#1.夢中の声





 その声は、静謐な夜の空気に溶け入るような、心地良くも消え入りそうな女性のものだった。それでいて、どこか芯のあるその声に身を焦がす。時折、目覚めては深更に誰かと共に過ごす夢を見る。その夢をハッキリと思い出すことは出来ないが、それでもその時間が大切だったことだけは確かだった。
 親友で相方の五条 悟の中には呪術師としての五条 悟が存在するらしい。これを前世と捉えるのか、別の人格として捉えるのかは人それぞれだろうが、私の中にもきっとそれは存在するはず。だからその夢もまた、私の一部なのだろう。
 悟と大学卒業後に芸人を始め、まだ芸歴が浅いうちにC−1優勝し、忙しくも充実した日々を送っていた、ある日のこと。
 先輩芸人に半個室の居酒屋へ呼び出された。急なのはいつものこと。上手くやっていくには、こういった付き合いも必要だ。先輩達も酒が飲めない悟より、飲める私の方が都合が良いのだろう。悟よりも愛想が良いし。結婚したら、家族を言い訳に逃げることが出来るのだろうか。そんな不純なことを考えながら、目的の店へと入る。いらっしゃいませ!と声を掛けて来た店員に「待ち合わせで」と言うと、道を開けてもらえた。一番奥の席だと言っていたな、とそこを目指して廊下を歩いて行くと、ふと途中の客席に高校からの友人である家入 硝子が見え、反射的に声を掛ける。

「やぁ、硝子。奇遇だね」

 四人テーブル席を硝子一人で独占しているはずもない。私は向かいに座っている女性を視界に入れた。同世代くらいの女性だろうか、両手でビールジョッキを持ちながら私を見上げている。そんな彼女と目が合った瞬間、心臓をギュッと握られたような感覚がした。これが一目惚れ。思っていたよりも苦しい。そして何より、彼女には既視感がある。そう思いながら彼女を見つめていると、テーブルの下から硝子の足が伸びてき、軽く蹴られて我に帰る。

「夏油は女と待ち合わせ?」
「そうじゃないよ、先輩に呼び出されたんだ」
「ふーん、じゃあ早く行きなよ。私達が巻き込まれそうだ」
「そうだね、そうなったら悪いし……お邪魔しました」

 私はそう言って硝子の前にいる彼女に笑顔を向けると、彼女は言葉を発することなく、静かに会釈をした。呆気に取られていただけかもしれないけれど、随分と大人しい子だ。好みのタイプだった。硝子に紹介してと言っても、断られそうだ。そんなことを思いながら、私は先輩芸人達と合流した。

 あれから、毎日のように同じ夢を見るようになった。彼女と出会った時、悟達と出会った時と似たような感覚があった。どこかの私は、彼女と繋がっていたのだろうか。

「運命の赤い糸が見えるよ」
「忙しすぎて、幻覚でも見えてんじゃね?」

 移動中の車内、暇を持て余した私は彼女のことを思い出し、左手を天井に伸ばしては自分の小指を見る。それに悟はジトっと私を見ながら、ぶどう味のグミをクチャクチャと噛んでいる。

「酷いな、今回は割と本気だよ」
「割と≠セろ?また、ちんこセンサーが反応しただけだって」
「そうじゃない。胸がキュッとなる感覚だよ。悟と会った時の既視感もあった。それに加えて、彼女を見た時、胸が締めつけられるような感覚になったんだ」

 人は恋をした時、ドキドキするだとか、キュンとするだとか言うけれど、そんな可愛らしいものではなかったように思える。目が離せなくなって、心臓を握られた。初めての感覚に、これがちゃんとした恋心なのだと確信出来た。

「この歳にして、初めて恋心を理解したよ」
「オマエが言いたいことは分かる。硝子にその子の連絡先を聞けってことでしょ」
「話が早いね。硝子は絶対、私に友人を紹介してくれないから」
「俺でも無理だっての。日頃の行いだろ」

 そう言われると、ぐうの音も出ない。何かの奇跡でも起きない限り、偶然出会うなんてことはないのかもしれない。
 普段と変わらず、くだらない話をしていると、車はくねくねと曲がり道の多い山道を上がって行く。スタジオから二時間掛けて辿り着いた先は夜の廃校だ。
 車を降りると、まず待っていたのは石造りの長い階段。スタッフが用意した照明で階段を照らしている為、スムーズに上っていけるが、月明かりしかない状態だと危険だろう。
 上りきった先には立派な鳥居があり、事前の下調べで知ったことだが、ここは学内に神社があるそうだ。鳥居を潜ると、突き当たりに本殿があるが、鳥居の大きさと比べると拍子抜けするくらい小さい。それらの左側には今にも崩れてしまいそうな学舎があり、建て直せば趣のある古き良き日本の建造物となるかもしれない。ずっと放置されている建物の外壁の一部は崩れ、スプレーで落書きされている。一応、三角コーンと立ち入り禁止のテープは張られているが、ここへ心霊スポットとしてやって来ている人間の目には入らないのだろう。

「懐かしいな……」

 スタッフが慌ただしく撮影準備をする中、不気味に建つ学舎を見ていると、隣に立つ悟は気味が悪いと感じている私とは違い、優しい目をしていた。

「ここ、俺達≠ェ通ってた学校」
「あぁ……呪術の専門学校?」
「そう。場所がそうってだけで、実際にあったのは普通の小学校。アクセス悪いでしょ、だから廃校になったんだって」
「へぇ……」

 どこか別の世界には呪術師が存在していて、私達は呪術高専に通っているそうだ。最初は悟の夢の中の出来事だと軽く見ていたが、今ではその夢の中の悟は、私の目の前にいる悟と同一化している。彼の変化には戸惑ったが、悟は悟だし、あまりその記憶の話をしない。だからほとんど忘れかけていたのだが、悟が夢の話をするのは珍しい。そう思っていると、学舎に向いていた悟の視線は神社の本殿へと向けられた。

「オマエもそれなりに感じてるだろうけど、ここは本物だよな。本殿が掃除されているとはいえ、学舎がこんな状態じゃ、マトモな神社とは言えない」
「霊障で取り壊し出来ないらしいよ。何度かお祓いはしているようだけど、効果はないみたい」

 私達には昔から霊感がある。悟と仲良くなったキッカケも、霊感がある同士でたまたま意気投合したからだ。祓ったれ本舗というコンビ名と霊感があり、実際に除霊も出来てしまうことから、夏になると心霊番組への出演が増える。当たりはずれがあるものの、私達としてははずれの方が良い。本物であればあるほど、お蔵入りになる可能性が高いからだ。

「今日はお蔵入りにならないといいけど」
「大元の霊が出て来なきゃ、単なるカメラの不調や音だけで済むけど……今日はどうだろうな」
「祓っちゃう?」
「向こうの出方次第だろ。悪霊でもない限り、放っておいていい」

 そんなことを話していると、撮影準備が整ったようで、怖がる役として呼ばれたアイドルとオープニングトークをする。私達が出演する心霊番組、特にロケでは本職の霊能者とは出演しない。彼らにとって、私達は邪魔者でしかないからだ。どうしてもタレントがメインである為、それなりに専門知識を持っている私達がいると出番がない。番組側で編集をして、別収録で霊能者に解説をさせることが多い。どちらにもいい顔が出来ないのが辛い所ではある。
 私を先頭に、悟は後方、アイドルの子を真ん中にして歩いて行く。中に足を踏み入れた瞬間、立ち込める不気味な気配が変わった。そんな中、怖がる役とはいえ、私の腕を引いてくる彼女は邪魔でしかないが、それでも何かあれば守らなければならない。

「キャーッ!!」
「その声にビビるわ、何だよ」

 歩く度に古い床板がギシギシと音を立てているが、何もない所で急に叫ぶ彼女に、つい体が跳ねる。悟が不快そうに眉を顰めていて、気持ちは分かるが、顔に出すなと思いながら立ち止まる。

「い、今、変な音がした!」
「してねぇわ。床の音だろ」
「……確かに、妙な気配はするね」
「そうでしょ!?何か来てるって!」

 何かとは何だ。私達でも学内に漂う何とも言えない気配の正体を探っているが、何も分からない。何かが音で訴えてくるわけでもない。ただ不気味なほど静かで、今までの心霊スポットとは違う。

「……悟」
「これ、やめた方がいいな」

 真剣な声色で廊下の先を見つめる悟に、やはり同じことを考えているなと頷くと、私はマイク越しにスタッフに話し掛けながら、道を引き返す。

「すみません。危険だと判断したので、戻ります」
「えっ!な、何かいるんですか!?」
「今は何もいない。奥に行けば行くほど、気配が強くなってる。俺達だけだったらまだいいけど、他は邪魔になる」

 外に出ると、息が詰まるような気配は幾分かマシになる。カメラが回り続ける中、悟は学舎を見て眉を顰める。

「俺達が入った瞬間、おかしくなったな」
「感じたことのない気配、いや……」

 どこかで感じたことはある。それはどこだったか考えていると、悟は私の肩に手を置いた。

「なぁ、俺達だけで行くべきじゃね?ただ体調不良を起こすだけの霊障で済んでるのがおかしいと思うレベルだぞ」

 確かにそうだ。このまま一般人が入って死者が出ても困る。悪霊という感じはしないが、元凶があるのなら、私達が祓ってしまった方が良いかもしれない。

「あの……本当にヤバい感じですか?」
「そうなりますと、お二人が祓うより、霊能者の方にお任せした方がよろしいかと」

 プロデューサーがそう訊ねてき、マネージャーである伊地知は身を縮めながら入ってくる。どうするべきかと悩んでいると、悟は頭を掻く。

「どうせお蔵入りでしょ?だったらこれは俺達の仕事じゃない」
「……確かに、一理ある。私達は芸人で、霊能者ではない。今回は見たことのない事例なので、危険ですよ」
「いや、そもそも祓ってほしいのではなく、霊を撮って来てほしいんですよ。リアクションするのが仕事でしょ」

 それもそうだ。私達は霊能者ではなく、芸人だ。芸人としての仕事をしなければならない。本物でお蔵入りしたことは幾度もあるが、それでも人気があり、視聴者にも求められている。ここでプロデューサーの意向に背くと、安定してあった心霊番組の仕事が減る可能性がある。そして何より、胸騒ぎがする。

「……分かりました」
「おい、やめとけって」
「撮って後悔した方がいい、そうだろう?」
「お蔵入りを視野に入れてもらうのは困るんですけど」
「すみません。経験上、そういうことが多かったもので」

 ビビって逃げたなんてカッコ悪い。ここでやらなければ、絶対この場面も放送される。そう思っていると、悟は溜息を吐き、「分かったよ!」と私の背を叩く。

「ヤバかったら引き返す」
「今回は随分と弱気だね?」
「そうじゃねぇよ……面倒なだけ」
「お気をつけて」

 伊地知にも背を押され、アイドルの子は置いて、私達は再び学舎へ入って行く。相変わらず妙な気配があったが、事前にスタッフが奥までカメラを設置しているのだから、この気配を発している元凶に遭遇しなければ大丈夫だろうと、高を括っていた。

「さてと、何が出るか」
「私達がまだ出会ったことがない物だろうね……UMAとか?」
「UMAは生物でしょ」
「じゃあ、悟は何だと思う?」
「……呪い」

 呪いにしては強い。そう思いながら目的の教室へと向かう。机や椅子は乱雑に後方へと置かれていて、割れた木板のほとんどは端に寄せられている。カメラが一台、三脚で設置されており、全く霊感がない人間がここまでやって来たのだろうと察しがつく。そして、よくここまでやって来たものだと感心してしまうほど、ドロッとした不気味な気配がここにはあった。

 ──い、たい

 どこかでそんな声がした。悟がふざけたわけでもなく、どこかにスピーカーがあるわけでもない。そしてこの声は、私の知っている声だった。幾度も耳にした、夢の中の声。

「──」
「……何か言った?」

 何かを口にしていたのか、悟は私を見る。けれど自覚はなく、私は彼の言葉に返事することなく、教室へと入る。胸騒ぎがして、落ち着かない。

「声がした」
「あ?」
「呼んでる……」

 一緒に、いたい

 何かが私を呼ぶように、そう囁いた。どこからか、何かを願うような声が聞こえる。私はその声を頼りに教室の奥へと行くと、乱雑に積み上げられた机や椅子の中に、その声の正体があった。埃や土で汚れた御守りだ。刺繍があるわけでもない、ただ和柄の布を不器用に手縫いしただけの簡単なその御守りには見覚えがあった。無意識にそれに手を伸ばした時、悟は横から私の腕を掴んだ。

「それに触んな」
「……私は、これに触れなきゃいけない」
「オマエは分かってない、これは呪物だ。しかも、この世界の物じゃない」
「だから何だ?これは、私の物だよ」

 悟の手を振り解くと、その御守りを掴んだ。その瞬間、脳を掻き乱されるような感覚に襲われ、次の瞬間には全身の力が抜け、立っていられないほどの眠気に襲われる。
 遠退く意識の中、最後に聞いたのは私を呼ぶ悟の声だった。


***


 目を覚ましてまず感じたのは、病院独特のにおい。汚れ一つない真っ白な天井を見て、夢と現実の区別がつかないほど混乱していた。つい右腕があるかどうかの確認をし、辺りを見回す。ここは呪術高専の医務室ではない。囚われているわけでもなければ、私しかいない病室、見舞いの花やフルーツ、温かな太陽の光が窓から差し込んでいるのを見て、少し心が落ち着いた。
 私は呪術師ではない。呪力のない世界に生きる、ただの人間だ。これが悟の言っていた夢、もう一人の自分の記憶かと冷静に考えながら、気を失った時のことを思い出す。全て思い出したはずなのに、どうしてもあの声の正体が分からない。私は確かにあの御守りを持っていた。それを見る度に誰かを思い出していた。なのに顔も名前も思い出せないのは、意図的に記憶が消されているのか、私自身、思い出したくないからか。どちらにせよ、私は彼女の正体を知りたい。あの御守りをもう一度手にすれば、思い出すかもしれない。
 ナースコールで看護師を呼び、医師の診断を受けて、すぐに退院の手続きをする。特に異常が見られなかったが、二日も眠っていたらしい。悟は徐々に夢に見ていたが、私は今まで失くしていた記憶を思い出したような気分になっていた。いや、思い出す≠ニは違う。あれは私とは別の人間なのだから。そう割り切ったつもりでも、自分が自分じゃなくなったような気がする。
 退院の準備をすると、心配を掛けたであろう両親や悟、伊地知と連絡を取り、すぐに仕事復帰することとなった。もう一人の私は伊地知とは深く関わっていなかったけれど、今では大事なマネージャーだ。悟と同じく、彼に甘えて我が儘を言ってしまうが、どこかで彼を知っていたから、そういう態度を取れていたのかもしれない。

「夏油さん、改めて確認しますが、もう体調は良くなったんですか?」
「大丈夫、面倒を掛けたね。それより、あの心霊番組の収録はどうなった?」
「映像自体はお蔵入りですね。五条さん曰く、夏油さんがあの呪いを受けた影響で、その一帯の霊気は消えたとか……」
「そうか……私が触れた御守りは?」
「番組出演予定の霊能者の方の手に渡りました」

 それが呪物であり、私が失神した原因として番組が取り扱うのかもしれない。でもあれは確かに私≠フ物だ。入手経路も、元々誰の物かも分からないが、私にはあの御守りが必要だ。

「それ、私の手元に戻すことは出来るかな」
「収録が終われば、持ち主に返すと五条さんは言ってましたけど……夏油さんは持ち主をご存知なのですか?」
「……いや、ハッキリとは思い出せない。けど、悟は分かるんじゃないかな」
「そうですか……それならいいんですけど、気をつけてくださいね」

 伊地知はスタジオまで私を送迎してくれ、共に出演番組の収録スタジオまで向かう。事前に内容を知らされている為、悟だけ参加している収録に急遽参加することとなった。いつも通りに収録を終えると、心配して声を掛けてくれる出演者も多く、軽く挨拶をして悟と共に楽屋へ戻る。
 楽屋に入って早々、悟は私に水の入ったペットボトルを投げてくる。それをキャッチすると、彼はふん、と鼻で笑った。

「思ったより元気そうじゃん」
「まぁね、体に異常はない。医者のお墨付き、健康だよ」

 私はそう言いながら、ペットボトルの蓋を開け、渇いた喉に水を流し込む。悟はいつも通りにしているが、今の私は若干の気まずさを感じている。悟は別の記憶が流れ込んできたとしても、周りへの態度が少し大人びただけで、私達への気まずさは感じていなかったと思う。彼の中で、私は変わらず親友なのだろう。少し気恥ずかしい気もするが、変わらずいてくれるのはありがたい。

「前に、魂についての話をしたよね」
「あー、多元宇宙論?こことは違う世界があるってやつ」
「そう。君には別の世界の自分の記憶があるんだろう?」
「あるけど、遂にオマエも別の自分を知っちゃった?」

 予想はしていたのだろう。大して驚きもせず、スマホを弄りながら会話をしている。今にして思うと、悟があの御守りに触れさせようとしなかった理由は、あの御守りから発せられていた呪力の気配にどんな意味が込められているか、分からなかったからだろう。この世界にはない呪力が、何故か呪術高専があったあの場所にだけ存在していた。記憶のない私にはその気配の正体が分からなかったが、今なら分かる。悟なりに心配してくれていたのだろう。

「全てではないけどね。御守りを手にする時に聞こえた声の正体……きっと、あの御守りの元の持ち主との思い出だけがない……何か知ってる?」
「知ってるっちゃ知ってる。でも詳しくは知らない。俺達はそいつと深く関わってないから。俺にとっては、そんな奴もいたなって程度」

 私にとって、声の主が悟達と関わり合いのない存在だったとしても、意外ではなかった。全ての記憶があるけれど、思い返せるのは印象に残っていることだけ。それはどんな記憶だってそうだ。特に印象に残らない日の出来事を一つ一つ覚えているはずがない。それでも呪術高専時代のことは特別だった。だからこそ、鮮明に悟達とのことを思い返すことが出来るのに、違和感を感じる。御守りを常に持ち歩いていたくらい大切だったのに、記憶の中から持ち主だけが消えている。

「そうか……思い返してみると、彼女は初めからいなかったと言われても、それほど違和感がないんだ。でも、彼女の声や御守りだけを知っていて、思い出は残っていないのが不思議だ」
「今後、夢に出るんじゃね?俺は少しずつ夢に見たって感じだったし」
「……そうだね、待つことにする」

 両親を殺し、非術師を殺し、理想の為に他者を傷つけることを選び、最期まで理想を突き通した。だからこそ、悟への罪悪感も存在する。彼女のことを思い出さなければ、会いたいと思わなければ、彼女への罪悪感もなかったことになるのだろうか。
 そんなことを考えながら、手元にあるペットボトルを揺らし、たぷたぷと揺れる水を眺めていると、悟はスマホを置き、何かを考えながら頭を掻く。

「同じ魂を持っていても、似た状況にいたとしても、俺達は夢の中の奴らとは別人。まるで自分がして来たかのように思えるけど、俺達には俺達の人生があった。それとこれとは別だよ。呑み込んで生きるしかない」

 同じ魂の人間、もう一人の私。だったら私はまた、同じことを繰り返してしまうのではないだろうか。何かに疑問を抱き、理想を目指した時、私は大きなことをしてしまうのではないか。理想の為に他者を傷つけるような、そんな人間になってしまうのではないだろうか。

「オマエは俺の親友で、相方でしょ。術師でもないんだからさ、気軽に行こうぜ」
「君の切り替えの早さには驚かされるよ」
「誰かの所為で慣れっこなんだよ」
「悪かったね。でも、見習うことにするよ」

 悟の言葉に少し心が救われた。悟は記憶について多くを語ろうとはしなかった。それはきっと、私達の為だったのだろう。私がこうして悩むことを望まなかった。素直じゃない生意気な男だったが、気を遣えるじゃないか。そう思いながらも、素直に礼を言えない私も私だと考えながら、心の中で彼に感謝していた。


***


 普段と変わらない日常が戻ってきていた頃、収録終わりの楽屋で帰り支度をしていると、悟は何かを思い出したかのように、あっと声を上げた。

「なぁ、オマエが運命だとか言ってた女いたじゃん」
「あぁ……」

 時折、居酒屋で出会った彼女のことを思い出しては怯えていた。未だに消えない恋心の所為で、私は女性を避けて過ごしている。彼女に何かあったのかと彼を見ると、彼は差し入れの大福を食べながら軽く話をする。

「硝子が何度か会った程度の知り合いらしいよ。友達の友達」
「そう……」
「あれ、もう興味なし?オマエが聞けって言ったんじゃん」
「きっと、私は夢の中の彼女が好きだったんだと思う。だから、私が運命を感じた彼女がそうじゃなかったらと思うと、どちらにも申し訳ないよ」

 今はそのことばかり考えている。彼女との記憶を夢に見るんじゃないかと思っていたが、その記憶に繋がるものはまだ見ていない。

「経験上、俺は直感を信じるべきだと思うね」
「……今日、硝子と飲みに行く予定だから訊いてみることにする」
「飲み過ぎんなよ、迎えに行かねーからな」
「分かってるよ。それで思い出したけど、御守りはどうなったんだい?持ち主に返すと言ってたみたいだけど」
「まだ返してねーよ、見つかってないんだから。傑が欲しいってなら、渡すけど。もう呪力は篭ってない。俺はそれを確認したかったようなもんだし」
「じゃあ、また明日にでも取りに行くよ」

 私は準備を終えると、また明日、と楽屋を出る。今日は硝子と二人で飲みに行く約束をしていた。本当は悟達も来る予定だったが、動画の編集でやりたいことがあるから、と急に飲み会をキャンセルした。昔から呪術に熱心な所があったが、何故か芸人としても熱心だ。率先してネタも考えてくれるし、ありがたい。そんなことを考えながらタクシーでいつも利用している個室居酒屋へ向かうと、既に硝子は一杯飲んでいて、私を見るなり軽く手を挙げて挨拶をした。

「もう二杯目やってる」
「遅くなったね」
「いつもでしょ」

 確かに、いつも早めに来ては先に飲んでいるな。硝子は相変わらずの酒豪だと思いながら、タブレットでビールと焼き鳥を注文する。

「そろそろ夏油と二人で飲むのも飽きたわ」
「酷いな、私は気軽に飲めて好きなんだけど」
「気軽に飲める友達いないの、可哀想」
「君達以上に気軽に飲める人がいないってだけさ」

 それなりに付き合いが良くて、それなりに好かれている自覚はある。でも、肩の力を抜いて飲める相手は少ない。面倒になって飲み過ぎると、誰かと寝ていることもしばしばある。良くないとは思っているが、付き合いで飲む酒はつまらない。硝子は誰とでも楽しく飲めているのだろうか。そう思った時、ふと脳裏に過ぎるのは、一目惚れをしたあの子。

「……硝子、この間会った時に飲んでた子とは、どこで知り合ったの?」
「五条から聞かなかったの?大学の友達の友達。たまたま出会って、誘われたから飲んでただけ。不思議な雰囲気のある子だよ」
「へぇ、不思議ちゃん?」
「不思議ちゃんと言うと馬鹿にしてるみたいだけど、変わった子ではあると思う」

 あの場で一言も発さないのは人見知りか、遠慮しているのか、控えめな子なのかと思っていたが、変わり者なのか。そう、届いたビールを飲みながら、意外だったなと考えていると、硝子は溜息を吐く。

「言っておくけど、連絡先は渡さないからな」
「貰ったところで、どうすればいいのか分からないよ」
「あれ、狙ってるわけじゃないの?」
「……迷ってるんだ」

 また会えば、きっと今よりもっと好きになる。だからもし、夢の中の彼女じゃなかったらと思うと恐ろしい。早く、早く記憶が欲しい。違う子ならきっと、諦められるから。

「ヤリチンが珍しい」
「失礼な……来るもの拒まずなだけだったけど、もうやめるよ」
「いつか身を滅ぼすな……それで、五条に別の記憶があるように、夏油も別の記憶があるの?」
「あぁ、驚くことにね。悟にはたかが夢だと言ったこともあるけど、人のことを言えない……引き摺る」

 悟は最初、自分が呪術師になる夢を見たと軽く話をしていた。だから、たかが夢だとあしらっていたのだが、徐々に彼の人格にまで影響が出るようになり、夢と現実の区別がつかず、混乱していたこともあった。それも最近は落ち着いていた為、私も受け入れていた。そんな事例があったからか、それとも一気に記憶が流れ込んできたからか、まだ冷静でいられる。でも、呪詛師の夏油 傑は私の中に残っている。

「因みに、どんな夢?」
「……あまり言うことではないかな」
「五条もあまり言いたがらないけど、オマエもか」
「結構ヘビーだからね。私達は同期で、呪術師だったということしか言いたくない」
「あの子もそうだったってこと?」
「さぁ……分からない。その記憶だけがないんだ。夢の中で私を呼ぶ彼女が、硝子の友人かどうかすら分からない。でも、確かに存在する。君達とはあまり接点はなかったようだけどね」
「……なるほどね」

 硝子は焼酎を一口飲みながら、何か考えるようにそう呟いた。ん?と私が訊き返すと、彼女はテーブルに肘をつき、言葉を選ぶように話す。

「共通の魂だというなら、私達が友人になるということに不思議はない。オマエ達に運命という言葉を使うと気味が悪いけど、会った時から、それなりの付き合いになるとは思っていた。歌姫先輩とかね。だけど、彼女にはそういう感じはなかった。仲良くはなれそうだけど、他とは違う、不思議な感じ」
「そっか。どちらにせよ、君は仲良くしてあげてよ」

 私が言うことではないけれど、きっといい子だ。悟は直感を信じた方が良いと言ったが、確かに硝子もその直感に従って友人を作っている。私達や庵先輩とも違った友人もいるだろうが、硝子から人間関係の愚痴を聞いたことがない。周りには良い人間が多いのだろう。

「言われなくても。それに、少し安心した。彼女こそが運命の相手だ!なんて言わなくて」
「どうして?」
「彼氏がいるみたいだから」
「……え?」

 彼女の言葉をちゃんと理解した時、軽く耳鳴りがした。視界がぐらつき、呼吸がしづらい。

「飲み会で話してた」
「そ、う……」

 どうしてショックを受ける必要がある。もし彼女達が同一人物だったとしても、生まれてから死ぬまで一途に私だけを愛してほしいだなんて、虫のいい話はない。私だって、女性と関係を持ったことがあるのだから。でも、御守りから聞こえた一緒にいたい≠ニいう言葉が、どうしても頭から離れない。

「ショック受けてるじゃん」
「一目惚れだったから。でも、うん、私が忘れている人じゃないかもしれない。だから、大丈夫」

 この恋心は捨てろ。捨てなければならない。夢の中の彼女の為にも。そう自分に言い聞かせながら、ジョッキに残ったビールを喉に流し込んだ。
 あれほど酒を飲み過ぎるなと言われたのにも関わらず、私はほんの二時間程度で泥酔していた。失恋のショックからか、涙が溢れて、鼻の奥がツンとしている。

「うわ、泣き上戸だっけ」
「わ、かんない……」
「……とりあえず、五条呼ぶわ」

 そう言って硝子は悟に電話をした。「すぐ来るって」と言いながら、彼女はまだ酒を飲んでいる。

「好きだったんだ……きっと、彼女のことが、」
「……過去を捨てた方が、気が楽だと思うけど」
「それが出来ないから、君達といるんじゃないか」

 暫くすると、悟が店へとやって来ては、呆れたように息を吐いては私に肩を貸してくれる。そのまま車の後部座席に放り込まれ、硝子は「送ってもらえてラッキー」と言いながら助手席に乗り込んだ。まずは硝子を自宅まで送り届けると、悟は「吐くなよー」と軽く私に声を掛けながら、私達の住むマンションへと車を走らせていく。ふと運転している悟の横顔を見て、今日話していた御守りのことを思い出す。

「御守り……」
「何?」
「御守り、を、くれ……私に必要だ」
「……分かった。帰ったらオマエの部屋に持ってく」

 悟はマンションの駐車場に車を停めると、雑に私を車から引っ張り出す。

「歩けるか?」
「歩ける……」

 ふらふらしながらもエレベーターまで向かい、悟と別れて自室へ向かう。鍵を開けて中へ入ると、玄関で寝てはいけないと、ソファまで体を引き摺りながら向かい、そこに倒れる。するとそこに、合鍵を持っている悟が入って来ると、キッチンでコップに水を注ぎ、まずはそれを渡してくる。それを受け取って一気に飲み干すと、私の目の前にあの御守りを差し出してくる。もう呪いの気配は残っていない。

「思い出すといいな」
「ありがとう……」

 手にしたその御守りは、誰の願いを叶えようとしているのか、その正体を私は知りたい。それを手に取ると、そのまま強い眠気に襲われ、意識を手放した。






back


×
BLコンテスト・グランプリ作品
「見えない臓器の名前は」
- ナノ -