#6. もしも、記憶がなかったら。
目覚めると最初に目に入るのは愛おしい人。彼と共に食事をし、身支度を整えている最中にスキンシップをする。自宅となった彼の家から出勤する為、いつもとは違う慣れない道を通り、止まったことのない駅から出勤する。見慣れない電車に乗り込むと、当たり前だが、いつも見かける可愛いネクタイのおじさんはいない。サラリーマンの出勤時間は大体決まっており、同じ時間、同じ車両に乗り合わせる人もいる。可愛いネクタイをしているおじさんも、スマホケースが派手なOLも、いつも疲れていそうなサラリーマンも、もう見かけることはないのだろう。車窓から見える景色も違っていて、出勤の為に電車に乗っているのだと忘れてしまいそうになる。そのくらい身についてしまっていた。最寄駅に着いてからは、いつものルートで会社へ向かう。
近いうちに結婚して、仕事を辞めることは上司や同僚に伝えてあり、辞表を提出している。しかし私は今、新商品開発のチームに所属しており、その商品が無事販売決定するまでは辞められない為、まだ勤務している。そんな中、別チームの後輩と休憩室で遭遇した。すると彼は辺りをキョロキョロと見回した後、私にこっそりと小声で「辞めちゃうって本当ですか?」と訊ねてきた。何故小声なのだろう。
「うん。そろそろ結婚するかもしれないから」
「け、結婚!?彼氏いたんですか」
思ったより驚かれたが、私は飲み会の時などにも彼氏がいると公言していたはずだ。もしかして忘れられているのか?とつい首を傾げると、それを察した彼はいやいや、と苦笑する。
「彼氏いるとか、信じてる人いませんでしたよ……いつも飲み会に参加していたし、詳しい話は出ないし」
確かに、飲み会に参加した時などに「彼氏はどんな人なんですか」「何してる人ですか」と訊かれることがあったが、いつも誤魔化していた。それに誤魔化されず、嘘だと見抜かれていたのは恥ずかしい。
「……バレてたか。でも、結婚は嘘じゃないよ。彼とは最近再会して、同棲を始めたばかりなの。仕事を辞めて、専業主婦するってなったら、籍を入れようかって話をしていて」
「へ、へぇ……」
「……辞めるまでお世話になります」
「いえ、こちらこそ……!は、はは……」
顔を引き攣らせて笑う彼からの好意には気づいていた。だからこそ彼氏がいると嘘を吐き続けていたのだが、今回は本当だと分かってくれているんだろうか。
他の同僚とも同様に結婚話をしたが、傑くんの名前は絶対に出さないと決めている。結婚式は呼んでね、と言われているが、どうしようかは悩み中。
勤務を終え、帰宅しようと電車に乗り、ぼんやりとまだ見慣れない外の景色を眺めていた。最寄駅に辿り着き、改札を抜けると、肩をトンと叩かれた。反射的に振り向くと、そこには帽子と眼鏡姿をした傑くんがいた。
「やぁ、おかえり」
「ただいま。連絡してないのに、待ってたの?」
休日だとは聞いていたが、わざわざ迎えに来てくれたのだろうか。そう思いながら二人で歩いて駅を出ると、傑くんはスマホを取り出す。
「GPSで会社を出たのが見えたから、ここまで出てきたんだ」
「そう……行動が見られているって、何か変な感じ」
誰からの受け売りかは知らないが、位置共有アプリは絶対に入れたいという強い意志につい流されてしまったが、彼は何を心配しているのだろう。
「君は見てないの?」
「アプリを開いたことないな……」
「えぇ?気にしてほしいなぁ」
「傑くん、いつもどこに行くか言うでしょ?必要ないよ」
「つれないなぁ」
人混みを抜け、傑くんが停めている車に乗り込み、自宅へと帰る。夕飯は何にしようかと考えていると、彼は運転しながら、そうだ、と声を上げる。
「さっき、夕飯を作ったんだ。上手く出来たから食べてほしいな」
「本当?嬉しいけど、料理得意じゃないよね」
「得意じゃないけど、レシピを見ながら料理配信して作ったんだよ。味見もしたけど、美味しかったよ」
「じゃあ楽しみにしてる」
駐車すると、マンションのエレベーターに乗り込み、辿り着くまでの間、料理下手な彼が一体何を作ったんだろうかと楽しみにしていた。部屋の扉を開くと、香ばしいニンニクの香りが真っ先に鼻腔を擽り、食欲を唆られた。油の香りも相まって、これはきっと唐揚げだと思いつく。
「唐揚げ?」
「正解。揚げ物の気分だったんだ」
バッグを置き、洗面所で手を洗ってからダイニングへ向かうと、テーブルには大盛りの唐揚げが置かれていた。
「本当、さっき揚げたばかりだから、まだ温かいよ。サラダとスープも用意するから、着替えておいで」
「ありがとう……」
休日くらい、ゆっくりしていれば良いのに。そう思いながらも愛されていると実感し、嬉しくなる。寝室で部屋着に着替えてからダイニングテーブルに着くと、傑くんは用意したサラダを冷蔵庫から取り出し、温め直した玉子スープと共に出してくれた。
「ご飯は少なめだっけ」
「うん。お茶碗に少し」
彼は炊いた白米を茶碗によそうと、どうぞとそれを手渡してくれる。傑くんも自身の茶碗に大盛りの白米をよそってはテーブルに着いた。互いにいただきます、と手を合わせ、私はまず彼が作ってくれた唐揚げを一つ、箸で摘むと、口に運んだ。カリッとした衣に、じゅわっと溢れる肉汁。香るニンニクは強めで、味が濃い。ご飯やお酒に合うな、と白米を口にすると、彼は頬を緩ませる。
「君、分かりにくいこともあるけど、美味しい物を食べている時はすごく分かりやすいよね」
「美味しいって顔してる?」
「してる。可愛いね」
気づかなかった。少し照れ臭いと思いながら、優しく笑いながらこちらを見つめてくる。彼の視線はいつも、私に愛を伝えてくれる。その点では、彼は分かりやすい人だと思う。
「傑くんも分かりやすいよ」
「自分では分からないものだね」
「美味しいよ、私も料理頑張る」
「いつもありがとうね」
「こちらこそ。ビール欲しいや」
そんな会話をしながら、私は冷蔵庫からビールを取り出し、傑くんと共に晩酌をする。傑くんは酔いが回ってくると仕事の話をし始める。その話を聞きながら、ゆっくりと食事を楽しんだ。
夕食を終えると、私は皿や調理器具を洗い、ダイニングテーブルで酒を飲む傑くんを見る。
「シャワー浴びた?」
「うん、浴びた」
「それじゃあ、そろそろ寝た方がいいよ。酔ってる」
「ん、」
傑くんはフラフラと洗面所へ向かい、歯を磨いてから寝室へと入って行った。私もシャワーを浴びては寝支度をして寝室へ向かうと、眠っている傑くんの隣に寄り添って眠る。相変わらず体温が高いと感じていると、唸るような声が聞こえ始める。また夢に魘されているのだろう。胸をそっと撫でると、彼はハッと目を覚まし、私を見た。安心したような、でもどこか寂しそうな目をした彼は、私の頬を撫でた。
「悪夢を見たの?」
「……私は、綺麗な、人間じゃない……」
「知ってる」
昔はよく綺麗事を吐いていた気がする。でも彼は優しげに見えて、毒気もある。他人に優しくもあり、冷たくもある彼は、私の知っている夏油 傑とは違って見える。
「君が思ってるようなことじゃない……私は、人殺しなんだ」
私が死んだ後のことを言っているのだろうか、それとも、目の前にいる彼のことなのだろうか。「どういうこと?」と訊ねると、彼は私から手を放し、体を起こしてはだらんと力が抜けたように俯いた。
「私は、呪詛師になったんだ。非術師を皆殺しにする為に」
「どうしてそんなことを?」
一先ず、今の彼のことではないのだと安心出来た。人を殺した過去の夢を見るのか、と隣に座り、彼の背を撫でながら訊ねてみると、昔の彼に戻ったような彼は、ぽつりぽつりと言葉を溢す。
「非術師は呪いを生み出す一方……呪術師は命を懸けて、呪いを祓う」
「そうだね……」
「非術師がいなくなれば、呪いは生まれない。誰も死なずに済む。だから、呪術師だけの世界を創ろうとしたんだ……君とは、全く違う思想だ」
確かに、私は非術師の親友の為に命を投げ打った。それに後悔はない。でも、彼は私のやったことに納得してくれていたはずだ。
「術師は非術師の為にあると言ってたでしょ?」
「……考えが変わったのさ。君が親友の為とはいえ、非術師の為に命を落としたこと、後輩の死、迫害される術師の子、非術師の醜悪さ……私は、多くの人を殺したよ」
彼はきっと、私の知る夏油 傑ではない。でも魂は私の好きな傑くんだ。例え呪詛師となり、人殺しの過去があったとしても、今の傑くんとは関係ない。
「でもそれは、今の傑くんじゃないよ。今は呪術師ではないし、人間を憎んでもいないでしょ?」
それに彼は両手で顔を覆い、暫く沈黙した。
私はあの一年間の彼のことしか知らない。優しい愛ばかりを受けていて、本当の彼のことを知らないのだ。今、目の前にいる傑くんもそう。私は彼の心の内を想像することも出来ない。
そっと彼の腕を取り、体を寄せると、沈黙していた彼は静かに口を開く。
「……私にも、そういう危うい所がある。君が欲しいからと、酷いことをした。それに、別人なのだと割り切れない。君と過ごした一年がなければ、きっと私は君とこうしていられなかったから」
「言葉で聞くだけじゃ、全てを理解することは出来ない。私は誰かの死に直面したこともない、幸せな人間だったから。でも、傑くんは大丈夫だって思う」
「同じ魂を持つ人間だ、君を傷つけてる」
傑くんはネガティブなんだな。慰めようと彼の頬を撫で、上を向かせると、そっとキスをする。
「時に真面目さは短所にもなるんだね。私みたいに何とかなるって気持ちで生きよう?一人の人間の人生を幸せにして、多くの人を笑顔にしている傑くんなら、きっと大丈夫」
「……ありがとう」
そう言って私の首筋を撫でながらキスをすると、そのままベッドに押し倒す。くしゃりと彼の髪を撫でると、唇が離れ、瞳を覗き込んできた。
「ごめんね、傑くん」
「どうして君が謝るの」
「思い出さない方が幸せだったかも」
「……めそめそしてダラシない、変わってしまった私は嫌いかい?」
「好き」
そう言うと彼は安心したのか、ベッドに倒れると、気絶するように眠った。過去のこと、内に秘めていた不安を吐露したのは、酒の所為か、寝惚けていた所為か。打ち明けてくれたことが嬉しくもあり、私の中で後悔も生まれた。
私はどんな傑くんでも愛せる自信がある。でも、傑くんが苦しむのであれば、記憶が戻らなくても良かったと感じる。寂しい気持ちにはなるかもしれない、距離が出来るかもしれない。それでも私は、一緒にいたいという自分の欲よりも、彼の幸せを優先したいと感じてしまった。
「おやすみなさい」
そう呟き、彼に寄り添いながら、私はそっと目を瞑った。
***
SNSを見ていると『祓ったれ本舗 夏油 傑が一般女性と同棲か!』という記事が出ていた。私の顔にはモザイクがかけられていたが、盗撮はいい気分はしない。SNSでは『またか』『家にまで連れ込むようになった』などあまり信用されていないようだった。
『夏油さん、また記事出てましたけど』
『あぁ、あれですか。事実ですよ。同棲を始めたんです。結婚前提にお付き合いしています』
ラジオで記事の内容を認めた傑くんの言葉に、SNSは大荒れしていた。『嘘でしょ!夏油様がついに結婚しちゃうの!?』『遊びならまだ許せたのに……』などとショックを受けている女性が多くおり、優越感があった。
『どんな女性ですか?』
『可愛くて大人しくて……でも大胆な子ですね。ウサギみたいな可愛さがあります』
『アイツ、何か表情ないよな』
ウサギと喩えられるのは嬉しくも照れ臭さがあったが、五条くんの表情がないという言葉で、嬉しさは半減した。確かに表情豊かな方ではないけれど、誰でも五条くんのように分かりやすくはない。タブレットでラジオ放送を聴きながら、明日の私達のお弁当の下準備をしていると、どこか嬉しそうな傑くんの声がイヤホンから聴こえてくる。
『でも分かりやすいよ。美味しい物を食べている時とか、面白いと感じたらちゃんと笑うしね』
『笑うんだ』
『可愛いよ』
『どなたに似てるとかありますか?』
『ないですね、彼女は彼女なので』
そんな私達の話が終わると、話題はお便りへと移っていった。ラジオが終わる頃には弁当の下準備を終え、日付が変わると眠気に襲われてベッドへ入る。うとうとしていると、いつの間にか眠っていたのだろう、ベッドが沈んだことに気づき、目が覚める。寝返りを打ち、仰向けになると、彼は私の額に唇を落とした。
「ただいま……起こしちゃった?」
「ん、大丈夫……何か、食べる?」
「いいや、大丈夫。寝ていて」
その優しい声と頭を撫でてくれる優しい手に誘われるように眠りへと落ちた。
朝六時のアラームに目が覚める。隣で眠る彼の髪を撫でると、無意識なのか、起きているのか、私の手に擦り寄るように頭を動かした。愛おしい人だ。
ベッドから出ると、もう慣れつつある朝のルーティンで身支度を済ませ、お弁当と朝食を作っていく。しかし時間になっても起きてこない傑くんを起こそうと寝室に向かい、まだ寝ている彼の肩を揺する。
「傑くん、おはよう」
「……ん、おはよ、」
ベッドの上で伸びをしてから起き上がると、まだ眠そうにぼんやりとしている。また眠れなかったのだろうか。
「朝ご飯出来たよ」
「うん……ありがとう」
大きな欠伸をしながらベッドから下りると、ふらふらと洗面所へ向かい、身支度を済ませる。先にダイニングテーブルに着いていると、彼は軽く伸びをしたり、ストレッチしてから席に着いた。いただきます、と手を合わせて弁当の残りや白米を食べる。傑くんが寝不足でぼんやりとしていることも含め、いつも通りの朝食だったが、彼は何かを思い出したように、あっと声を上げる。
「今度、ドラマ撮影があるんだ……」
「すごい。傑くんは俳優でもあるね」
「そういう仕事が増えるのはいいんだけど、今回はオフィスラブでね……私は本当、数話しか出てこない脇役なんだけど、キスシーンがあるみたいで。君と出会う前から決まってたらしいんだ……最近まで頭に入っていなかった」
「そうなんだ。私、傑くんの演技好きだよ。前にバーテンダー役やってたよね。似合ってた」
傑くんは役の幅が広くて、いい脇役になるんだよな。と彼が出演していたドラマのことを考えていると、彼は眉を顰める。
「気にならないの?」
「……何が?」
「キスシーンだよ?」
口に残った卵焼きを飲み込み、首を傾げると、彼は不服そうに私を睨んでいる。キスシーンなど気にしたことはない。
「気にならないよ。お仕事でしょ?」
「そうだけど、私だったら嫌だから」
「浮気されるのは嫌だけど、浮気じゃないから、何とも思わないかな」
確かに逆の立場なら、傑くんは許していないだろうけど、私は仕事ならと割り切れる。気持ちが離れなければ、それでいい。しかし、そんな私の価値観と彼の価値観は合わないようだ。
「……少しは独占欲を見せてくれてもいいと思うんだけど」
「難しいことを言う。もう既に独占出来てしまってるから、これ以上を傑くんに求めれない。それに、今更キスシーンをやめるなんて出来ないんだから」
傑くんは誰からも愛される人だ。それでも浮気の心配はしていない。愛されているという実感も、信頼もあるからだ。嫉妬してほしいだなんて言う人が、他の人間に気持ちが向くとは思っていない。私は落ち着いて味噌汁に口をつけていると、傑くんはムッと口を曲げる。
「私、正論嫌い」
「えぇ?」
「冗談だよ。君は私の恋人で、そろそろ奥さんになるんだから、言っておく必要があると思っただけ」
私も愛は伝えているつもりだ。束縛もまた一つの愛の証なのかもしれないが、束縛されて困るのは傑くんだろう。私に我が儘を言ってほしいんだろうか。私の最大の我が儘は傑くんと一緒にいたいということ。同棲、婚約をして、それが叶った。一緒に眠るし、キスもするし、セックスもする。これ以上、彼に不満はない。
「嫉妬深くはないけれど、SNSで傑くんのリアコの反応とか見ちゃうと、優越感はある」
「それはすごく嬉しいね」
そんな会話をしながら朝食を済ませ、私は会社へと、傑くんは撮影現場へと直行した。
通勤電車内で吊り革を握りながら、傑くんが思い出してくれていなければ、どうなっていたのだろうかと考える。
きっと私は嫌われるのが怖くて二の足を踏んでいただろう。立場が違い、遠い存在となった彼を諦めていたかもしれない。だからこそ私は、PTSDに悩まされる傑くんを見て見ぬふりしながら、一緒にいたいという我が儘を貫いている。
今の彼に罪はない。それなのに、呪詛師としての罪を背負い、悪夢に魘される彼は、果たして幸せなのだろうか。
たった一年、あの泡沫のような夢を再び取り戻したいと焦がれてきたが、私は本当に彼といていいのだろうか。
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