■ とある朝の出来事

「リョーマ、やっと来たの」

「ウイッス。…先輩、部長はいないんすか?」

「朝から竜崎先生と話してて、まだ来てないよ。早くアップしてコート入っちゃいな」

「ども。んじゃ行ってくるっす」


青学期待の一年生、越前リョーマは遅刻常習犯である。私も彼もこのやりとりには慣れたもので、リョーマがいないと分かれば、手塚くんの場所を確認した後、コート外のメンテナンスに向かっているふりをして、リョーマを迎えに行っている。朝練は特にマネージャーが必要なわけでもないから、私以外のマネージャーは誰も来ていない。メンテナンスと伝えてある以上、建前的に草むしりをしていると手元が陰った。振り返ると茶色の髪が映る。


「全く、なまえは越前に甘いんだから」

「後輩みんなを甘やかしてるの」

「クス、そう言われるとそうかも。僕らは甘やかさないの?」

「ん〜、英二なら甘やかすかも。他はみんなお兄ちゃんって感じ」

「言うと思った」


にこりと綺麗に笑うのは不二周助。さらりとした髪に切れ長の目もと、細くしなやかな体は女性にも劣らない優雅さを持つ。一言で言えば美人である。


「練習抜けてきて平気なの?手塚くん、そろそろ来そうだけど」

「越前が学校に着いたんだから、コート入ったら?ってお誘いに来たんだよ。手塚がいないと桃と海堂の喧嘩が始まったとき収拾つけられる人がなまえしか居ないからね」

「…やりそう。じゃあ戻ろうかな。水道寄ってから行くから、先戻ってて」

「分かった。もし手塚が先に戻ってきてたら伝えておくよ」

「ありがと」


周助と別れて水道へと向かうと、頭から水をかぶっている人が居た。他の部活の人なら違う水道へ向かおうと思ったが、首にかけている布に見覚えがあったのでそのまま近付き声をかける。


「タカさん、おつかれさま!」

「あっ、なまえちゃん。今日も越前を待ってたのかい?さっきコートに来たみたいだったよ」

「うん、リョーマ来たから私も戻ろうかと思って。周助と話してたら遅くなっちゃったけど。タカさんもこれから戻る?」

「うん、戻るよ。…そうだ、今日の部活、試合をするらしいんだけど、負け数が多い数人に乾汁がくるらしくてさ…。なんだかいつもと違う形式で試合するって言ってるし、なまえちゃんは何か知らない?」


かわむらすしの手ぬぐいで水を拭きながらおそるおそる、と言った感じで乾汁の話を持ち出した河村隆。今日の部活は乾の練習メニューを使うんだろうか。乾はおろか、手塚くんや竜崎先生からも聞いていない情報に私は首をかしげた。


「たぶん聞いてないと思うなあ…。乾が勝手に考えたんだと思うけど、発表したってことは手塚くんが了承したんだよね。もしかしたら、それを伝えに竜崎先生のところ行ってるのかなあ?」

「なるほど、そういうことかもしれないね。乾汁は嫌だから、頑張ろうと思うんだ、ハハハ」

「頑張って、タカさん!この後、乾に確認しに行ってみるね。教えてくれてありがとう」

「大したことしてないよ、じゃあ俺は桃を待たせてるから行くね」


コートに着いたあと、タカさんは一番奥のコートへと向かった。桃が「待ちきれないっす!早くやりましょう!」と大声で叫んでいて、今日も元気だなあと思った。リョーマは準備運動が終わって一年トリオにフォームの質問をされていたが、桃の大声に顔をしかめていた。そして、ベンチにいたこの海堂薫もしかり。


「チッ…うるせえんだよ、桃城…」

「まあまあ、薫もそんなに怒んないの。いちいち目くじら立てたって、手塚くんに怒られるのは二人まとめてなんだからね」

「フシュー…納得いかねえっす」

「喧嘩両成敗ってことだよ。薫はこれから後輩を引っ張っていくんだから、桃と同じレベルで争ってちゃダメ。周りを見て判断するんだよ」

「…アイツと同じレベルってのは気に食わねえっす」


桃の名前を出すとすぐに不機嫌になる薫に、これはもうちょっと時間がかかりそうだなあと思った。二人は喧嘩するほど相手を理解はしているみたいだけど、いちいち激しい争いに発展していて、同級生の荒井や池田は仲裁に入れないし、一年生はもっと関われない状況だ。どちらかに大人になってもらわないといけないと常々思っていたが、薫の方が適任だろう。自分にも他人にも厳しい、桃のこと以外なら状況判断が得意、人に好かれるタイプではないけれど尊敬される。どこか手塚くんに近いので(薫が手塚くんを尊敬してるからだろうけど)、部員の統率もとれる、ゆくゆくは部長に…という私のテニス部プランである。まあ、桃と比べるようなことではないかもしれないけれど、少しずつ成長していけるようにサポートするからね、と伝えれば、薫は生真面目に「ありがとうございます、よろしくお願いします」とお礼まで言ってきたので、お節介かと心配したのが杞憂ですんだ。薫は先輩には素直なので、私からしたら本当に可愛い後輩である。


「そんじゃ、俺、素振りしてくるっス」

「あ、待って。乾のところにメニュー取りに行くんでしょ?私も乾に用事あるんだ。一緒に行っていい?」

「俺を呼んだか?」

「乾!ナイスタイミング!」


ベンチの後ろから現れたのが乾貞治、青学が誇るデータマンである。いつものようにデータファイル片手にラケットを腕にはさみ、もう片方の手でメガネを押さえている。器用な奴だ。乾は薫に「今日のメニューだ」と紙を渡し、薫はそれを受け取りすぐさま特訓に取り組み始めた。少し離れた薫を見ていると、「で、何の用事なんだ?」と隣から声がした。


「そうだ。ねえ、乾。今日のメニュー変更になったの?」

「ああ、その話か。さっき手塚と竜崎先生に提案したんだよ。二人とも賛成はしてくれたんだけど、試合を定期的に取り入れるメニューだから長期で考えて欲しくてね。以前からやっていたメニューとの折り合いもあるから、今検討中なんだよ」

「じゃあ、手塚くんが来てからじゃないと分からないってことね」

「ああ。マネージャー、っていうかなまえにも教えようと思ったんだけど、越前のところに行ってたから後で教えようと思ってたんだよ」

「あー…、ごめん?」


謝ると、ぽんと頭の上に手を乗せられ、くしゃりと動かされて離れたそれ。ほら、と渡された紙は提案したというメニュー表だった。


「あげるから、もし意見あったら言ってくれ。マネージャーの意見からも修正した方がいいところもあるだろうしな」

「ん、分かった」

「それじゃあ、もう一度手塚も来たことだし練習に戻るよ」

「え、あ、ほんとだ。そんじゃね、乾!」 


ひらひらと乾に手を振って、コートに入ってきた手塚くんに近寄る。すぐに私に気付いて、「おはよう」と言ってくれたので同じく返した。


「手塚くん、メニューに変更あるならレギュラー呼ぼうか?」

「ああ、よろしく頼む。…大石、ちょっといいか」

「ああ、手塚。おはよう」

「ああ、おはよう。今日からのメニューなんだが…」


レギュラーに集合の合図をかけようとコート中央へ歩き始めた私の背に、部長副部長の声が聞こえた。事前に副部長へ変更を伝える手塚くんは、本当に判断力があるなあと感じる。大石くんのことを部内でいちばん信頼しているのかもしれない。


「レギュラーはコート入口に集合!部長から連絡があります!そのほかの部員は空いたコートに順次入っていつものメニューこなしてて!よろしくお願いします!」


コートに向かって声を張り上げれば、はい!という元気の良い返事が聞こえてきた。レギュラーメンバーは個々に移動を始めていて、全員が向かったことを確認し自分も戻る。私が最後に戻ると思って踵を返すと、そこにはリョーマがいた。私を待っていた様子でなんとも愛らしい。


「…なまえ先輩、今日って何かあったっけ」

「ん、そういうことじゃないよ、リョーマ。行けば分かるって感じかなあ…、私もまだ詳しくは分かってないから説明聞いてみよう?」

「ウイッス」


周助に言われたとおり、確かに甘やかしてるなあと自分に苦笑が漏れた。リョーマと並んで手塚くんの元へ向かい、私は定位置である手塚くんの隣へと並んだ。手塚くんが話始めたので、手元のメニュー表と照らし合わせながら、変更点を書き込む。


「よし、全員居るな…。放課後の練習について連絡がある。今日から乾が考案した練習メニューを取り入れることにした。時間の都合上、紙面での連絡になるが、何か意見や疑問点などがあれば俺か大石か乾、そして竜崎先生に確認をとってくれ」

「ねえ、手塚。乾汁が出るっていうのは本当?」

「…それは乾か竜崎先生に確認してくれ、不二。俺は賛成しかねている」


手塚くんが乾をちらっと見てそう言った。手塚くんでさえも乾汁は苦手なんだから、あれに勝てるのは周助くらいじゃないかなあ。マネージャーで良かった、と思っていると英二が震えながら近づいてきた。


「なまえ〜、乾を止めてにゃ!俺また倒れちゃうぞ!」

「いや…マネージャーに危害ないし、体調良くなるならいいんじゃないかな?」

「ひどいにゃ!裏切りにゃ!」

「周助は喜んでるじゃん?平気だよ、英二にも抗体が出来始めてるって」

「そんなわけないだろ〜!」


ぎゃんぎゃんと騒いでいると近付いてきたのは我らが副部長、大石秀一郎であった。彼は困り顔ではあったが、英二の肩に手を置きあ諦め促した。


「英二、先生もゴーサインを出しているんだ、その点は多分揺るぎにくいと思うぞ。それよりも、確実に勝てるようになることが大切だと思わないか?」

「大石〜、そんな事言っても乾汁があると思うだけでテンション下がるよ〜」

「そうだな、だけど俺は逃れるために頑張ろうと思うんだ。逃れるために。英二にも負けないぞ?」

「えーっ、大石シングルス強いんだから俺に勝ちくれよー!このままだとほんとにまずいにゃ!後輩たちには勝たないと!」

「その調子だ、英二!頑張れ頑張れ!」

「なまえは他人事だから呑気にいられるんだぞ!」

「英二、拗ねてないで練習するぞ!朝も少しやるだけで勝ち数が増えるかもしれないぞ!」

「ほいほ〜い、やるってばぁ。…ヨシッ、やるぞ!」


自らの頬をぺちっとはたいて気合を注入したらしい英二は大石くんと共にコートへと入って行った。ついつい英二を甘やかしてしまう私だが、大石くんがいつものように彼を引っ張っていってくれるのでつい甘えてしまう。私もしっかりしないと。
黄金ペアがコートに入り、タカさんと桃が出てきた。タカさんは次に周助とペアになるらしい。二年生で薫の喧嘩相手でもある桃城武は休憩のようでこちらに近付いてきた。


「ふぃーっ、疲れたぜ!」

「お疲れさま、桃。今日はもう終わり?」

「うぃっす、ダウンして終わりッス!」

「じゃあストレッチ付き合うよ〜、押していい?」

「お手柔らかにお願いするッス」


桃の背中をぐいぐいと押すと、「先輩イテェ!」とすぐ悲鳴を上げた。一年前はもうちょっと柔らかかったと思うんだけどなあ。そういえば、一年前と比べたら体つきもガッチリしたし、筋肉も倍以上ついてる。男の子から大人の男へと成長しているんだろう。


「桃はいいですね〜」

「へ?何がッスか?体硬いのが?」

「んなわけないでしょ。身長も伸びてるし筋肉もついてるし、成長してます!って感じじゃん」

「まあ、そりゃあ成長期ッスからねえ。先輩も変わったでしょ?」

「桃城さん。私去年から何か変わりました?」

「…そういわれると特に何も。…あっ、縮みました?」

「うるさい!勝手に大きくなりやがって!」


嫌味のように言われた言葉も、桃にとっては素直に口から出た言葉のようで、「違う、言葉のあやってやつッス!」と弁明を繰り返している。腹が立ったので桃の背中に覆い被さるようにして全体重を乗せてやった。また「イテェ!超イテェ!」と繰り返しているので、してやったりである。
と思っていると、首根っこをつかまれて後ろに引かれ、桃から離れた所へ尻餅をついた。痛い。びっくりして言葉が出ずにいると、リョーマが視界に入ってきた。


「ごめん先輩、ぶん投げちゃった。痛い?」

「痛くはないけど、ど、どうしたの?超びっくりした」

「桃センパイにイラッとしただけ。先輩は気にしないで。それよりも怪我してない?」

「ほんとに大丈夫だよ、リョーマも何かあったら言ってね?」

「ありがと。…じゃあ俺のストレッチ付き合ってよ。もう終わったし」

「おいおい越前、お前何言ってんだよ。今は俺のストレッチやってたじゃねーか。…って、まさか越前」

「じゃ、なまえ先輩のこと借りる。ね、先輩。手伝ってよ」

「リョーマの頼みだ、聞いてあげよう!さよなら桃!」


なぜか唖然とした顔の桃をほっぽって、入口付近の空きスペースに腰を下ろしたリョーマのストレッチを手伝う。ちらりと振り返ると、桃が練習が終わったらしい周助や乾に何かを話していた。ちらちらとこちらを見るので目が合うのだが、特に用事はないようなので気にせずリョーマのストレッチに付き合うことにした。


今日も私の一日は、青学のテニスコートから始まる。

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