#3.花嵐と共に去る。
一年の中で最も静かであろう季節は、冬なのだと感じた。木々の葉は枯れ落ち、真っ白な雪が積もる高専は、虫が鳴くこともなければ、枝葉が擦れ合う音もしない。雪が積もった日の高専には真っ白な雪が一面に敷き詰められていて綺麗だ。広大な敷地の割に人が少ないからか、ほとんど足を踏み入れられていない場所は、普段とは違う趣がある。一歩一歩、雪を踏む度に靴底が沈み、ザク、ザク、という音だけが周囲に響く。寒いが雪も悪くない。
夜九時になると、私は寮を出て宿坊へ向かう。彼女と外で出会えることもあれば、宿坊まで訪ねることもあるし、窓から私の姿が見えると出て来てくれることもある。今日はどうだろうか。寒いし、部屋の中にいてくれるといいんだけど。
宿坊の門を潜ろうとすると、建物の前で厚着をした彼女が積もった雪をかき集め、雪玉を作っていた。私を待ってくれていたことは分かっているが、手袋が凍りつくほど雪遊びをするほど無邪気な人だったのかと、それを微笑ましく思いながら、彼女の下へ向かう。
「やぁ。雪遊びかい?」
「うん。雪玉を作って、木に投げつけるの」
「雪だるまを作るんじゃないんだ」
「雪だるまは作ったら終わりだし」
よく見ると足元には沢山の雪玉がピラミッド型に積み上げられており、彼女の目線の先にあった木には雪玉が当たった痕跡があった。的当てのようなものだろう。
「木にぶつかった雪玉が弾けるの、見てると気持ちいい」
「そっち?的当てじゃないんだ」
「それもある。やる?」
雪玉を手渡してくるが、こんなに雪玉があるのなら、ちょっとしたゲームでもやろうか、と私は彼女から少し距離を取る。
「雪合戦しようか」
「私、すごく不利じゃない?」
「そこにある雪玉の一つでも私に当てることが出来たら、君の言うことを何でも聞いてあげるよ。私も本気で投げたりしないさ」
投げるだけなら、それほど体力を使わないだろう。私も避けている間に雪玉を作って、軽く投げればいい。そう思っていると、彼女は何も答えることなく、雪玉を投げてきた。少し狡いなと思いながらも避けると、足元の雪を手で軽く握って固めていく。その間にも雪玉が飛んでくる為、避けなければならないのはいいハンデだ。両手に雪玉を持ち、同時に足元に投げてくるが、足を開いて避けると、悔しいのか、眉を顰めた。一生懸命投げる姿が可愛い。そう思いながらも、作った雪玉をひょいと投げると、彼女はそれを避けながらも全力で投げてくる。しかしそれも地面で弾けると、彼女は息を切らし、胸を押さえる。苦しんでいる、と私は「大丈夫か!?」と声を掛けがら駆け寄ると、自分の胸で雪玉が弾けた。一瞬、何が起こったのか理解出来なかったが、彼女に雪玉を当てられたのだと気づく。
「当たった」
「……君、性格悪いよ」
いつも通りの無表情を私に向けてきており、本気で心配したのに、と息を吐く。
「絶対当たらないと思って」
「……私の負けだよ。何をしてほしい?」
演技をするくらいだ、何かしてほしいことがあるんだろう。こんなことしなくても、お願いされたら、私は何だってするのに。
「当てたかっただけ」
「えぇ?何かはあるだろう」
「私は別に、夏油くんに何も求めてないからな」
「その言い方は傷つくなぁ」
「……これ以上、求めちゃいけないんだよ」
彼女が何を思っているのか、正直私には分からない。けれど、私は彼女に求められたい。そう思っていると、彼女はその場でしゃがみ込むと、再び雪玉を作り、私に投げつけてくる。何がしたいんだろう。
「どうしたの」
「……傑くんって、呼んでいい?」
「も、ちろんいいよ」
あまり踏み込んで来ないのかと思った。私と会ってくれるし、外で待っていてもくれる。手を繋ぐことも、キスをすることも受け入れてくれる。ただ受け入れてくれるだけで、自ら距離を縮めようとはしない。だから今のは、狡い。
私が動揺していることも知らず、彼女は膝を抱えて冷たい息を吐く。
「……寒い」
「自販機で飲み物でも買って来るよ」
「いらない、ここにいて」
何かあったんだろうか。そう思わずにはいられない。でも、それが彼女の願いだというのなら。
私はしゃがみ込む彼女の背に手を回し、抱き締める。シャンプーの匂いだろうか、少し甘い香りがする。それを抵抗することなく受け入れた彼女は私の肩に顔を埋める。
「抱き締められるより、抱き締める方が好きかも」
「じゃあ、抱き締めていいよ」
そう言うと彼女は私の背に手を回し、抱き締め返してくれる。彼女はずっと矛盾を抱えて私と接しているのだろう。私は彼女に選択肢を与えず、自己満足で彼女と接している。私に後悔すると言ったことあったけれど、彼女は後悔しているのだろうか。
***
正月は実家に帰省し、地元の友人と初詣に行ったり、十分に休暇を楽しんだ。呪術高専に戻ったその夜、地元土産を持ち、宿坊へと向かう。いつもの道を変わらず歩いていると、宿坊の門前の階段で膝を抱えて座っている彼女の姿が見えた。帰る日は伝えてあったが、今日も外で待ってくれていたのかと駆け寄ると、彼女は私に気づいて顔を上げた。
「明けましておめでとう」
「おめでとう。早く帰ってきたんだね」
「まぁね。良かったらこれ、お土産。宿坊の皆さんで食べてもらって」
「ありがとう」
隣に座りながら土産を渡すと、彼女はそれを受け取ったが、その手には何かを握っている。よく見るとそれは御守りだ。
「初詣にでも行った?」
「行ってないよ」
「手に持ってるそれは?」
彼女はいつもライトくらいしか持っていない為、それ以外の物を持っているのは珍しいと思っていると、彼女はその手を開き、持っている御守りを見せてくれた。その御守りは単調な和柄の黄色い布で少し歪な形をしていている。上の方に空いた穴に通している紐は赤く細いリボンだった。神社の名前も書いていない、不器用な誰かの手によって作られた物だと気がついた。
「小学生で裁縫を習ったばかりの時、家で余っている布やリボンを使って、御守りを作ったの」
「何というか……渋いね」
「呪霊に怯えていたから、いつもこの御守りに何事もありませんように、と祈ってた。どの神様に祈ればいいのか、分からなかったから。今もこうして、何に祈ればいいのか分からなくなった時は、握ってるの」
寿命に関してはどうしようもないし、覚悟している彼女が祈るとも思えない。だとしたら何だと考えた所で、普段から考えが読めないのだから、私に分かるはずもない。推し測るのではなく、言葉で訊いた方が良いと「何を祈ったの?」と訊ねてみると、彼女は静かに目を瞑り、両手で御守りを握る。
「百年先、二百年先、もっと先でもいい……いつか私の魂が傑くんの魂と一緒にいれたらいいなと思って」
いつか聞いた輪廻転生の話は本気なのだろう。現実味のない話だけれど、呪いのある世界ではそういう考え方は当たり前なのだろうか。それほど信じてはいなかった、今はそうあってほしいと願ってしまう。
「……それは確かに、誰に祈ればいいのか分からないね」
御守りを握る彼女の両手に右手を重ねると、彼女は私の手にそっと指を絡め、繋いでくる。確かな愛を感じる。迷っていた彼女も、今では愛を認めるような言動をする。それが嬉しい反面、別れが近いからこそのものだと考えると、寂しさも感じる。
「……私、呪力のない世界の夢を見るの。死んだらそこに行きたい」
「夢の中の世界か」
「うん。傑くんと出会って、欲が出てしまった。だからこんなことばかり考えてしまう」
「……後悔してる?」
何となく訊くのが怖かった。でも、やはり彼女の言葉から推察するよりも、ちゃんと彼女の言葉で聞きたかった。すると彼女は少しの間沈黙した後、冷たい空気に消え入るような声で話す。
「傑くんに会って、楽しい時を過ごしていくうちに、後悔するかもと思ってたけど、そんなことなかった。傑くんはこの先どう思うか、分からないけど」
不安を抱えながらも私に付き合ってくれ、後悔しないと言ってくれた彼女を大事にしたい反面、どれだけ大事にしても、彼女はいなくなるという虚しさに襲われた。
「私は君と出会ったことに後悔はない。この先もずっと、後悔することはないよ」
「出会ったことへじゃない。私と親しくなったことへ後悔だよ」
「もっといいことしておくべきだった、とか?」
「……もういいや」
あまり暗い雰囲気になるのも良くないと、私が茶化すと、彼女は呆れながらも、私の肩に体重を預け、甘えてくる。それがとても心地良く、肩や手の熱を放したくないと感じる。
「一緒にいたい」
「……私もだよ」
その言葉が、私の胸に重くのし掛かる。やはり死ぬのが怖いのだろうか。それとも、もっと生きたいと思うようになったのか。これは病とは違い、呪いだ。どうしたって助かることはない。死ぬ覚悟をしていたのに、その覚悟が揺らぎ、生きたいと思うようになることは、残酷なことではないだろうか。決して悪いことではないのに、そう思わせてしまったことに罪悪感を覚える。
「いつかまた、会えるといいね」
「魂はきっと、君を憶えているよ」
「だったらいいな」
よく映画では死に別れる恋人達が死後に再び会う約束をする。まさか自分もそんな立場に立たされるとは思わなかったが、切実に願う今日の彼女を見ていると、離れ難くなり、私もどこかで再び巡り会える日が来てほしいと感じる。それでももう少し、私も彼女といたい。
「……君の中では、いつ死ぬか分かってるの?」
「うん、分かってる」
「いつ?」
「うーん……でもちゃんと計算してない。春、四月くらい。丁度、私達が出会った時期くらいじゃないかな」
「そっか……」
あと何日、と考えたくないのかもしれない。無理に聞くのは良くないと、それ以上は訊かなかった。春に出会い、春に別れを告げなければならない。一年というのは、あっという間だ。そう思っていると、彼女は身を縮め、私の腕に擦り寄って来る。
「……冬は好きじゃない。外で話していると、凍える」
「宿坊は悪いし、学舎にでも行ってみる?」
「うん」
「負ぶって行くよ」
そっと離れると、彼女の目の前で屈む。すると彼女は躊躇いなく私の背に覆い被さり、ギュッと抱きついてくる。私はつい口元が緩んでしまうが、彼女はいつもと変わらない無表情なのだろうか。背にいるから、確認しようがないけれど、きっとそうだろう。
学舎の方まで歩いて行くと、彼女は黙ったまま、全身を私に預けていた。私も特に声を掛けることなく歩き続ける。
学舎前で下ろすと、彼女は物珍しそうに辺りを見回す。
「いつも、どこで授業してるの?」
「行ってみる?」
「うん」
彼女の歩幅に合わせて、夜の学校の廊下を歩く。呪術高専に来てからは慣れたが、夜の学校を歩くのは少し不気味だ。それでも彼女と共に歩いていると、少し肝試しデートのようにも感じる。いつも通っている教室へ入ると、「ここが私の席なんだ」と自分の席に着いた。すると彼女は隣の硝子の席に着くと、黒板をぼんやりと見つめた後、俯いた。
「羨ましい」
「高専、通いたかった?」
「そんな未来があったかもしれないけど、考えないようにしてる」
「……そっか」
きっと、他の皆とも関わりたかったのだろう。共に過ごしたかったのだろう。でも、親友を助けたことを後悔していないし、したくもない。それが彼女の心だろう。私が彼女にしてあげられることはしてあげたい。そう考えていると、彼女は何かを思いついたように顔を上げる。
「傑くんの部屋に行ってみたい」
「えっ、私の部屋?」
「行ってみたい。どんな部屋に住んでるのか、気になる」
「普通だけど……気になるならいいよ。行こうか」
確か片付けていたはずだから、呼べるには呼べるけれど、好きな子を部屋に入れるのは少し緊張する。
私は立ち上がり、教室を出ようとすると、彼女もそっと立ち上がり、椅子を机の下に戻してからついて来る。私の部屋を見ても面白くもない。だけれど、彼女が見たいと言うのであれば、それを断る理由もない。そう思いながら、隣を歩く彼女の手をそっと取る。軽く握った手を、彼女は当たり前のように握り返してくれる。その時、ふと悟の顔が思い浮かんだ。鉢合わせないだろうなと少し不安になったが、今朝、メールで実家の愚痴が送られてきていた為、まだ帰って来ないだろう。
部屋に着き、扉を開いては中へ入るよう促す。彼女は「お邪魔します」と言いながら靴を脱いで中へ入る。私も続いて入ると、彼女は部屋を見回しながら「普通だ」と呟いた。
「でも生活感はある」
「生活しているからね。この一年で、それなりに物も増えた」
「いい部屋だね。ここに女の子を連れ込むの?」
心外だ。彼女に私はどう見えているのだろう。ヤリチンと思われているのならショックだけど、自ら部屋に上がり込んだのだから、なりふり構わず女の子を抱くようには思われていないはず。そう信じながらも、言い方が悪いと息を吐く。
「その言い方……皆でゲームしたりはするけど」
「そうなんだ……ベッドとデスクは私と一緒」
「へぇ、学生寮と備え付けの物は一緒なのか」
彼女はデスクの上にあるノートや本を見てから、振り向いてベッドに視線を落とし、そこに座った。普通、男の部屋のベッドに座るか?危機意識がない。そう思いながらも、私は冷静を装い、彼女に訊ねる。
「何か食べる?飲み物はお茶くらいしかないけど」
「いいや」
「そう」
彼女は出されても口をつけないだろうな、と思いながら隣に座ると、彼女はそっと私に寄り添うようにもたれ掛かってくる。
私に欲がないわけじゃない。傍にいたいし、触れていたい。キスもしたいし、セックスしたいとも思う。だから、二人きりの部屋で積極的になられると、誘われているのだと勘違いもする。
彼女の肩を掴み、ベッドに押し付けるように倒すと、覆い被さっては顔を覗き込む。押し倒されているというのに、彼女の表情は変わらない。
「……誘ってる?」
「誘ってはないよ。傑くん、こうやって女の子を抱くの?」
こうやって、とはどういう意味だろう。押し倒して、そのまま流れるように抱くということか?やっぱり、いつもこんなことしていると思われている?
「私を何だと思ってる?浮気なんてしてないよ」
「でも、童貞じゃないでしょ?」
「それは、そうだけど。高専に来てからはシてない」
何が言いたいのか分からない。誘っているけど、照れ隠しでそう言っているだけなのか、本気でそう思っているのか。私はいつだって彼女の考えが分からない。だからこそ好きなのかもしれないけれど、上手くいかないと心が乱される。
「私はシたことないから、その辺はよく分かんない」
「シたいなら、する?」
「傑くんがシたいなら」
その言葉に甘えて、彼女の小さな唇に自身の唇を落とす。少し開いた唇に舌を入れると、小さな体がビクリと跳ねた。彼女の行き場を失った手は私の背へと回されたが、無自覚なのか、計算しているのか、頸を指で撫でてきた。私も彼女の頬や首筋を優しく指で撫でると、彼女は吐息を洩らす。
「は、ぁ……」
彼女の甘い声と体温に理性を失い、欲のまま彼女の腹を撫でては、ジャンパーのチャックを下ろし、シャツの中に手を入れた。その時、彼女の体の薄さに気がついた。肉感の少ない腹、ふと指に触れた浮き出た肋骨。厚着をして隠しているが、窶れているのが分かる。こんな子に、手を出せるはずがない。
唇を離し、彼女の隣に寝転がると、そっと彼女を抱き締める。
「傑くん……?」
「……最後まで、君を大事にする」
「ん、」
このままでいい。十分だ。彼女を知れば知るほど、別れが惜しくなる。これでいいんだ。私はそう自分に言い聞かせ、二人だけの時間を、ただ静かに過ごした。
甘い香りではない、控えめで上品な香りがする彼女の髪を撫でていると、微かに寝息が聞こえた。そっと離れてみると、彼女は私の胸に縋りつくよう眠っていた。今日はこのまま寝かせて、泊まらせてやりたいという気持ちもあるが、宿坊の管理人は心配するだろう。しかし、起こしては可哀想だ。
私はそっと起き上がると、部屋を出て宿坊まで小走りで向かう。宿坊前で管理人の男性が心配そうに辺りを見回しており、私はすぐに駆け寄り、声を掛けると、彼は少し不安そうに眉を顰めた。
「夏油くん、あの子と一緒じゃないんですか?」
「高専の方まで一緒に出掛けまして……寮でそのまま寝てしまったので、寮での宿泊の許可をいただきに来たんです」
「あぁ、良かった……どこかで倒れたんじゃないかと心配になっていたんですが、安心しました。もちろん、良いですよ。出来るだけ一緒にいてあげてください」
「……はい。明日、ここへ送り届けます」
「よろしくお願いします」
私は軽く頭を下げ、寮へと帰る。そっと部屋に入ると、彼女は眠そうにベッドに座っていて、起こしてしまったかと思いながら、ジャンパーをそっと脱がす。
「ここに泊まること、伝えに行って来たんだ。眠っていいよ」
「傑くんも、眠るでしょ?」
「うん。横になって」
私もコートを脱いで、ハンガーに服を掛けていると、彼女はベッドに横になる。私は電気を消すと、隣に寝転がり、彼女を腕に抱きながら目を瞑る。
「……おやすみ」
「お、やす……み、」
もう限界なのだろう。辿々しく言葉を返すと、すぐに眠りに就いた。彼女の体温を感じていると、何だか感傷的になる。残された時間が少ないから?愛しい人が弱っているから?いや、今は余計なことは考えないでおこう。そう、私は今ある時間を大切に思いながら、彼女と共に眠りに就いた。
***
高専にやって来て二度目の春。冷たい冬の風が残りつつも、優しく感じる太陽の光が心地良い。
三月下旬、去年よりも早く桜が満開の時期を迎えた。今日は出会った時と同じように花見をしようと誘われていた為、私は高専側にある桜の木の下へ向かう。体力のない彼女に迎えに行こうかと言ったが、自分で行けると断られてしまった。彼女はお弁当を作ると張り切っていたが、料理は得意なのだろうか。私はまだまだ彼女のことを知らない。そんなことを考えながら、桜の下へ辿り着くと、彼女は既に木の下にレジャーシートを敷き、お弁当を置いて待っていた。
「お待たせ。お弁当、作ってくれたんだね」
「うん、料理は得意じゃないけど。おにぎりは得意」
私は彼女の隣に座ると、彼女は三つあるお弁当箱を広げていく。一つ目は四つのおにぎり、二つ目は沢山の定番のおかず、三つ目はデザートのフルーツだ。
「うん、どれも美味しそうだ。期待してたから、朝から何も食べてないんだ」
「期待されるのは困る」
「ふふ、いただきます」
私はまず、ラップに包んであるおにぎりを取る。塩が効いたおにぎりは私好みだ。中には鮭が入っている。
「うん、美味しい。君は食べないの?」
「あまり食欲ないから、一つだけ」
そう言っておにぎりを一つ取り、ラップを剥いて食べる。一口が小さいのが可愛らしい。
次におかずを見ると、定番の卵焼きからハンバーグ、ポテトサラダなどが揃っていて、私は少し焦げたハンバーグを食べる。半生の玉ねぎがシャキシャキとしていて、よく焼いているからか、水分が抜け、肉も少し硬い。どうやら料理が得意じゃないのは本当らしい。それでも愛情は感じられる。
「美味しい」
「嘘」
「本当。肉肉しいね」
「硬いって言えばいいのに」
自信がなかったのだろう。目を逸らしながら、ちびちびとおにぎりを食べている。そんな気にしなくていいのに。私は次々と食べて行き、美味しいと言うたび、彼女は少し照れくさそうにしていた。
お弁当のほとんどを一人で平らげた時、デザートのオレンジで口をさっぱりさせながら、桜を見上げる。
「君と出会ったのも、この桜の木の下だったね」
「うん……丁度、七日後が私の命日」
唐突な余命宣告に言葉が出なかった。何となく自分の寿命が分かると言っていたが、彼女は日にちをぼやかしていた。でも、あと七日。七日の命だ。私も覚悟していたはずなのに、気持ちが追いつかない。
「傑くん、明日は任務?」
「あぁ……今日はここにいたいけど、この後任務なんだ。これ、食べたら行かなきゃ。多分、明日の夜まで遠征でいない」
「そっか。呪術師は人手不足だもんね、忙しい」
彼女はこの後も私といたいと思ってくれているはず。任務がなければそうしたいが、私情で悟に一人で行かせるわけにもいかないし、代役もない。会う日を大切にしてきたけれど、まだ足りない。七日の命だが、私達の時間は七日もない。
「……命日はどうやって過ごすの?」
「寝て過ごす」
「その日、私にくれないかな」
「……どうして?」
「何の予定もないのなら、最期も一緒に過ごしたい」
「寝る予定がある。やだよ」
意外な返答だった。一緒にいたいと願ってくれる彼女なら、きっと最期も一緒にいてくれると思っていたのに。
「……一人で寂しく死んでいくの?」
「一人じゃないから大丈夫。高専関係者が看取ってくれる」
「でも、」
その瞬間、強い風が私達を襲う。同時に桜の花弁が舞い、彼女はあの時と同じように身を縮め、「わっ」と小さな悲鳴を上げた。
一年なんてあっという間だ。花嵐に攫われそうな君に一目惚れしたあの日のことを、昨日のことのように思い出せる。あと一週間の命、会えるのも数回だと思うと、ギュッと胸を締め付けられた。
頬に張り付いた花弁を拭うように彼女の頬に手を添えると、少し俯いていた彼女は顔を上げ、私を見つめる。あぁ、君に恋してる。
私は彼女の桜色の唇にそっと口付けをする。優しく、大切に、壊れ物に触れるように。
「好きだよ」
つい出た言葉は、一度も口にしたことのなかった言葉。気持ちは伝わっていても、言葉にすることは出来なかった。でも今は、気持ちが溢れて仕方がなかった。
「……知ってる」
「君は言ってくれないの?」
「死に行く人間が言う言葉じゃないから」
私から目を逸らす彼女はきっと、同じことを思ってくれているはずだ。それでもその言葉を口にしないのは、私に後悔してほしくないからだろうか。
「じゃあ、来世に期待したらいい?」
「うん、傑くんがまた私を好きになってくれたらね」
「好きになるよ、絶対に」
髪に絡まる花弁をそっと取ってやると、彼女は空の弁当を片付け始めた。確かにそろそろ行かなければならない。
「そろそろ私は行くよ。ご馳走様」
「うん」
「そうだな……明日の夜か、明後日の夜にまた来るよ。夜桜でも見よう」
「……夜桜か、いいかも」
桜を見上げる彼女を見て、ふと出会った時のことを思い出した。
「桜餅でも買ってくるよ。宿坊で待っていて」
「うん、分かった……それじゃあ傑くん、さよなら」
「またね」
私は立ち上がり、軽く手を振ってから、彼女に背を向けて歩いて行く。ふと名前を呼ばれた気がして振り返ると、彼女は立ち上がって私を見送ってくれていた。再び手を振ると、彼女は笑顔で手を振り返してくれた。
任務へ向かう為、待ち合わせ場所の正門前まで向かうと、既に補助監督と悟がいた。慌てて駆け寄ると、悟は溜息を吐く。
「おい、遅刻」
「ごめんって。名残惜しくなってしまってね」
悟には彼女と会うことを事前に伝えていた為、遅れた理由は知っている。私は車に乗り込みながら、補助監督にも待たせてしまったことを謝った。
任務先まで向かう車の中で、私は彼女のことについて、弱音を吐くように呟く。
「彼女の命日、来週なんだって」
「ふーん……」
「……寂しくなるな」
「傑は平気なの?」
興味なさそうにしているが、聞いてくれる辺り、それなりに心配してくれているんだろう。
「最初から決まっていたことなんだ。来世に期待するよ」
「切り替えれんならいいけど」
私達はその日から翌日の二日間で呪いを見つけ出して祓った。帰りに桜餅を買って帰る話をすると、悟も食べたいと言い始め、一緒に買って帰る。
「これから二人で夜桜を観て来るよ。悟もたまには花見でもしたらいいのに」
「花とか興味ねぇわ」
風情のない男だなと思いながら彼と別れると、私は寮へ荷物を置いてから、二人分の桜餅を持って宿坊へ向かう。宿坊へ迎えに行くと言っても、彼女は宿坊前にいることが多い。それだけ楽しみにしてくれているのか、ただただ暇なのかは分からないが、いつも出迎えてくれるような気がして嬉しかった。
今日は出て来ていないが、夜は冷える為、中にいてくれていた方が良い。私は灯りのついた宿坊へと入り、玄関先で「すみませーん」と声を上げると、そこに彼女と同じ作務衣姿の管理人の男性がやって来る。
「あぁ、夏油術師でしたか」
「今日約束していたんですけど、どこかへ出掛けてますか?」
「そうだったんですね……すっかり、騙されてしまいました」
「え?」
彼は眉尻を下げ、寂しそうに笑う。それに何かあったことを察し、後頭部が冷たくなるような、嫌な感覚がした。すると彼は少し緊張気味に手を前で組み、真っ直ぐ私を見た。
「彼女は今朝、眠るように亡くなられたそうです」
「は……?」
「貴方には最期を伝えて、お別れを言うべきだと伝えたのですが」
今朝?死期が早まったのか。いや、彼の言い方だと、本当は今日が命日だったということなのか?いや、考えても仕方がない。もう、彼女はいないんだ。そう思った時、頭が真っ白になったが、最後に笑顔で手を振っていた彼女の姿が脳裏を過ぎると、胸が苦しくなり、ただ黙って考えているだけじゃ平静を保てないと、私は彼に訊ねる。
「命日は、来週だと聞いていました……遺体は、どうなったんですか?」
「死因は自身の術式によるものですから、高専で解剖検査された後、すぐにご遺族の元へ帰りました。葬儀はご家族のみで執り行うそうですよ」
「そう、ですか……」
「御守りは大事に持っていてあげてください」
その言葉の意味を理解出来ず、視線を落としていた私は再び彼の顔に視線を戻すと、彼は何かを察したように、ふと息を吐く。
「手作りの御守りは貴方へお渡しすると聞いていましたが、それも言っていませんでしたか?」
「……いえ。私はこれで、失礼します……お世話になりました」
私が頭を下げて礼を言うと、彼は深々と頭を下げた。ここにいても仕方がないと、私は宿坊を抜け、高専へと帰る。その足取りは重く、何も考えられなかった。
暫く、静かな夜の高専を歩いていると、寮の壁に背をつき、煙草を吸っている硝子と鉢合わせた。挨拶しようと声を発しようとした時、彼女は先にふーっと長い息を吐き、煙草の煙を吐いた後、口を開く。
「言わなかったのは本人の意思だ。夏油には悪いと思ってたけど、なるべく尊重してあげたかった」
それを言う為、わざわざ外で私を待っていたのだろう。でも、意外だった。彼女は硝子や皆と関わりを持ちたくないと言っていたから、接点なんてないと思っていた。
「知っていたのか」
「看取って、解剖したのは私だからな」
「何か、話した?」
「夏油に伝えなくて良かったのかって訊いたら、好きな人に自分の死ぬ姿を見られたくないって話してたよ」
「そう……」
「あとは、事務的なことだけ。自分の心臓が止まる正確な時間と、その十分前に眠いと言って、そのまま眠った。正確な時間に心停止した。静かな最期だったよ、苦しむこともなくね」
「そうか……」
最初から、硝子が立ち会うことになるかもしれないと思っていたのだろうか。きっと硝子なら平気だと言うが、友人の遺体を切るのは気分が良いものじゃないだろう。だから彼女は、友人になることを拒んだのだろうか。そんなことを思いながら、硝子の目の前を通り過ぎる。
「どこ行くの」
「花見。夜桜を観に行こうと思ってね」
今日は桜餅を食べながら、二人で夜桜を観ようと言っていた。彼女も彼女で、果たされない約束をするだなんて、酷いもんだ。
「約束してたの?」
「あぁ……心配しなくても切り替えられるよ。分かっていたことだから、心の準備は出来ていた」
「……ならいいけど」
おやすみ、と軽く声を掛けてから、私はこの間花見をした桜の木の下へ向かう。物静かで、どこか不気味さを漂わせる高専には慣れた。
桜の木の下へ辿り着くと、ライトで桜を照らし、階段に座る。一人で観ていてもつまらない。そう思いながら、手に持っていた袋から桜餅を取り出す。一つずつ食べようと買った二つの桜餅。パックを開けて一つ取り出すと、桜の葉を剥き、餅に齧り付く。口には餡子の甘味と桜の香りが口いっぱいに広がった時、鼻の奥がツンとし、じわりと目頭が熱くなった。切り替えられる、そう言ったのに、情けない。ぐっと涙を堪え、私はロクに桜を見ることなく、桜餅を二つ平らげると、空になったパックの入った袋とライトを持って寮へと帰る。
寝支度を済ませ、ベッドに入ってもなかなか寝付けず、数時間が経った。冷蔵庫から水を取り出してコップに注ぐと、冷たい水を喉に流し込んだ後、少し外に出た方が良いと、寮部屋を出て、学舎へ向かう。ふと、彼女がここで学生生活を送れることが羨ましがっていたことを思い出し、何となく教室へ向かう。
月明かりだけが学舎内を照らしていて、ぼやりとした月光が差し込む教室へ入ると、自身の席に何かが置いていることに気づいた。何かと思い近づくと、そこには彼女が持っていた手作りの御守りがあった。宿坊の管理人が言っていた物だ。直接渡せないから、私がいない間に置いたのだろう。私は席に着き、その御守りを手にする。
「私も君とこの御守りに祈るよ。いつか、どこかで、ずっと一緒にいれるように」
届くはずもないその言葉を口にしながら、私は彼女との思い出に浸りながら、暫く教室で静かな時を過ごしていた。
***
目を覚ました時、私はここが高専の寮部屋なのか、自身のマンションの寝室なのか、判断がつかなかった。そのくらいリアルな夢だったが、あれは記憶だろう。
私は非術師の醜悪さ、呪いの生まれ方を知り、彼女の死への考え方が変わった。例え親友だったとしても、相手は非術師だ。命を削ってまで助ける価値はあったのだろうか。もっと生きれたはずだ。でも、今はそれで良かったとも思う。長く生きたとしても、私は彼女を幸せに出来たはずもなければ、こんな私を愛してくれるはずもない。
この世界にいる彼女は同じ魂を持っていたとしても別人だ。だけど、もう既に彼女に心を奪われ、別の彼女も知る私は、彼女の隣にいる男を想像すると吐き気がする。私はもう、彼女の知る男ではない。愛されるような人間ではない。今だって軽々しく女を抱くような男だ。幻滅しているに違いない。それでも私は──
彼女を、手に入れたい。
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