#1.存在しない私





 私は私を認識出来ない。
 誕生して親から授かった姿や名前を確認することが出来ない。視線を下に向ければ見える胴体は認識出来るが、鏡越しに映る自身の姿は霞がかっていて、自分がどんな顔をしているのか視認することは出来ない、写真も同様だ。名前は覚えても、いつの間にか忘れている。
 それが、私に与えられた天与呪縛なのだろう。
 体の一部を失ったり、呪力がない人間と比べれば些細なことなのだろうが、自己認識出来ないのは少し寂しいし、私はここに存在しないように思える。
 自分を失うと同時に手に入れたのは、時操術。触れた物の時間を進めたり、戻したり、止めたり、自分が数分前や数秒前にいた位置に戻ることも出来る。もっとも、相手の強さや発動時間が長ければ長いほど身体に負荷がかかるのだけれど。
 それもこれも引き出してくれたのは五条 悟だった。火事で全焼した孤児院から私を見つけて、能力を引き出してくれて、役に立つ力だと言ってもらえた時は、私は少しだけ自分を好きになれた。東京都立呪術高等専門学校に入学したのも、五条先生が上層部と掛け合ってくれたお陰だ。最初は何故、呪術高専にと思ったが、今では入学して良かったと思う。同級生は皆、普通ではなかったから。
 天与呪縛で呪力のない禪院 真希に、呪言師でおにぎりの具しか語彙のない狗巻 棘、そしてパンダ。普通ではないのは自分だけじゃないと感じることが出来て、私の事情を知っても尚、仲良くしてくれた。馴染むことが出来たんだ。
 でも、何故だろう。

 私は、何かを忘れているような気がする。

「君の時を戻す力っていうのはさ、強いけど自分を失うようなものだ。怪我を治すなら時を戻してしまうより、反転術式の方がいい。そうじゃないと……」

 記憶も過去に戻るからね

 そう言った五条先生の表情は少し、寂しそうに見えた。


***


「壱紀さん……壱紀さん、あの!」

 校庭にて、背後で必死に誰かを呼んでいる声がした。声がこちらに近づいてきて、そこでやっと、私に声を掛けているのだと気づいた。振り返ると、最近編入して来た乙骨 憂太がそこにいた。

「憂太、おはよう。ごめんね?気づかなくて」
「聞こえなかったかな」
「いや、変に思うかもしれないけど、私、自分の名前を忘れてしまうんだよね」
「そう、なんだ?」

 あまり意味が分かってなさそう。私もよく分かってないし、説明もし辛いからお互い様だ。それより、と刀を背負っている憂太を見ると、彼は緊張気味に肩を竦めた。何に怯えてるんだろう。

「えっと、何か用?」
「え?いや、壱紀さんと一緒に任務だから……」
「……五条先生が言ったの?」
「うん」

 あの人は本当、何も言わないな。今日は一人で任務のはず。だから今、補助監督の伊地知さんの運転する車へ向かう途中だった。まぁ、五条先生のマイペースさに振り回されるのはいつものことだから、今更気にしない。

「じゃあ行こうか。伊地知さんが待ってる」

 私達は伊地知さんと合流して車に乗り込むと、目的地へ向かう。その間、憂太は気まずそうに私の隣に座っていた。
 無言が耐えられないタイプの人なのかな。私から何か話した方がいいのだろうか。でも、何を話したらいいのか。いつも真希やパンダが話を振って来てくれる。棘とは無言な時が多いが苦にならない。何かを指して時々喋ることはあるし、意味は何となく理解出来る。
 憂太がやって来て三ヶ月近くなるが、彼とはどうコミュニケーションをとればいいのか、未だに分からない。そう悩んでいる間に憂太はえぇと、と声を上げる。

「壱紀さんは一級呪術師なんだね、パンダ君から聞いた。すごいね」
「真希には体術で負けることがあるし、まだまだだよ」
「十分強いと思うけど……壱紀さんからも一本取れたことないし」
「そうだね」

 また沈黙が続く。何となく、憂太と会話を続けるのが苦手だ。憂太が緊張しているからか、私が無意識に彼に苦手意識があるからなのか。それでも、仲良くはなりたいと思う。私は会話を終わらせてしまった為、次はこちらから話題を振ろうと憂太を見る。

「憂太は……甘い物、好き?」
「えっ、まぁ……それなりに」
「帰りに喫茶店に寄ろう。近くに紅茶とケーキが美味しい店があるんだ」
「いいね、真希さんとよく行くの?」
「いや、五条先生と」

 私の答えにポカンと口を開けて黙る憂太。意外だっただろうか、と放心している彼の前で手を振ってみると、ハッと我に帰った。

「ご、五条先生と出掛けたりするんだ……」
「最近は少なくなったかな。先生も忙しいし、私も馴染めてきてるし……でもちょっと、寂しい」

 憂太は何かを考えては、あぁ……と呟き、苦笑する。五条先生から何か聞いているんだろうか。

「五条先生、何か言ってた?」
「す、少し……付き合ってるとかじゃないよね?」
「付き合ってはいないけど……私、五条先生のこと好きなんだ。真希達にはやめとけって言われるけど」

 でもこの想いを伝えることはない。この想いはずっと心に秘めたままでいたい。ずっと、片想いでもいい。それでも真希達が止めるのは、歳が離れているからだろうか。でも、好きになること自体は悪いことではないと思いたい。

「僕はいいと思う……その、年齢の壁はあるかもしれないけど」
「ありがとう……」

 この片想いを応援してくれるのは憂太だけだ。そう思いながら、私は窓の外を眺めては当時のことを思い出す。
 あれは去年の十二月のことだった。
 私は見知らぬ部屋のベッドで目を覚ました。何とも言い難い薬品独特の臭いには覚えがあり、そこは一般的な総合病院の一室だと思った。今ではそこが、呪術高専の医務室であると分かるのだけれど。
 ぐらりとする視界に茶髪に右目の下に黒子のある綺麗な女性と目元に包帯を巻いた白髪の男性が映り込んだ。それが家入 硝子さんと五条 悟先生だ。

「目が覚めた?最後に憶えていることは?」

 彼は私が目覚めるや否やそう訊ねてきた。目に怪我をしているのか、私が見えているのか、どうしてそんな質問をするのか。疑問はいくつでもあったが、とりあえず、彼は医者ではないと判断した。女性の方は白衣を着ていて、医者っぽい。彼女が質問するのは分かるが、何故彼が訊ねてくるのか。寝起き早々に視界に入った異質な見た目の彼のことで頭がいっぱいになっていると、隣にいた彼女は眉尻を下げ、私の顔を覗き込んだ。

「ゆっくりでいい」

 その優しい声や言葉、表情に安堵し、私の思考は彼ではなく自分自身や質問に向かっていく。きっと、これは重要なことなのだろう。そう、私はゆっくりと自分の中にある記憶を辿っていく。

「……学校から帰って来て、家で眠ってました」
「今、いくつ?」
「十六歳」

 私の言葉に、彼らは納得したように頷いた。一体、私の身に何があったのか、体を起こしてそう訊ねようとした時、五条先生はまず結果から話をする。

「君のいた孤児院は全焼してなくなった」
「え?」
「僕が助け出さなきゃ、今頃死んでたかもね」

 衝撃的な言葉だった。そんな記憶はなく、体に痛みも感じない。本当なのか、と私は家入さんを見ると、彼女もそうだな、と複雑そうな顔をしていた。
 私は孤児院の人達に深い情があったわけではない。自己認識の出来ない私を忌み嫌っていて、罵声を浴びせられることもあった。多くの人間と共に過ごしていたのに、ずっと孤独だった。私にとって、孤児院はただ生きる為に必要な場所というだけだ。それでも──

「誰か、死にましたか」

 死んでほしいとまでは思っていない。寧ろ、自分の身近に死があるのが怖くなった。だからか、少し声が震えてしまい、私はつい強がって唇を噛むと、私の心情を察したのか、五条先生はいいや、と優しい声で答えた。

「誰も死んじゃいない。ただ眠っていた君だけ、部屋に取り残されていた。子供達は他の孤児院に預けられたよ」
「そうですか……良かった」
「それで、君の身柄はここ、東京都立呪術高等専門学校に預けられた。今日から君の家はここになる」

 そんな彼の言葉に、私は何故高専に?しかも呪術?と湧き出る疑問に、何から質問したらいいのか、と口をぱくぱくしていると、彼は大丈夫大丈夫!と笑ってベッドに腰が掛け、私の肩をポンポン、優しくと叩いた。

「何もかも、これから学んでいけばいい。僕がちゃんと教えてあげる」

 こうして私は呪術高専へ入学、呪術を学ぶこととなり、自身の術式や天与呪縛は五条先生によって引き出された。この代償は術式を捧げたところで戻ってくるものでもない。私はやはり自分の姿も見ることは叶わないのだろう。少し寂しいと思いながらも、今では自分のことなどどうでもいいと感じていた。自分に見えずとも、私を見てくれる人がいてくれるから。

「着きました」
「ありがとうございます、伊地知さん」

 思い出している間に目的地のビルへ辿り着く。ここはブラック企業だったのか、今でもそうなのか、呪いが吹き溜まるらしい。既に呪いの気配がするなと思いながら、私達は車から降りると、憂太は緊張しているのか、深呼吸をする。

「すぐ慣れるよ」
「うん、ありがとう」
「帳を下ろします。お気をつけて」

 伊地知さんが帳を下ろすと、私は先にビル内へと足を踏み入れ、全身に力が入っている憂太が後に続いた。誰もいないビル内は静かで、私達を避けていく蠅頭はスルーしながら、大きな呪霊の気配を追って歩いていく。すると、緊張を紛らわす為か、あのさ!と憂太は声を上げる。

「壱紀さんって、どんな術式を使うの?」
「私?」
「はい」
「時操術。名前の通り、時を操る術式だよ。よく呪霊とか物の時間を止めたりする」
「えっ、そんなことが出来るの?」
「うん。長ければ長いほど呪力を消耗するんだけど……まぁ、止めるだけで攻撃にはならないから、止めたら物理で殴る」

 そうギュッと拳を作ると、だからいつも素手なのか……と憂太は握っていた刀を刀袋から取り出しつつ、呟いていた。

「今回は私が時間を止めるから、憂太が攻撃して?」
「どのくらい止められるの?」
「階級によって違う。今回は二級と聞いたから、大事を取って十五秒くらいかな。でも二級だし、そんなにいらないと思う」
「分かった」
「もし、硬くて斬れないなと思っても、何度も斬るといいよ。止めている間、攻撃分が蓄積されて、動き出した瞬間、バラバラになったり破裂したりする」
「わ、分かった……」

 破裂した時、気持ち悪いんだよなぁ、と過去の経験を思い出しながらそこへ向かうと、巨大な二級呪霊が現れる。それに私は呪霊に触れる為、迷いなく向かって行くと、憂太もハッとして私について来る。

「憂太、いくよ」
「はい!」

 その瞬間、私は呪霊の攻撃を避けて触れると、呪霊はピタリと動きを止める。憂太は呪霊を斬っていき、私は術式を解くと、それは破裂して消えた。それを間近で見た憂太はう、と声を上げると、私は思わず笑ってしまう。

「離れた方がいいって言えば良かったね」
「びっくりした……」
「人と協力した方が早く済むからいいね」
「すぐ終わっちゃったね」
「そうだね。蠅頭はキリがないから、祓わなくていいみたいだし、喫茶店に寄って帰ろう。伊地知さんも行くかな」
「誘ってみよう」

 帳は上がり、私達は伊地知さんの元へ帰る。いつも彼は戻って来る私を見てホッと安堵しているような気がする。心配性だ。

「お疲れ様です。早かったですね」
「はい。この後、喫茶店に行くんですけど、伊地知さんも行きますか?」
「い、いえ、私は遠慮しておきます。まだ仕事もあるもので……でも、喫茶店まで送りますよ」
「ありがとうございます。じゃあお願いします」

 私は伊地知さんに喫茶店の場所を教えると、彼はナビで検索して車を走らせた。憂太はそこでやっと緊張の糸が切れたのか、ふと息を吐き、体の力を抜いていた。
 辿り着いた喫茶店付近で、程よい場所に降ろしてもらうと、伊地知さんに礼を言って別れた。私達は少し歩き、喫茶店へ憂太を案内する。この喫茶店はよく五条先生と来ていた。
 店内へ入るとすぐ、ずらりとケーキが並ぶショーケースが目に入る。店内に入っても、忙しい時間帯だからか、すぐに店員はやって来ない。その間に憂太は少し屈んでケーキを見ると、どれも美味しそうと微笑んだ。私はもう決まってるんだよね、とショーケースの中のショートケーキを指す。

「何だかんだシンプルなのが美味しいの」
「じゃあ僕もそうしようかな」

 やっと店員が現れ、席へと案内してくれる。私達は席に着くと、ブレンドティーとショートケーキのセットを二つ注文した。観葉植物や木の温かみを感じさせる落ち着きのある店内は茶葉の香りで満たされていた。寮部屋にいる時くらいリラックス出来る空間だ。

「こういうお洒落な喫茶店、初めて来たから緊張するなぁ」
「これも慣れだよ。私も最初は憂太みたいに緊張してたけど、何度も連れて来てもらって、やっと落ち着けるようになった」
「五条先生、この場所じゃ目立ちそう」
「あの包帯は外してるよ。その代わりサングラスしてる。それでも目立つけど……」
「そういえば先生の素顔って見たことないかも」

 いつも包帯のイメージ、と憂太が話していると、そこにケーキセットがやって来、二人でお茶をした。彼も美味しいと気に入ってくれて、五条先生に教えられたように、私も憂太へ教える。自分の好きな物を好きだと言ってもらえるのは嬉しい。また、真希や棘を連れて来よう。パンダは難しいから、テイクアウトでもして、お茶とケーキを振る舞うのも良い。憂太とそんな他愛もない話をしていると、まだ拙い私達の緊張や不安は解されていき、憂太と仲良くなれた気がした。

 数日後。
 私は教室で五条先生と久々に会い、すぐに憂太と任務帰りに喫茶店へ行ったことを話した。きっと彼は仲良くなれて良かったね、と笑ってくれるに違いない。そう思っていたのに、彼の口角は上がることなく、へぇ、と呟く。

「憂太とデート、ね」

 いつも忙しい五条先生と久々に会えて嬉しい、と感じられたのは一瞬だけだった。彼は何かに怒っているのか、不機嫌そうだ。私は任務で何かあったのか、もしかして私が何かしてしまったのだろうか、と不安になりながら彼を見上げた。どんな瞳でこちらを見ているのかは分からないが、ジッと私を見下ろしていた。

「僕というものがありながら、ねぇ?」
「五条先生がいつも連れて行ってくれていた喫茶店に行ったんです。私もあの場所が好きなので」
「僕とのデートスポットに他の男連れて行くなんて、酷くない?」
「ダメでしたか?……ごめんなさい」

 秘密の場所だったんだろうか。憂太を連れて行ったし、真希達にもあの後、ケーキやティーバッグを店で買って、振る舞った。出来るだけ嫌われるようなことはしたくないのに、余計なことをしてしまった。そう思っていると、彼は不機嫌そうな表情を一変させ、ニッと歯を見せて笑う。

「大丈夫大丈夫!全然OK!怒ってないよ、また僕とデートしよっか」
「はい、楽しみにしてます」
「君は素直で可愛いね」

 そう言って彼はヘラヘラ笑いながら私の頭を優しく撫でてくれる。子供扱いされている気もするが、これはこれで嬉しい。すると彼はそっと頭に置いていた手を滑らせ、私の頬を撫でる。再び彼を見上げると、表情は分かりづらいが、口元は優しく微笑んでいた。

「ねぇ、早く大人になりたいと思わない?」
「時々訊きますよね、それ……私はあまり思いません。子供のうちに呪術を学んで、経験を積んでから大人になりたいです」
「堅実だねぇ、でも今すぐ大人になっちゃえば、僕とすぐにでも結婚出来るのに……ねぇ?」

 そう、私の顔を覗き込んでくる彼の瞳は包帯で遮られている。しかし、今は都合が良かった。きっと、あの綺麗な瞳で見つめられたら、私は彼の冗談を間に受けて、頷いていたかもしれない。速まる鼓動を落ち着けようと、私は彼から視線を逸らす。

「それは残念です。この間……恐らく私は深傷を負ったのでしょう。呪霊は祓えていたのに、何故自分がその場に立っていたのか、理解出来ませんでした。過去に行くのは簡単に出来てしまうんです。でも、状況を知る為に身体や記憶を未来へ戻そうとしましたが、過去に戻すのより圧倒的に呪力量が多く、時が進めば進むほど身体への負荷が大きい。最悪、死んでしまう。そんなリスクを冒してまで老けたくありませんね」
「やーっぱ難しいか」
「え?」
「……いいや、何でも」

 五条先生は明後日の方向を向き、黙って何かを考えている。私と話している時に何かを考えていたり、変な質問をしてくる。彼は私にどうしてほしいんだろうか。大人になればいいことがあるんだろうか。頭の弱い私は特級呪術師の彼の思考についていけるはずもない。

「まぁ、いいか。未来に戻って死なれても困る。ならいっそ、このままゆっくり、安全に成長してくれたらいい」
「はい……」
「君の術式は、自分の運命も、他人の運命も捻じ曲げるようなものだからね」

 物憂げに語る彼のその言葉の意味を、私はこの時、深く理解していなかった。






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