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一人っ子でありながら、俺は物事をよく我慢してきた方だと思う。女の子みたいなこの顔付きを何度もからかわれた時も、黙って事が過ぎ去るのを待った。(度が過ぎたイタズラに、つい手足が出てしまって相手を怪我させた事もあったが。)狩屋が入部したばかりの時も先輩達から冷たい視線を浴びさせられたが、それも我慢出来た。我慢強い性格なんだと、自然と体が覚えていったのだ。例えば、もしサッカー部員全員が飢え死にしてしまいそうな窮地に立たされた時に、目の前にご馳走を差し出されたら俺はきっと他の皆を優先して決してそれに手を出さないと思う。


羊雲が転々と泳いでいる橙色の綺麗な空だった。期末試験の一週間前は学校側から部活の休暇期間が設けられているのに、どうして俺はこんな時間に人気のない廊下を走らなければいけないのか。それは今から約十分ほど前のこと、まだ空に青みのかかっていた頃であった。


「明日、勉強会でもしないか」

別に、わざわざ約束しなくったって今まで通りでよかった。神童とは家も近所だし分からなくなったら訪ねに行ったり、電話で聞くのが普通になっていた。何にせよ時に断る理由もなかったため、自らの唇は了解の言葉を吐こうと動かした、その瞬間。その何気無い誘いの裏側を、俺ははっきりこの眼で見てしまった。
何時だって俺は神童の味方でいた。幼なじみであり、パートナーである神童に頼り、かつ頼られているこのポジションに苦を感じるようになったのはここ最近のことであった。「神童はさ、瀬戸のことが気になってるんだろ?」ほんの軽い気持ち反面、確認したいことがあって問いてみた。その途端顔をトマトみたいに真っ赤にさせて、規則正しく着こなされた制服を、皺が出来るほど強く握り締めたその姿に何も言えなかった。今にも頬を伝い落ちてしまいそうな、涙ぐむ瞳に好きなんだと確信した。我慢、しなきゃ。誰かがそう囁く。俺は、あいつに神童が抱くそれとよく似た感情を、手放さなければいけない。この感情は、捨てるべきなのだ。「応援、するよ」でも協力は、しない。ひっそり内心で毒づいた。

あの時の言葉があってか、淡い期待が感じられる瞳が、酷く突き刺さるのだ。きっとこの誘いも、俺がアクションを起こすのを待っている。「二年のみんな、全員に声かけてみるか」馬鹿みたいな提案に、神童は嬉しそうに微笑む。それだけで、胸をナイフで突き立てられたかのような痛みが走る。「教室に忘れ物したから、とってくる」だから、先に帰ってて。このまま二人で帰るのは余りにも苦しすぎる。言い訳染みた言葉を吐いた後、俺は返事も聞かずに学校へ走った。ぶつかる風は冷たい。嘲笑うかのように、チクリと刺さった。そんな、学校に着くまでのこと。


廊下に響く、上靴の擦れる音。放課後とは、こんなにも静けさのあるものだったか。普段はグラウンドで過ごしていたため、その無機質な寂しさは、より一層感じさせられた。

教室の前に行くと、引き戸が開いているのに気づいた。たしか放課後は、真っ当な理由がない限り全教室を施錠いるはずなのに。誰かが鍵を掛け忘れたんだろうか。仕方ない、とりあえず机から持ち帰ることが面倒だと思い置いていた教科書を一冊鞄に仕舞って、施錠し忘れたてしまった誰かのために。どうせ俺が最後なんだし、若干溜め息混じりに足を踏み入れると、施錠されていなかった最大の理由が解った。いるのだ、俺以外の人が。
左から二列目、四番目の席に彼女はいた。机に張り付くようにだれて寝息を立てる桃色頭。驚いたが、つまらない授業中と同じような光景に、ふと口角が緩む。
広げられたノートと山積みになっている教科書。珍しいことに、勉強中だったらしい。きっと勉強嫌いな彼女のことだ。教科書を読んでいる内にわけがわからなくなって、休憩を挟んで気分転換でもしたかったんだろう。もっともこうして爆睡してしまっている時点で、全く意味はないのだけれど。何にせよ、このままでは風邪を引いてしまうし、施錠も出来ない。「起きてよ」自分より一回り細い肩を揺さぶれば髪飾りの青いリボンの端がひらひらと踊る。「……ん、」くぐもった声は、普段会話する時の声より一段と高くて、つい可愛いと思った。こんな声、出すんだ。もっと聞いてみたい、そんな贅沢はしない。俺は、俺は、

「明日、勉強会でもしないか」

緊張を圧し殺した照れた声色がリフレインする。消えることなど、ないのだ。規則正しく聞こえてくる呼吸に、細く長い四方に広がる桃色の髪に、ちらりと見える無防備な白い首に、思わず喉を鳴らす。うっすら開いた唇に舌を捩じ込んで目を覚ましても無理矢理口内をむちゃくちゃに犯してやろう、なんて。知らず知らずに我慢しているところだけど、……少しくらい、いいんじゃ、ないかな。音を立てないように忍び足で彼女に近付いていく。ふいに誰かが囁く、がさがさと掠れた声で、ずっと。我慢しないんだ。神童に、応援すると言っていたのに。嘘つき、弱虫、「……うるさいな」傷を知らない柔肌に、まるで己を刻むように、噛み付いてやった。


「いって……!」
「おはよう、お姫様」
「は?またわけのわからないこと……」
「さて、もうこんな時間だけど、まだ残って教科書読むつもりか?」
「げっ、なんでもっと早く起こしてくれなかったんだよ、霧野!また勉強出来なかった……!」
「(……また)…そんな絶不調の瀬戸に、絶好な誘いがあるんだけど」
「……なんだよ」
「明日さ、必須科目はもちろん副教科もみっちり教えてくれる秀才キャプテンと勉強会をするんだけど、瀬戸もおいでよ」

その瞬間、青い瞳の奥が輝いた。目が、眩む。もう何にも見たくなかった。







「それにしても」
「ん?」
「目覚め悪いと思ってさ。よくわからないけど、虫に噛まれるなんてさあ」
「……あ、そ」




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