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「そういえば昨日のテレビ見た?!白石くん出てたよね〜!!」

またか。


グーっと背を伸ばし深呼吸をすれば今日一日の疲れが少しずつ抜けていく。空を見上げれば夏の面影はもう無く秋の気配がそこにあった。
日が落ちるのが早くなったな、と過ぎて行く季節を肌で実感しながら街を歩けば世間話を和気藹々と楽しそうにしている女子高生やら社会人女性の口からは最近揃って決まって同じ名前が呟かれる。街中でも、会社でも何処に居ても聞くようになったその名前を俺は昔から知っている。



 彼は俺の良い友人であった。



 今や日本でその名を知らないなどと言わせない程に出世を果たし、トップアイドルと謳われた彼はテレビ番組を始め映画の主演などアイドル以外の多くの仕事もこなしている。そんな彼のファン層は若い子から熟年層までと広く、女性だけでなく男性までもが彼のかっこよさに憧れているだとか。
ライブチケットは毎回争奪戦が始まり高額転売もしょっちゅう出回っているほど。その為かグッズは受注生産が多かったりするが現場での限定品などは即完売したり、その人気は止まる事を知らない。

かく言う俺の恋人も彼の大ファンで、それも家のテレビには彼が出ているドラマなどはすべて録画し、友人と結託してチケット争奪戦を潜り抜け、ライブにも行くくらいには熱狂的だ。でもこんな彼女もファンの中ではまだマシな方らしく、彼女以上に熱狂的なファンは過激な層がまだいっぱいいるってのが恐ろしい。彼関係で炎上した者の末路を聞いた後だから尚更だ。住所から名前まですべて調べ上げられて嫌がらせをされたりで炎上した人は精神的に追い詰めれていくのだとか。

ああ、本当人間って怖い。極力アイツには関わらないのが吉だなって思うよ。今も昔も。



 ただそんな事を考えいつも通り雑踏にまみれながら彼女が待つ家を目指して街を歩く。街中の空ではただ月が一つポツンと佇むだけで、遥か遠くで輝く星などここからは見えはしない。星空の代わりに人工的な星が街を覆う。見慣れた筈の街の明かりは今日も眩しい。

嫌な事思い出しちゃったな。

少し後悔しながら彼の事を忘れようとイヤホンを付けて音楽を流す。考えてみろ、こんな一般人があんなスターと出会う機会などたかが知れている。今更何か気にする様なことではないのだ。

そうやって女々しい男の恋愛ソングとか、流行ってる曲を軽く口ずさみ軽快に進むうちに家に近づいてきた。頬に当たる秋風を感じながら歩けば街から離れ薄暗くなっていく事に一抹の不安を感じてしまう。誰かにつけられてるかも、なんてそんな杞憂にすぎないような事を考えてしまう。

……まあそんな事はある訳ないのだけれど。しかし、最近は物騒な事も多いし用心するに越したことは無い。近所でもストーカーや変質者だとか、ちょいちょい良くない噂を聞く機会が増えてきた。帰ったら彼女にも注意しておくよう伝えておかなきゃなぁ。




 それにしても今日はやけに静かな気がしてくる。少しイヤホンを外し、立ち止まってみればまるで森の中に迷い込んでしまったかの様に静かで、人の声さえ聞こえてこない。耳を澄ませば遠くで鳴く鳥の声と風に揺らされてざわざわと木の葉が擦れ合う音だけが響き渡る。
ふと、急に暗くなったと思い空を見上げれば、月は厚い雲に覆われその姿を隠していた。これは俺の勘でしかないけど、すごく嫌な予感がする。言葉では言い表せれない、この胸を締め付けるような胸騒ぎ。
今日は早めに帰ろうか。とこれ以上あまり深く考えないようにして俺はそのまま少し重くなった足を引き摺るように帰って行く。
そういえばあの日も……ううん。



どうか、何もおきませんように。





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