#2.花嵐と共に来る君は、
春暖の中にまだ、ひやりと吹く強い風に身を縮める四月。呪術高専にやって来て一週間経った頃に、学校とは思えないほど広い呪術高専内を見て回りたいと感じ、悟と硝子を誘った。しかし二人は、これから四年間もいるのだからと興味なさそうだった。硝子に至っては「秘密の喫煙スペースがあったら教えて」なんて不良じみたことを言う為、仕方なく一人で学内を探索することした。小学校や中学校ではどこにでも呪霊がいたものだが、高専内は結界術で守られているようで、呪いは入って来ないらしい。そう思うと、呪いを学ぶ場でありながら、呪いのないとても心地良い空間に思える。
学舎から離れて行くと、緩やかな勾配の道が増えていき、目立ってくるのは蔵や塔のような日本独特の趣のある建造物ばかり。もっと山の奥に進んだ所には、階段の途中途中に小さな鳥居や祠が並んでいる道が見え、あの場所には一体何があるのだろうと気になった。
暗い色をした木造建築物の中に目立つ淡い桃色に誘われ、私は歴史を感じさせる大きな桜の木の下へとやって来た。遠くからでも目立っていたそれは、高専に初めて来た日にも見た。入学に合わせて満開だった桜も散ろうとしていて、花や枝がサラサラと音を立てながら揺れる度、はらはらと淡い桃色の花弁が風に乗せられ、流れるように落ちていく。それをぼんやりと眺めていると、新生活で少しばかり緊張していた心が解きほぐされていく気がした。暫くそうしていると、山から突風が流れ込んでき、周囲の木々の葉や桜の花が風に攫われるように舞った。花嵐だ。
「わっ」
激しい風の音にかき消されそうなほど小さな悲鳴が確かに私の耳に届いた。その声がした方を見ると、桜の木の側にある階段に作務衣姿の女性が風に煽られ、身を縮めながら座っていた。丁度、私の立つ位置から見えない場所にいた為、今まで気がつかなかった。私が見ていることに気づいたのか、彼女はふと顔を上げ、私を見た。今にも花嵐に攫われそうなほど幸薄い雰囲気のある彼女に心臓がドキリと跳ねる。
一目惚れだった。
風が止むまで、ぼんやりと彼女を見つめていると、彼女はふと目を細めて優しく笑った。
「一人?」
「あ、はい」
「一年生だよね」
「そうです、貴女は?」
「そんなに堅苦しく話さなくていいよ、私も十五歳、同い年だよ」
意外だ。何故、作務衣でこんな所にいるんだろうかと思っていると、彼女はそれを察しては、膝の上に落ちた花弁を払いながら話す。
「私、生徒じゃないんだ。呪術高専で雑用してる」
「そうなんだ……」
よく見ると、木に箒が立て掛けられており、膝には巾着袋があった。掃除の途中で休憩でもしていたのかと思いながら、彼女と話してみたいと思い、隣に座る。まずは自己紹介からだと名乗ると、彼女も名乗ってくれた。
「掃除をしていたんだけど、ここの桜が綺麗で、時間もいい所だし、お花見しようかなって」
そう言って彼女は膝にある巾着袋からラップに包まれたおにぎりを一つ取った。
「何も入っていない塩むすびだけど……いる?」
「ありがとう……そういえば、お昼は何も食べてなかったな」
ありがたく受け取ると、彼女はもう一つ取り出して、ラップを剥いては桜を眺めながら食べ始める。
「桜って、あまり匂いがしないよね」
「確かに……言われてみればそうだね」
「桜餅の香りがしたら、デザートになりそうだったのに」
「どういう意味?」
「食べた後に桜の匂いを嗅いでいたら、食べた気になれるかなって」
「……なるほど」
思ったより変な子だ。焼肉の匂いをおかずにご飯を食べる。みたいなことを言う人はいるけど、それの桜餅バージョンか。何となくそう考えながら、塩の効いたおにぎりを完食すると、ご馳走様でしたと、軽く手を合わせる。
「いつからここに?」
「夏油くん達の入学と同じ時に」
「知らなかったな、他にもそんな人がいるの?」
「いや、私だけだと思うよ。普通は入学して、呪術師や補助監督を目指す。私はちょっと、訳ありだから」
そう言って彼女は立ち上がると、そっと私の髪を撫でる。少し冷たい彼女の手に触れられ、ドキリと心臓が跳ねた。すると、はらりと一枚の花弁が手の甲に落ちたかと思うと、彼女の手にはもう一枚の花弁があった。私の髪に落ちた花を払ってくれたのだろう。
「さっきの風で、沢山散ったね」
「そうだね……残念だけど、綺麗だった」
私も立ち上がり、彼女の髪に絡まった花弁を落とすように撫でると、まだ付いていたか、と彼女は手櫛で髪を整えた。
「私、そろそろ仕事しなきゃ」
「雑用って何してるの?」
「主に掃除。呪具の手入れもしてる」
「大変そうだね。邪魔しちゃ悪い、帰るよ」
「うん、さよなら」
私は今日はいい出会いもあったし、そろそろ戻ろうと学舎へと帰る。すると悟がふらふらと体育館付近を歩いており、何をしてるんだと思いながら声を掛けると、悟は私の声に気づいて振り返る。
「オマエ、どこまで行ってたの?」
「桜の木がある所まで」
「あんな所まで行ってたのかよ」
「悟は何してるんだ。てっきり寮で休んでるのかと思ってたよ」
「暇なんだよ。オマエ、ゲームとか持ってないの?」
「持ってるよ。一緒にスマブラでもやる?」
「んじゃ、行こうぜ」
初対面の時は腹の立つクソガキって感じだったが、悟は私の実力をそれなりに認めた所為か、最近は落ち着いている。素直にゲームに誘ってくるくらいだ、仲良くは出来そうだ。
寮の自室まで歩いて行きながら、私は桜の木の下で会った彼女について話そうと話題を振る。
「この高専に、もう一人同年代の子がいるの、知ってる?」
「あー……あの可哀想な奴でしょ。寿命縮めた」
「寿命を縮めた?」
「あの女の術式は……簡単に言うと、HPをMPに変換する術式なんだよ。寿命と呪力ね。それを知らずか、膨大な呪力を一級呪霊にぶつけ、山の一部と呪霊を消滅させたんだよ」
唖然とした。そんな術式を持っている子だったなんて。しかし、寿命を縮めてしまったということは、彼女は短命なのだろう。
「でも、寿命って曖昧じゃないか?何年生きるか分からないだろ」
「その辺は、本人にしか分からない。山の一部を削るくらいの呪力を一気に放出したわけだし、結構HP削ったんじゃね?」
実際他人事なのだろうが、他人事で自分には関係ないという軽々しい態度で話す悟に、胸がモヤモヤとしていた。身の丈に合わない一級呪霊を祓う為に、何故命を費やしたのか。逃げることは出来なかったのか。そんな疑問を抱きながら、悟と共にスマブラをして遊んだが、気持ちが入らず、ぼんやりとして過ごしていた。
桜が葉桜となった頃、私は彼女と会った場所へと向かう。連絡先を知らない為、聞いておく必要がある。どうしても会いたいと辺りを見回すが、誰もいない。辺りは掃除はされているし、頻繁にここへ来る必要はないのか、と周辺を歩いていると、蔵の一つが空いていることに気がついた。近づいて行くと、サッサっと箒が床を擦る音がし、そこを覗いてみると彼女はいた。
「夏油くん……こんにちは」
「やぁ、こんな所にいたのか」
「皆が掃除をしない所を掃除してるから。それで、何かあったの?」
「君と話がしたくて」
「……私には、話すことはないけど」
迷惑だっただろうか。そう思っていると、彼女は一点に集めた埃を塵取りで回収すると、蔵から出て来る。私をスルーして、ゴミ袋の中にゴミを纏めると、蔵の扉を閉める。毎日、こんな日々を送っているのか。
「寂しくはない?」
「もう少しの辛抱だから」
「もう少しの辛抱……」
「聞いたんでしょ?私の術式の話」
「あぁ……どのくらい寿命を縮めたんだ?」
ズカズカと聞いてくる私に呆れているのだろう。彼女はふと息を吐くと、真っ直ぐと私の目を見る。
「一年」
「……何だ、そっか」
「あと、一年しか生きられない」
良くはないけれど、一年だけなら大したことはないと感じていた。しかし、生きられる時間が一年だと言う彼女の言葉を受け入れるのに時間が掛かった。余命一年、彼女の中ではそのカウントダウンは始まっているのか。唖然としている私のことは置いて、彼女は言葉を続ける。
「だから、人と関わることは避けてるの。この世に未練を残さないように」
「……そうなんだ。でも、最後は自由に生きた方がいいんじゃないか?こんな所で雑用をするより、楽しいことをして過ごした方が、」
「確かにそうかも。美味しい物でも食べるよ」
後悔はないんだろうか。一人寂しく、こんな所で過ごすより、誰かといた方がいいんじゃないだろうか。いや、誰かとじゃない。私が彼女といたい。何かしてあげたい。きっとこれは自己満足なのだろう、それでも──
「よかったら、連絡先教えて」
「携帯、持ってないの」
遠回しで断られている。そう思っていると、それを察して「違うよ」と言いながら、ゴミ袋や箒などを纏め始める。
「人間関係を断つ為に解約したの。もう私には必要ない物だから」
「そう……ご両親は納得してるの?」
「うん、土地を抉ったからね、説得力があったんじゃないかな」
彼女はゆっくりと歩き始め、私はそれについて行く。すると彼女は柳の下、日陰になっている階段に座る。私も同様に隣へ座ると、まだ訊いてもいいのかと悩んだが、どうしても気になって訊ねる。
「どうして術式を使ったんだい?」
「合宿中、肝試しの為に入った山で、親友が行方不明になって……一級呪霊に襲われている所を助けた。何となく呪術を理解していたから、それを使っただけ。無我夢中だったけど、死人が出なくて良かった」
「随分と命を費やしたんだね」
「助けられるなら、死んでもいいと思った」
「その助けた親友とも距離を置いたのか」
「うん。私が助けたとは思ってない。もう会えないのは寂しいけれど、知れば悲しむと思うから。ここへ来て、連絡を断ったの」
それくらい大切な存在なのだろう。後悔していなさそうな彼女は、これから後悔や未練を作らない為にここにいるのだろうが、寂しすぎる最期だ。
「次の休み、どこかへ出掛けないか?」
「夏油くん……話、聞いてた?」
「聞いていたよ。でも、余計に君に会いに来たいと思った」
「何で?」
「君は孤独に死んでいい人間じゃない。満たされてほしい」
「夏油くんが満たしてくれるの?」
そう言って私の顔を覗き込んでくるその瞳にドキリとした。私はとんでもないことを言ったと気づき、いや、とつい出たが、ここまで彼女の身の上話を聞いておいて、何もしないわけにはいかないし、私も気になって仕方がない。
「大丈夫。私と出会って良かったと思わせるよ」
「すごい自信」
「これでも結構モテたんだ」
「言われなくても、モテるだろうとは思った」
あまり褒められている気がしないのは、彼女が私に興味がないからだろうか。この際、恋人というより、友人であった方が、お互い気持ちが楽かもしれない。すると彼女は視線を地面へ落とす。
「さっきのお誘い、気持ちはありがたいけど、やめておく」
「そっか……でも、気が向いたら言って」
私はそろそろ戻らなければと立ち上がると、彼女はそのまま私を見上げる。そういえば、どこで寝泊まりしているんだろう。寮で見かけたことはない。
「君、普段はどこにいるの?」
「学舎から離れた宿坊に。学生寮にはいないよ」
「そうか。何かあったらそこへ行くよ」
「またね」
彼女は死に方にこだわりがあったように思えたが、頑固に拒否するわけでもなく、それなりの距離感でいてくれる。
別れた後、学舎の方へ帰りながら、フラられてしまったなと少しショックを受けた。
それから暫くして。じんわりと汗ばむようになった夏至。涼しく過ごしやすい夜にあわよくば彼女に会えたら、と散歩がてら学舎から抜け、宿坊の方まで歩いて行く。すると、宿坊からライトを持った誰かが出て行く姿が見え、もしかして、と早足でその人影を追う。細っそりとした女性の後ろ姿は間違いないと名を呼ぶと、彼女はハッとしたように振り返った。
「夏油くん、どうしてここに?」
「散歩をしていたら、君を見かけたから」
「わざわざこんな所に?」
「……もしかしたら、君に会えるかもしれないと思って」
私の言葉に彼女は視線を落とす。迷惑だったかとその言葉を発する前に、彼女は向かおうとしていた先にライトを向ける。
「星を観に行こうと思って」
「え、星?」
「東京でも、高専からは結構見えるの。夏油くんも一緒に行く?」
「是非。星を気にしたことなかったな」
空を見上げると、確かに木々の隙間からでも星が見えている。もっと明かりのない開けた場所があるのだろうかと思いながら、彼女の隣を歩く。
「毎日行ってるの?」
「今日が三度目、雲一つない夜に行こうと思って。数少ない娯楽」
「それなら、これからは私も誘ってよ」
「……夏油くんの距離の縮め方、ちょっと怖いな」
「嫌だった?」
「嫌なのに、嫌じゃない。苦手なのに、求めてる。怖いのに、見てみたい。そんな感じ」
「どちらかと言うと、嫌じゃないんだ」
「矛盾」
きっと彼女は寂しがり屋なんだろう。人と関わろうとしない理由は、未練を残さない為だと言っていたが、それも人が好きだから。だったらやっぱり、人と関わるべきだ。そう思ってしまうのは、やはり私のエゴなのか。
「……また今度、寮へ来ないか?皆でスマブラ勝負しようって言っていたんだけど」
「私はいい」
やっぱり難しいか。そんなことを話していると、長い階段が現れ、そこを上がっていく。しかし、彼女はふと息を吐き、途中で立ち止まる。
「上まで行かなくても、十分見えるよ」
「座れるしね」
私達は階段に座ると、彼女はライトを消す。辺りは月明かりしかない暗闇に包まれ、辺りの景色が見えるほどに目が慣れてくると、ふと空を見上げた。写真や地方の夜空でよく見る満天の星空というわけではない。疎だが、それでも普段、都会にいては見ることの出来ない星空だ。
「私ね、命は廻ると思ってるんだ」
「輪廻転生?」
「そう。私はずっと前から私だったかもしれないし、これからも私は死んではどこかで生まれるんだなと思う」
「……そう思えば、死ぬのも怖くないって?」
「元々、怖いと感じたことはないんだけど、私の考え方は伝えておこうと思って」
優しいな。きっと、彼女は残された人間のことを考えられる人だ。私はただ自己満足の為にここにいるけれど、彼女はこうして私に気遣うだけで、一緒にいて楽しいと感じてくれないのだろうか。
「夏油くん、私に同情して一緒にいなくていいんだよ」
「同情、とは違うんだ……その、君に一目惚れしたから」
「……同情する」
告白のつもりだったが、哀れむような目で見られてしまった。素直な彼女の言葉は、他人に言われるようなことがあっても、本人に言われることじゃないよな、と思わず苦笑する。
「仕方ない。君に惹かれたんだ」
「一年で死んでしまうのに?」
「だからこそ、一緒にいたいと思えるよ」
「そういうもの?」
「少なくとも私はね。だから、私の短い恋に付き合ってくれないか?」
「……いいけど、他の人には会わない」
「それでも良いよ。寧ろ、独り占め出来ていいね」
素直に好意を伝えた方が良かったのだろう。彼女は少し照れくさそうに私から目を逸らし、夜空を見上げた。
私達は暫くそうして過ごしていると、彼女は唐突に、パチっとライトの電源を入れる。急な強い光に、眩しいと少し目を逸らした時、彼女は立ち上がった。
「帰ろう」
「そうだね……次はいつ会える?」
「さぁ……」
彼女はゆっくりと階段を下りていき、私も後に続く。少しでも私のことを好いてくれたら嬉しい。彼女の空いている手をそっと取ると、それを拒むことなく受け入れてくれた。あれ、満更でもないのかも。
「ねぇ、待ち合わせして、君の好きな所へ行こう」
「私は、高専の中で十分」
「私がデートしたいんだ」
階段を下りきり、石畳を歩いて行く。ゆっくり、のんびりと、マイペースに歩く彼女に合わせていると、彼女は真っ直ぐ前を見ながら話す。
「夏油くんに迷惑を掛けるから。私、疲れやすくて」
「体調まで悪くなるの?」
「体力が落ちて、息切れする」
「そうか……じゃあ、高専内で楽しむしかないね」
だから、よく階段に座っているのか。さっきも階段を上り切らなかったのは、しんどかったから。今まで気を遣わせたくなくて黙っていたのだろう。高専内で、二人で楽しめることはあるか考えている内に宿坊前まで着いてしまう。
「ライトいらない?」
「あぁ、大丈夫だよ。ありがとう」
彼女はそっと手を放すと、繋いでいた手から熱が引いていく。それを寂しいと感じている私と違い、彼女はあっさりと離れていく。
「またね」
「うん、またね」
宿坊の門を潜り、振り返らず去って行く彼女の背を見送る。名残惜しいと感じているのは私だけか、とその小さな背中を見ていると、彼女は宿坊へ入る前に振り返った。暗闇の中、私を見つけてくれたのか、軽く手を振ってくれる。振り返すと、彼女は中へ入って行き、姿が見えなくなった。
今日は彼女と有意義な時間を過ごせたと気分良く寮へと帰った。
***
悟との任務が終わり、補助監督の車で高専へと帰って来た。正門前で停まると、車窓から自転車を押している彼女の姿が見え、私は慌てて車を降りると、来た道を戻り、彼女の名を呼んだ。すると彼女は私の声に反応して振り返り、立ち止まってくれたことにホッと安堵する。
「どこへ行くの?」
「買い物。少し、出てみようかなと思って」
「そう、私も行っていい?」
「今帰って来たのに?」
「出掛けたい気分なんだ」
そんな話をしていると、悟は車から降りて来て、彼女を食い入るように見る。私から話を聞いていたから、気になっていたのかもしれない。
「へぇ、相当弱ってんね」
「ごめんね、失礼なことを。彼が五条 悟」
「知ってる。会ったことあるし」
「そうなの?初耳だ」
「入学の時に見に行った。噂には聞いてたし」
「それじゃあ私、行くから」
そう言って自転車に跨がろうとした彼女を止めると、サドルの位置を高くして、代わり自転車に跨がる。
「後ろ乗って。付き合うから」
「オマエ、強引すぎねぇ?」
「いつもこうだよ」
彼女は諦めたように自転車の荷台に跨がると、私は悟に「報告書は任せた」と言って、ペダルに足を掛け、風を切って坂道を下っていく。まるでジェットコースターのように下っていく自転車に、彼女は振り落とされないよう、私の腹に腕を回してしがみつく。それが嬉しくて、つい口元が緩んでしまうが、背後にいる彼女は、こんな情けない顔をしていることに気がついていないだろう。
初デートに相応しい晴天、肌を刺すような日差しはあるが、曇天よりマシだ。
「どこへ行くつもりだったの?」
「部屋の電球が切れてしまって」
「事務室に行ったら、くれたんじゃない?」
「自分で行きたかったの」
「どうして?」
「気分転換」
体力をつけたかったのだろうか。そう思いながら麓まで下りて来ると、とりあえず店のある最寄駅まで向かおうと漕いでいくが、彼女は特に指示するわけでもなく、黙って座っていた。
「お昼、食べた?」
「食べてない」
「じゃあ一緒に食べよう。何かリクエストある?」
「夏油くんが食べたい物でいいよ」
「私はいつでも食べれるから。君は外食しないだろう?食べたい物を食べないと」
彼女は何を食べるか考えているのか、再び口を閉じた。すると、彼女は私の腹に回している手を緩めながら、「そうだな……」と呟く。
「焼肉がいいかも」
「へぇ、意外だな」
「そう?いつも精進料理ばかりだから」
「じゃあ、いい所探して行こう」
私が想像していたのは、スイーツやパスタなど、女性が好きそうな物。しかし、彼女はガッツリとした食事が好みなのだろう。
商店街付近に辿り着くと、電気屋の入っているビルの近くに自転車を停める。
「電球だけでいいの?」
「うん、他は特に必要ないから」
私達は電気屋に入ると、彼女は照明コーナーへと向かい、私はその後を追う。真っ直ぐ、他の物に見向きもせずに電球を取る彼女は、ウインドウショッピングはしないのだろうか。よく元カノの長い買い物に付き合っていたからか、珍しく思えてしまう。
「これだ。買いに行って来る」
「他に見る物はないの?」
「ない」
「そう……」
早く帰りたいのか、しんどいのか。あまり態度に出さないから分からないな、と私は彼女が真っ直ぐにレジへ向かったのを見ながら、近くに焼肉屋はないだろうかと検索してみる。良し悪しは分からないが、とりあえず外観が良さげな店の位置を覚えていると、彼女が戻って来る。
「お待たせ」
「うん。近くに良さげな焼肉屋があるから、行ってみようよ」
「わざわざ調べてくれたの?ありがとう」
「どういたしまして、行こうか」
私達は焼肉屋まで自転車で向かう。それまで彼女は軽く服を掴んでいればいいのに、腹に手を回し、時折、背に顔を埋めてくれていることに気づくと、鼓動が速くなるのが自分でも分かった。
焼肉屋に辿り着くと、ランチ時だからか、夜より客はおらず、静かで良い雰囲気だ。広々とした席で二人、網のあるテーブルを挟み、向かい合って座る。
「ハラミ、牛タンが食べたいかな」
「私はカルビかな。牛タンもいいね。ビビンバも食べちゃおう」
「沢山食べるな」
「育ち盛りだからね」
それぞれ注文をし、先に届いたジュースで乾杯する。ちょびっとだけコーラに口をつけてテーブルに置いた彼女が可愛らしい。
注文した肉が届き始め、私はトングを使って、目の前の網に肉を並べていく。「私がやろうか?」と気を遣ってくれるが、今日は何でもしてあげたい。
いつも高専でするような、何気ない話をしながら彼女と焼肉を食べるのは新鮮だ。しかし彼女はハラミと牛タンを一人前食べたか食べてないか態度で箸が止まる。女子にしたって、二皿で終わってしまうのは少食すぎる。体調が良くないのだろうか。
「お腹いっぱい……精進料理で胃が小さくなった」
「食べたことないな、どんなの?」
「薄味の和食。お肉は時々出してくれる」
「うーん……それは、味が濃い物を食べたくなるね」
あまり外に出ることはない彼女は出された物しか食べていないのだろう。出会った時はおにぎりを作って持って来ていたけれど、おやつは私が時々持って行くお土産程度かもしれない。だったらもっと甘いスイーツ系のお土産を増やしてもいい。
「ハンバーガーもいいな……ラーメンも」
「カップ麺でも買って行く?」
「それはいいかも。背徳感」
私は夜食によく食べるけれど、彼女は買い物に行けない為、持ち込めないのだろう。だったらそういう差し入れもいいかもしれない。こんなに誰かに尽くしたいと思うことは、今までなかったかもしれない。彼女といると、自分の知らない自分を引き出される感覚になる。好きな子の前でカッコつけたい本命童貞ってやつなのかとも考えたが、今までに付き合った子達が本命じゃなかったら、何だったんだという気持ちにもなる。そう悩みながらビビンバを食べる私に「ゆっくり食べてね」と言う彼女が、私には不思議に見えて仕方がない。
残ったビビンバを完食すると、さてとと伝票を見る。呪術師として給料を貰ってるとはいえ、学生が焼肉で豪遊は出来ないな、と感じるくらい高く感じた。
「いくら?」
「知らなくていいよ。私が払うからね」
「いいの?私も給料は貰ってるんだよ」
「私が誘ったんだから、いいんだ。それより、しんどくなければ、この後どこかへ行かない?」
「いいよ。カップ麺も買わなきゃだし」
もうカップ麺のことを考えている。甘い物より、塩っぱい方がいいのだろうか。そんなことを考えながら会計をすると、彼女は隣で「ご馳走様でした」と礼を言って、素直に奢られてくれた。
店を出ると、私は電車にも乗らず、手軽に行ける場所はないだろうかと考え、ふと思い浮かんだのは、駅前にあるカラオケ店だった。
「遠出は出来ないから、カラオケでも行く?」
「いいよ。夏油くん、私にラブソングでも歌ってくれるの?」
照れることなく、彼女は真面目な顔をしてそんなことを言う。表情があまり豊かではない彼女だが、ちゃんと自分が好かれているという自覚があるんだな、と言葉で伝わる。
「歌ってほしいなら、歌うけど?」
「じゃあ、夏油くんの美声を聴かせてよ」
揶揄うように笑みを見せた彼女にドキリと心臓が高鳴る。いつも淡白で浮世離れしている彼女が、今日は普通の女の子のように思える。気を許してくれたのか、気分が良いのか。どちらにせよ嬉しいことに変わりはない。
私達は再び自転車に乗り、以前見かけたカラオケ店へ向かった。私の下心を知ってか知らずか、背中に密着してくれる彼女に、気持ちを切り替えたい一心で話題を振る。
「普段、どんな曲を聴くの?」
「有名な曲しか知らないかも。ドラマの主題歌とか……でも、勧められて知らない曲を聴くのも好き」
「そっか。でも聴いてるばかりじゃなく、今日は君も歌うんだよ?」
「声量がなくて、つまらなくていいなら歌う」
確かに曲に負けてかき消えそうなほど、か細く、消え入りそうな声だ。それでも私は彼女の声が好きだ。雑踏の中、繁華街の環境音などは似合わない。どちらかといえば、やはり高専などの静謐で穏やかな空間での会話が似合う。静かな雨の中、部屋でコーヒーを飲みながら話すと、穏やかな気持ちになれそうだ。そう思うと、カラオケのような場所は彼女には似合わない。けれど、せめて歌いやすいように、楽しいと思ってもらえるように音量調整をしてあげなければならない。そんな気持ちで持ち歌について話しながらカラオケ店へ向かい、辿り着くと、自転車を駐輪場に停めて、中へと入る。
カウンターで受付をすると、ドリンクバーで使うプラスチックのカップを手に、部屋へと向かう。道中、ドリンクバーを見つけた為、部屋に入る前に寄って行こうと、私がペプシを入れていると、彼女はジッと私の顔を見る。
「何?」
「せっかちだ」
「えっ、何の話?」
「荷物を置いてから行けばいいのに」
「と、途中にあるんだから、いいじゃないか」
こんな所を見て、突っ込まれるとは思わなかった。いつも考えが読めない為、こちらが推し測るしかなかったが、余計な所を見て、考えているんだなと行動に気をつけようと身を引き締めた。そんなことを考えながらも、部屋から漏れてくる歌声を何となく聞きながら、伝票に書いてある数字の部屋へと入る。
二人だからか、用意された部屋は思ったより狭めの個室だ。遊び慣れた年上の元カノが「カラオケセックスしてみない?」と言ってきたことがある。その度に誰かがこの個室でシたことがあるのだろうか、不潔だと感じるようになった。以前までは密室で二人きりというだけで、身を寄せ合ったり、キスしたり、触り合ったりしたものだが、今はそんな不純な行為よりも、彼女が楽しんでくれる選曲は何だと考えるのに必死だった。
今流行りの人気アーティストがモニターで新曲を紹介し、それを見た彼女は「カラオケって感じする」と音に負けるような声で呟きながら、扉近くのソファにちょこんと座る。私は頭の中で丁度良い曲はないか探りつつ、奥の方へ座ると、デンモクやマイクを取り、テーブルに置いた。
「まず私から歌った方がいい?」
「私、そんな歌えないから、歌いたいのがあれば、歌っていいよ」
「じゃあ、君へのラブソングを」
私は街やテレビのどこかで聞いたことがあるだろうと、アップテンポなラブソングをタッチパネルで操作して入れる。タイトルを見ただけではピンときていなかった彼女だったが、サビを歌うと、この歌か!と分かったように、リズムに合わせて手を叩きながら、少し照れくさそうに笑っていた。良い反応が見れた、と最後まで歌い切ると、全身に響くような音が引いていった。好きな子の前でラブソングを歌うなんてクサいと思っていたけれど、ここまで反応がいいと、つい浮かれてしまう。
「どうだった?」
「こういうの、慣れてる?」
まだ耳が音に慣れていないからか、彼女の声がより遠くに聞こえ、少し体を彼女の方へ傾けた時、彼女は肩が触れ合うような位置まで近づいて来た。この距離感は今までにもあったはずなのに、女慣れしていない童貞のように動揺してしまう。それでも彼女から近づいてくれたことが嬉しいと思いながらも、つい息を止めてしまう程に驚いている私を気にせず、顔を覗き込んできた。
「こういうの、慣れてるの?」
返事がなかった為、もう一度訊ねてきた彼女は、好きな子に向かってラブソングを歌うことに慣れているのか≠ニ聞きたいのだろうが、この距離感、上目遣いで訊ねられると、今は不純な意味に聞こえてしまうが、私はグッと堪えた。
「初めてだよ」
「嘘」
「意図せず歌うことはあっても、宣言して歌うことはないよ」
「夏油くんって、クサいことばかりしてそう」
「嫌なイメージだな……リクエストに応えたっていうのに、酷いな」
女遊びをしているというイメージがついているのだろう。今までの自分の行動でそう思わせているのだとしたら、どこが良くなかったのだろうと考えていると、彼女は「ごめん、そんな考えさせるつもりじゃなかった」と謝りながら、デンモクを取ると、曲を入れようと、タッチパネルで操作し始めた。
「折角だから、君もラブソングにしてよ」
「うーん……」
彼女は何がいいか、とランキングなどを見ていて、選んだのは初恋を歌った曲だった。自分のマイクを取ると、声を出す為か、心の準備がいるのか、深呼吸をした。そして曲に合わせて歌い始めるが、彼女の透明感のある声は曲にかき消され、スピーカーからは全く聞こえない。私がデンモクで音量を下げると、やっと聞こえるようになり、ホッと一安心する。声量はないが、音程は合っている。その切ない初恋を歌うバラードは彼女の声にも合っているが、こうなっては曲が邪魔なようにも思える。最後まで歌い切ると、彼女は満足気に頷く。
「うん、久々に歌った」
「君、綺麗な声してるよね」
「言われたことない」
「曲が邪魔だと思えるくらい」
「アカペラで映えるかな」
「子守唄とかいいんじゃないかな」
「それ、声量の話でしょ」
そんな話をしながら、私は次の曲を入れる。誰でも知っている、ヒットしたアイドルのラブソングだ。今度はわざとらしく彼女を見つめながら歌っていると、彼女は無邪気に、楽しそうに笑っていて、私の心は彼女への恋心で満たされていた。
歌い終えると、彼女は笑い疲れたというように、胸を押さえながら、ふと息を吐く。
「冷静になると、付き合いたてのカップルみたい」
「みたいなものじゃない?私達」
「いつカップルになったんだろ」
そう思うことだけで、一歩前進したと言ってもいいだろう。遠回しに振られているようにも思えたが、どうでも良くなるくらい、今は彼女に夢中になっていた。
私達は好きな曲を好きなタイミングで歌いながら、他愛のない話をする。しかし、暫くすると彼女は疲れたのか、メロンソーダを飲み干した後、ふと息を吐く。
「疲れちゃった?」
「普段、あまり声を出さないから」
「そろそろ時間だし、それまで歌わず、ゆっくりしていようか」
「うん。お茶入れて来る」
彼女が部屋を出て行くと、全身の力が抜け、深く息を吐く。冷静になると、カッコつけた選曲、甘ったるいラブソングばかりだったとむず痒くなる。彼女が歌ってくれたラブソングは私への気持ちだと捉えていいのだろうか。
帰って来た彼女とカラオケの映像を見たり、最近流行っている曲などについて話をした。穏やかな時間の終わりを告げるように、部屋に終了十分前のコール音が響く。彼女は受話器を取って対応すると、私はテーブルの上の物を纏めてから立ち上がる。彼女は先に出ると、私は伝票を持って後に続く。受付カウンターの近くへやって来ると、財布を取り出そうとする彼女の手元を軽く押さえる。
「今日は付き合ってもらったようなものだし、全部奢らせて」
「焼肉も奢ってくれたのに」
「カッコつけさせてよ」
彼女が大人しく財布を仕舞ったのを見て、カウンターで会計を済ませると、一緒にカラオケ店を出る。
「ありがとう、楽しかった」
「良かった。カップ麺、買いに行くんだよね」
「うん、それは自分で払うよ?」
「ふふ、そうして」
そんなことを気にする人だったのかと思いながら、自転車を押して、近くのスーパーまで歩いて行く。再び駐輪場に自転車を停めると、同時にスーパーへと入る。
彼女はカップ麺売り場へと歩いて行く中、私はふとレジ横に置かれた手持ち花火を見て、今年の夏は花火を観ることも、手持ち花火で遊ぶことすらしていないことに気づいた。夏を締め括るには良いかもしれないと、袋に纏まって入っている花火を取ると、彼女の後を追った。もう既にいくつかカップ麺を抱えている彼女は、私の手にある手持ち花火セットを見ると、首を傾げる。
「花火、するの?」
「うん、高専でしない?」
「やってもいいのかな」
「ちゃんと許可は貰うよ」
私達は会計をしてスーパーを出ると、自転車のカゴに買った物を入れた。私は自分の腰の高さに合わせたサドルに腰掛けると、彼女が荷台に座り、私の腹に腕を回したのを確認すると、ペダルを踏み始める。夏の終わり、暑さが残るこんな時期でも、背中に感じる熱が愛おしかった。しかし、高専までの急勾配は彼女が荷台に乗っていなくても厳しく、私は途中でギブアップして、地に足をつける。
「降りるね」
「いや、君は座ってていいよ」
私は自転車を降りると、彼女を荷台に座らせたまま自転車を押していく。漕ぐよりかは随分と楽になる。
「重そう」
「多少はね。筋トレになるよ」
まだ夜まで時間がある。このまま二人で過ごしたいが、彼女は疲れているだろう。
「夜九時に、宿坊と学舎の間にある鳥居の前で待ち合わせしない?私もシャワー浴びたいし」
「うん、分かった」
カラオケが楽しかったのか、彼女は荷台に横座りしながら鼻歌を歌っている。それを聴きながら高専まで向かい、敷地内の駐輪場に停めると、自転車の鍵を取る。
「私が事務室に返しておくよ」
「ありがとう」
「それじゃあ、また後で」
私は花火を持って事務室へ向かう。鍵を返しつつ、花火をしてもいいかと訊ねると、引火しない場所、石畳や土を焼かないようにすることを条件に許可を貰い、自室へ帰る。夜が待ち遠しい。
シャワーを浴び、夕食後に手持ち花火や水に入ったバケツ、ライターを持ち、待ち合わせ場所へ向かう。早めに来たつもりだったが、彼女は既にそこにおり、ぼんやりと星を眺めていた。
「お待たせ」
「暇だから早めに来たの」
「そっか、私も早めに来れば良かったな……」
そうしたら、もっと長く一緒に過ごせたのに。そう思っているのは私だけなのか、彼女はキョロキョロと辺りを見回す。
「花火、ここでするの?」
「許可は貰えたよ。ここでしてもいいし、好きな所があれば、そこへ行こう。石や土を焼かないようにはしないとね」
「じゃあ、いつもの階段の所で。もし焼いたとしても、階段なら分からないよ」
悪い考えをしてる。そんな狡いことも考えるんだと思っていると、彼女は見せてと私の手から花火を取り、それを眺めながら、いつもの場所まで歩いて行く。その後ろ姿を見ていると、私はつい自惚れてしまう。自分の気持ちを押し付けていたが、今では彼女に好かれているのではないか、楽しんでもらえているのではないか。あと少しで終わってしまう恋などと考えもせず、私はただひたすら、この恋に、彼女に夢中になっていた。
いつも星を観ながら話をしている階段へ向かうと、私達は袋を開き、中から花火を取り出して並べる。
「どれからする?」
「色が変わるやつ」
そう手に取った花火にライターで火を着けてやると、自分も花火を持って、その先端を彼女の花火に近づける。引火した花火は勢いよく燃え上がり、初めは黄色に、次に青、赤、緑と色を変えた。辺り一面が明るくなり、彼女の顔がよく見えた。表情はないが、目がキラキラと輝いているように見える。ふと目が合った時、花火の光はなくなり、暗闇が広がる。
「勢いがすごい」
「でも綺麗だったね。線香花火は最後かな」
私達は隣り合って座ると、まだ熱を持つ花火をバケツに入った水に沈めた。そうして彼女と共に花火を楽しみ、最後の線香花火をバケツの上に構えて火を着けた。パチ、パチ、と火玉が弾けて火花が散る。
「これ、一番好きかも」
「分かる気がする」
私達だけを照らすその小さな火玉はバチバチと激しく火花を散らしたかと思うと、ジュッと音を立てて水の中へと沈んでいった。
「あ……」
「終わっちゃったね」
「少し、寂しい」
手に残った紙をバケツに入れた後、名残惜しそうにそう言った。そんな彼女の横顔を見て、私はふと魔が差した。そっと顔を覗き込むと、薄く開いた唇にキスをした。たった一瞬、触れ合っただけのキス。それでも私にはとても長く感じた。キスをしたことは何度もある。けれど、彼女とのキスは特別だ。
唇を離すと、彼女はいつもと変わらない表情で私を見ていた。
「後悔、すると思う」
それは、私が?それとも君が?どちらにしよ、今更離れることなんて出来ない。
「私は後悔しない。例え短い時間だったとしても、君と出会えて良かったと思うよ」
そう言うと彼女は肩にもたれ掛かり、体重を預けてくる。これはきっと、自惚れじゃない。
彼女の小さな手を優しく握りながら、雲一つない夜空から私達を照らす月を、時間が許す限り、二人で眺めていた。
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