生きてほしいと…そう心から願うようになった〉
〈へぇ、つまり何?それがオヤゴコロだとでも言うの?あっはは!そんなもの…、〉
〈あぁその通りだ。俺はヒナタを守る為なら自分の命も惜しくない。ヒナタが幸せになれるのなら何だってする。これを親心と言わずに何と言う?〉
〈…お前さ、何か性格変わったぁ?昔はもうちょっとギラギラしてたのに…いつの間にそんな世迷言を吐くようになったの?〉
〈…そうか、世迷言か。ならばお前には到底分からないだろうな。俺の武骨な指を小さな手で握り締め、無邪気に笑いかけてきた時の温かさも…何よりも守るべき存在に出会えたというこの幸福も、何1つ分かりはしないのだろう〉
〈全く分からないねぇ。分かりたくもない。だってお前達は所詮ただのポケモンと人間じゃないか!〉
不快感や苛立ちを抱いたような表情を浮かべているキュウコンをどことなく哀しげな瞳で見つめた後、斉は静かにその口を開いた。
〈理解出来ないのならそれでもいいさ。だが1つだけ言っておく。たとえ誰に何を言われようと、奇異な目で見られようと…俺が抱いた思いが変わることはない。ヒナタは世界でたった1人の、俺の大切な娘だ〉
斉の言葉が真綿のように、優しくあたしを包み込んでいく。気付いたときにはあたしの頬を涙が伝っていた。あまり口数は多い方ではない筈の斉が、あたしの為にたくさんの言葉を紡いでくれている。大切に思ってくれていることは勿論感じていたけれど、でも…
(あたしはこんなにも、愛されているんだ)
涙が止まらない。でもこんなにも温かい。あたしは何て幸せなのだろう。幼い内に両親が亡くなって、もう二度と得られることはないだろうと思っていた無償の愛は、既に溢れるほどに与えられていたのだ。
〈…ほんっと、胸糞悪い…。せいぜい死ぬまで家族ゴッコでもしてればぁ?ここで君が僕に勝てたら、だけどねぇ…!〉
〈勝つさ。言っておくが、お前がヒナタに危害を加えようとしたことを俺は許さんぞ〉
『斉…!』
〈そこで見ていろヒナタ。コイツはトレーナーとの共闘ではなく、俺と1対1でやり合って負けた方が納得するだろう〉
斉の言葉にしっかりと頷いて、あたしは巻き込まれないように後ろへ下がる。そういえば…斉がバトルする姿を見るのは初めてかもしれない。でも必ず勝てると信じている。斉の背中に、迷いや不安なんてものは微塵も感じられないから。
〈行くよ…!!〉
先に動いたのはキュウコンだった。でんこうせっかを繰り出し、物凄いスピードで斉に突進したのだ。でも一瞬反応が遅れたように見えた斉だったけれど、寸でのところでキュウコンの攻撃をガードした。
〈…相変わらず、スピードは俺よりも上だな〉
〈それだけじゃないよぉ?ほーら、こんな技だって…!〉
〈!!ぐ…っ〉
『斉!?』
キュウコンが口元を釣り上げ、その瞳がギラリと妖しく光った瞬間。斉が頭を抱えて苦しげに唸り声を上げた。
〈あっはは!じんつうりきだよ!お前にはすっごく辛いよねぇ…?最後にお前に負けたあと、ムカつくムカつく!って思い続けてる内に使えるようになったんだぁ〉
〈お、前…っその執念をもっと別のところに費やしたらどうだ…!〉
じんつうりきって確かエスパータイプの技だよね…?それなら毒タイプの斉には効果抜群だ。斉の苦しそうな表情を見てあたしの胸もギュウッと締め付けられる。辛い、でも…斉は見ていろと言ったから。あたしに出来るのは信じることだけだ…!
〈う…、っ!?〉
〈動けない?そうでしょ、じんつうりきには怯ませる効果もあるんだよぉ!毎回じゃないけど、運も僕に味方してるってことだよねぇ!〉
腕を振り上げようとした斉だったけれど、キュウコンの言う通り意思に反して身動きが出来ないようだ。じんつうりきにそんな効果があったなんて知らなかった…。あたしもまだまだ勉強不足だと痛感する。
〈そぉれ!〉
『あ…っ!』
動くことが出来ない様を見て満足げに笑ったあと、キュウコンは身を翻し9本の尻尾に灯した青い炎を斉へ浴びせる。その綺麗で不気味な色をした炎は一瞬だけ斉を包み込んですぐに消えたけれど、ようやく怯みから解放されて動けるようになった体の至る所に火傷を負わせていた。
(あの技はおにびだよね?これは前にハル兄ちゃんと勉強したから知ってる。確か、物理攻撃が強い相手に対して使うことが多いって…)
きっと斉の攻撃力を下げる為の作戦だ。そして徐々に体力も奪っていくというおまけ付き…。悔しいけれどさすがというべきだろうか。過去に何度も戦ってきたというだけあって、対策もきちんと考えているのだろう。相手の隙をついて確実に攻撃力と体力を削る戦法なんて、良くも悪くもあたしではこんなに頭の良いやり方は思い付かないかもしれない。
〈ふふ…しばらく見ない内に衰えたのかなぁ?昔はこの攻撃も避けられていたと思うんだけど…。隠居生活のせいで体が鈍ってるんじゃないのぉ?〉
〈…確かに全盛期に比べれば鈍っているだろうな。だが隠居までした覚えはないぞ。すぐに相手の力の底を決めつけてしまうのはお前の悪い癖だ〉
〈はぁ?説教ぶらないでくれる?強がりももっとお前を追い詰めてからにしてよ…!〉
大きく開いたキュウコンの口から物凄い質量の炎が吐き出された。我が家にはほのおタイプがいないから生で見るのは初めてだけど、多分これはかえんほうしゃという技だ。すごい、こんなにも迫力があるなんて…!でも今は感心している場合ではない。火傷を負った状態で更にこんな技を食らったら大ダメージを受けてしまう。
けれどあたしの心配をよそに、斉は少しも臆することなく一歩前へと踏み出した。そしてキュウコンと同じように口を開くと、次の瞬間まさかの行動に出る。何と斉も勢いよくかえんほうしゃを繰り出したのだ。ぶつかり合って更に迫力を増す2つのかえんほうしゃ。そのあまりの熱気に距離を取っていても汗が噴き出してくる。
(ニドキングっていう種族がとても器用なポケモンだってことはハル兄ちゃんから聞いていたけど…。でも、斉もかえんほうしゃを使えるなんて知らなかった…!)
けれど何故この技なのだろうか?炎タイプであるキュウコンの方がずっと使いこなせるだろうし、対抗するなら別の技も選択肢としてあったと思うのだけど…。
その疑問はキュウコンも同様に感じたらしく、一度かえんほうしゃを止めて見下したような目をしながら笑い声を上げた。
〈あっはは!何をするかと思えば…!この僕に炎で勝てるとでも思ってるのぉ!?〉
〈勝つつもりはない。どの道お前本体に炎は効かないしな。ただ…お前のその長い鼻をへし折ってやることは出来るだろう〉
〈まぁたワケの分からないことを…!やれるもんならやってみなよぉ!!〉
再びキュウコンが繰り出したかえんほうしゃは先程よりもパワーが上がっているように見える。斉も同じくかえんほうしゃで迎え撃ったけれど、本当にこんなものを防ぎ切ることが出来るの…!?
激しくせめぎ合って勢いが止まらない炎。その熱さに当てられて額から流れる汗を拭ったとき、あたしはあることに気が付いた。
(…斉の方が炎が大きい…!?)
撃ち合った瞬間の炎の大きさはほとんど同じくらいに見えたのに。気のせいかとも思ったけれど、ぐんぐんと威力を増して仕舞いにはキュウコンの炎を呑みこもうとしている様子を見て、それは間違いではないと確信した。
〈…っ!?ぅ、ぁああ!!〉
キュウコン自身もそれに気が付いたらしく、信じられないと言わんばかりに大きく目を見開く。しかし時既に遅しで、とうとう斉のかえんほうしゃが完全に押し切ってしまい、その衝撃で起きた爆風に巻き込まれキュウコンの体が吹き飛ばされた。
〈…ほらな、言っただろう。相手の力の底を決めつけると痛い目に遭うぞ〉
〈く…そ…っ!どうして…!〉
〈お前は俺の弱点は知っていたが、俺の特性までは熟知していなかった。それだけのことだ〉
『あ…そっか!斉の特性はちからずく!』
思わず出たあたしの声に反応した斉が微かに微笑む。なるほどそういうことだね!
ポケモン達についての勉強をする中で、あたしはハル兄ちゃんから特性についても多く学んできた。その際に例として教わったのが斉のちからずく。例えばその特性を持つポケモンが10まんボルトを使ったときに、一定の確率でまひさせるという追加効果が発生しない代わりに技の威力が上がるというものだ。詳しくは分からないけれど、通常のニドキングでは持つことの出来ない特性らしく、それを聞いたあたしは斉は特別なのだと嬉しく思ったのを覚えている。
よくハル兄ちゃんもこの特性は凄いんだよと言っていた。今ならその意味がよく分かる。本来のかえんほうしゃは追加で火傷を負わせることがあるけれど…それを斉はちからずくの効果を発揮して、ほのおタイプであるキュウコン以上に強力な技としたのだ。かえんほうしゃは特殊攻撃だから火傷を負っていても威力は落ちない。すごいよ斉、これならきっと…!
〈どうだキュウコン、最も得意な炎で俺に負けた感想は?〉
〈…っ!!くそっ!調子に乗るなよ!!〉
予想外の展開にあからさまに余裕を無くしたキュウコンが吠える。もうあの挑発的な笑みはどこにも見当たらない。そして怒りを露わにしたまま、再び大きく口を開き炎を繰り出した。しかしそれはかえんほうしゃではなく、大の字を形取った大きな大きな炎の塊。きっとほのおタイプの大技であるだいもんじだ。かえんほうしゃよりも余程凄まじい威力を秘めているのが見ただけで分かる。
『斉…!』
〈心配するなヒナタ。…お前はそこで、この俺の背中を見ていろ〉
『!』
巨大な炎がもうすぐそこまで迫っている。けれどあたしにそう言い残した直後、斉の姿が一瞬で消えてしまった。いや、一瞬だったと見紛うほどのスピードでだいもんじを掻い潜り避けたのだ。
〈あははははっ!!これを食らえばいくらお前でも、〉
〈どこを見ている?〉
〈…なっ…!?〉
あたしから僅かに見えたのはだいもんじを避けた姿まで。そこから斉はいつの間にかキュウコンの背後まで詰め寄っていたようだ。完全に意表を突かれたらしいキュウコンが慌てて距離を取ろうとしたけれど、すかさず斉の太い腕が9本の尻尾の内の1本を掴んだ為に逃れることが出来なかった。
〈大技を使った直後に隙が出来るというもう1つの癖…まだ直っていなかったようだな〉
〈――――っゃめ…っ!!〉
〈だいちのちから〉
キュウコンのような嘲りの色は見せない斉の瞳。けれどただ真っ直ぐに相手を射抜くその黒眸は、キュウコンの全身に確かな恐怖を植え付けていた。尻尾を掴まれ身動きの取れないキュウコンの足元から大地のパワーが溢れ出していく。ボコボコと隆起する地面に彼の体が何度も打ち付けられ、短い呻き声が周囲に響いた。
だいちのちからも追加効果がある為に斉のちからずくが発揮出来る技だ。おまけにじめんタイプだからキュウコンに相性抜群。すごい…斉はハル兄ちゃんの指示が無くてもこんなに闘えるんだ。きっと踏んできた場数や鍛えてきた年数が違うのだろう。
〈さぁ、もう闘える状態ではないはずだ。潔くここから立ち去るんだな〉
〈…っくそ…!!〉
『!?』
倒れ込んだキュウコンに斉がバトルの終わりを告げた。けれど悔しそうに歯を食いしばった彼は、突然ギッとあたしを睨み付ける。そしてその瞳に怯んだあたしに向かって尻尾から炎の玉を飛ばした。体力が残っていないせいか弱々しそうな威力ではあったけれど、人間のあたしにとっては直撃すれば大火傷を負ってしまうだろう。
逃げなきゃ、と思うのに飛び散る火の粉に怯んで足が動かない。でもあたしに炎が届くよりも先に、斉の太く長い尻尾がそれを地面に叩き付けて消し去ってしまった。まるでキュウコンが最後の悪あがきをすることを分かっていたかのような動きだ。これも過去に何度も闘ってきた中で培った経験なのだろうか。
何はともあれ斉にお礼を言おうと顔を向けたとき、あたしは思わず息を呑んだ。普段は決して見せることのない…いや、あたしが知らないだけなのかもしれないけれど。少なくとも斉のこんな険しく恐ろしい表情は見たことがなかった。結局声が掛けられないままでいたあたしに気付かず、斉は未だ満足に動くことの出来ないキュウコンにゆっくりと近付く。そして再び炎を吐こうとしたのであろうその口を、素早く片手で掴んで押さえ込んだ。
〈ぐぅ…っ!〉
〈…それだけは、駄目だ。俺にならばいくら攻撃しようと構わんが、ヒナタにその炎を向けることだけは絶対に許さん〉
口を開くことが出来ず手足をばたつかせるキュウコンに、斉はグッと顔を近付けてその瞳を見下ろす。
〈二度目はない。命が惜しければ、俺達の前から消え失せろ…!〉
〈…っ!〉
聞いたこともないような低い声で囁き、口を掴んでいた手を離した。するとキュウコンは完全に戦意を失ったのか、悔しそうな表情は浮かべていたけれどヨロヨロと立ち去って行く。良かった、これで終わったんだ…。
〈つ…っ〉
『あっそうだ火傷…!ちょっと待って、すぐに治すから!』
今日の買い物の中に運良くなんでもなおしがあって良かった。急いで袋の中からなんでもなおしを取り出して傷に吹きかける。ポケモンの薬は効き目が早いから本当に助かるよね。
『…あのキュウコンは1人で大丈夫なのかな…』
〈…お前は優しいな、二度も危険な目に遭わされた奴の心配をするなんて〉
『あ、ごっゴメン!せっかく斉が助けてくれたのにあたし…!』
〈いや、気にするな。それがお前の良いところだ。それにアイツの心配もそれほど必要ないだろう。見た目ほど深い怪我は負わせていないからな〉
『そ、そうなの?』
〈今日まで俺が勝ち続けてはいるがアイツの力は間違いなく本物だ。技の威力もさることながら、咄嗟に急所を逸らしたり受け身を取るといった技術も敵ながら目を見張るものがある。良いトレーナーに巡り合えばもっと強くなれると思うんだがな…〉
そう語る斉にはもう先程の恐ろしさは感じられない。いつもの思慮深く穏やかな瞳だ。そういえば斉がキュウコンは孤独だと言っていたけれど…彼はずっと1人きりなのだろうか。確かにあのキュウコンは怖かった。でも、どこか哀しさも持ち合わせていたような気がする。
「ヒナタ」
『っえ?』
不意に頭に乗せられた心地良い重み。顔を上げるといつの間にか斉が擬人化していて、あたしの頭を優しく撫でていた。その温かさに安堵して笑みを浮かべると、撫でるのをやめて今度はあたしに向けて両手を広げる。これは小さな頃によくやってくれた、「おいで」の合図だ。今はもう気恥ずかしさもあって昔ほどしなくなってしまったけれど、それでもやはり嬉しくてその腕の中に飛び込んだ。
「俺がお前を自分の娘だと言ったとき、おかしいと思ったか?」
『そんなことないよ。だってあたしも斉をお父さんだと思ってるから!』
「…そうか」
あ、珍しい。斉が照れてる…!ほんの少し皺が見え隠れするその頬はうっすらと赤く染まっていた。
「俺はお前がハルマの妹だから守るんじゃない。ヒナタだから守りたいんだ。…お前と出会う前は、まさか人間の子どもを娘に持つとは思わなかったが」
『あはは、あたしだって自分にポケモンのお父さんが出来るなんて思わなかったよ?』
「ふ…確かにそうだな。お前を守ることが出来て、良かった…」
『うん。ありがとう、斉!』
正直なところ…本当のお父さんとの触れ合いは、あのとき幼すぎたあたしの記憶ではもうほとんど思い出せない。でもきっと寂しくはないんだ。だって今のあたしには、この温もりがあるのだから。
『ねぇ斉、今日の夕飯はあたしが作るよ。ちゃんとお礼をしたいしね!』
「そんなことお前が気にする必要はない。作るなら一緒にでは駄目なのか?」
『駄目!斉はいつもみんなの為に頑張ってるんだから、たまの1日くらいお休みしてほしいもん』
「…そうか?お前がそこまで言うのなら…お言葉に甘えさせてもらうとするかな」
『うん!』
「済まないな。じゃあさっきは買いそびれた飲み物を買って帰るとするか。みんな腹を空かせて待っているだろう」
斉の言う通り、樹や雷士は空腹で文句を垂れている頃かもしれない。早く帰ってご飯を作らなくちゃね!
(それくらいじゃ不十分だろうけれど、今あたしに出来ることで少しずつ伝えたい)
あの日絶望の中から救い出してくれたことへの感謝を。あたしがあなたをどれほど大切に思っているのかを。そしてこれから先もずっと、あなたの娘になれたことを誇りに思うということを。あたしのもう1人のお父さんであるあなたに、伝えていきたい。
『斉、大好きだよ!』
「あぁ、俺もヒナタが大好きだ」
うん。あたしは間違いなく、幸せの中にいる。
(そういえば…キュウコンの尻尾を掴むと祟られるという伝承があったな)
(そうなの!?…で、でも大丈夫だよ。斉は強いから!あたしのお父さんは祟りなんかに負けないから!)
(…ははっ、そうだな。娘より先に倒れるわけにはいかんな)
end
prev
|