四話 終焉はどうか、安らかに。





 目を覚ますと、世界が違って見えた。
 見えたのは変わらない部屋の天井なのに、この数ヶ月の間は夢を見ていたような、そんな気分になった。
 もう既に窓から差し込む光は月明かりに変わっていて、隣には静かに眠る傑の姿。お互い裸で、何が起こったかは鮮明に思い出せる。それ故に苛立ち、私は思い切り掛け布団からはみ出す、しっかりと筋肉のついた腕を引っ叩いた。ペチン!という乾いた音が部屋に響く。それと同時に、傑はハッと身体を震わせて起きる。

「痛……」
「バカ!アホ!胡散臭いエロ教祖!!」

 記憶が戻ってからの第一声はそれだった。今なら、彼が言った言葉の数々が理解出来る。だからこそ、彼が憎たらしかった。溢れ、零れ落ちる涙を止めることが出来ず、傍にいる彼の表情すら見ることがままならない。

「……おはよう」
「私がどれだけ傷ついたか、どれだけ心配したか、どれだけ……っ」
「ごめんね、どれだけ愛してくれていたか、知っているよ」

 そう言って彼は私を強く、強く抱きしめた。ずっとこうしたかったのだと、私は彼の首に腕を回し、泣いた。今は昨日のことのように鮮明に憶えている。五年前にあの村落で起こった出来事を。あの喪失感を。

「置いて行ったくせに……っ」
「忘れられなかった。君があの場所で倒れ、ずっと眠りについたままだと硝子に聞かされてから。不幸にしてでも欲しかったんだ、ここまで愛してくれている君を」
「もう、いいから……傍にいてよ。後悔なんてしてないから……」
「……分かってるよ。もう、後戻りは出来ない。私と共に生きよう」
「うん……」

 震える声で返事をすると、彼はそのまま体重をかけて、私をベッドに押しつける。トクントクン、と彼の鼓動が直接触れ合う肌に伝わってくる。離れてやっと、彼の顔が見えた。毎日見ていたはずの彼の顔が何故か新鮮に思えて、頬を撫でると、傑はふと笑って、軽く触れ合うだけのキスをした。

「君は本当に分かりやすい」
「そうかな……」
「私のことが好きで好きで堪らないって表情をしてるよ」
「傑もだよ」
「はは、五年振りだからね。愛おしくて仕方がない」

 記憶が戻ってから、余計に彼の言葉がむず痒く感じた。五年前までは絶対に言わなかったのに、今は簡単に言う。まるで私が成長していないような気がする。眠っていて、五年前がつい最近のように思えるから当たり前なのだが。

「……もう一度、シていい?」
「えっ」
「今の君も、堪能しておきたいな」
「ちょ、待って……!」
「聞こえないな」

 そう言って彼は再び私にキスをすると、記憶が戻る前と同じことをした。まるで先刻と比べるように。


***


 記憶が戻って、美々子と菜々子は私の性格の変化に驚き、戸惑っていたが、私の彼女達への愛情が変わらない。しかし、五年前の記憶が戻ったことにより、傷だらけで怯えきっていた少女達が立派に成長しているのは少し感慨深いような、彼女達とは違った戸惑いがあった。それでも、私にとって彼女達が家族であることには変わりない。

「記憶が戻ったら、いなくなるかもって夏油様が言ってたけど、いなくならないよね?」
「どこか行っちゃうの?」
「行かないよ。ここにいる」

 よかった!と笑う彼女達の頭を撫でる。ここまで慕われていたとは。幸せ者だな。
 私はラルゥさんと真奈美さんの元へ向かうと、記憶が戻ったと既に傑から聞いているのか、私を見るなり、ラルゥさんが声を掛けてきた。

「記憶が戻ったって本当?」
「戻りましたよ。色々、思う所もありますけど、改めてよろしくお願いします」
「貴女は私達の思想に賛同しているの?前までは取り乱していたようだけれど」
「私は正直、傑の思想は危険だと思ってるし、非術師を猿だなんて思ったことはない。だからといって、離れる気はない……」
「戦える?」
「戦えと言われたら、戦いますよ」
「傑ちゃんを王にする為?」
「いや、傑といる為に……思想とか、王にするとか、そこはどうだっていいんです。ただ恋人として彼について行くだけ」
「大丈夫だよ、君は何もしなくていい」

 そこにやって来た傑は、そっと私の肩を抱く。人前でむず痒い、と感じていると、傑が代わりに彼らに話す。

「彼女は出来るだけ外には出ない。ここと、家を行き来する程度だ。人との接触は避けてもらう。訓練もほとんど必要ないかな、記憶が戻ったんだから」
「何か軟禁されてる気がするんだけど」
「そうだけど?」

 堂々と言った彼に、私は溜息を吐く。ここまで酷い束縛は初めてだ。

「ここには非術師を嫌う人しかいない。傑だってそうでしょ?だったら、ストレスなくここへ来る信者達の相手は私が適任だと思うんだけど」
「ダメだよ、君が猿臭くなったらどうするんだい?この間だって手を握られていたじゃないか」
「何か、見ない間に愛が重くなってない?」
「昔からこうだよ」
「えぇ……でも私も軟禁状態はキツいし。人を殺すことは出来なくても、傑や皆の負担を減らすことは出来るから」

 あまり顔に出すことはなくても、非術師を見下して、相手をするのも億劫だと感じているはず。なるべくストレスを感じさせない環境を作りたい。

「恋人想いね、素敵なことじゃない、傑ちゃん。やらせてあげたら?」
「それならば、私の仕事も手伝っていただきたいですね」
「真奈美さんも一緒なら大丈夫でしょ。ちゃんと家事も美々子と菜々子の世話もするし、ね?」
「そこまで言うなら、いいよ。何かあったら言うんだよ」
「過保護……」

 よく分からない所で彼は過保護になってしまったようだ。五年も眠っていたのだから、無理もないと思うが、私はただ彼の変化にも少し戸惑っていた。

 先に眠っていた私の背に、甘えるように抱きついた傑。帰って来たのか、と私は目が覚めて、寝返りを打つ。

「おかえり」
「起こしてしまったかな、すまないね」
「すぐ寝る……」

 そう言って彼の胸に擦り寄ってみると、彼はふふ、と笑って私の髪を撫でる。

「猿共の相手は疲れるけど、帰って来たら君がいると思うと、幸せだよ」
「……私が高専へ戻っていたら、どうしてた?」
「どうだろうね。でも、君の前で猿を殺した時は、君が戻ってしまってもいいという気持ちでいた。戻る場所があるならね。それでも受け入れてほしいと思っていたよ。多少自信もあったけどね。君を誑し込む自信がね」
「流石、人誑し」
「分かってて私に引っかかってるんだから、君もバカだね」
「そうだよ。だから、今から悟の所にでも行こうか?」
「もう試すようなことはしないさ。ここに縛りつけてでも逃がさないよ、ずっとね」
「怖いなぁ」

 冗談だろうが、彼なら本当にやりそうな危うさがある。私も離れるつもりはないけど、と彼の鼓動を聞きながら目を瞑る。

「……でも、私達はいい死に方はしなさそう。人が一度は想像するような、安らかな死は私達にはないだろうね」
「覚悟の上だよ。精一杯やるだけさ」
「でも、死ぬ時は一緒がいいな」
「……ごめんね」
「何で謝るの?」
「さぁ、何でかな」

 一緒には死ねないということだろうか。だとしたら、やはりいい死に方はしない。でもせめて、傑の隣で眠れたなら。この茨の道も悪くないのかもしれない。


***


「温泉旅館に行かないか?」

 朝食中、傑が高級老舗旅館のパンフレットを私に手渡してくる。興味深々で美々子と菜々子がそれを覗き見る。

「うわ!いい旅館そー!」
「映画に出てきそうだね」

 どういう風の吹き回しだろうか、と傑を見ると、彼はにこりと笑って説明を始める。

「そこの主人が亡くなったようでね。それから怪奇現象が絶えないらしい。高専の連中に見られる前に見ておきたくてね」
「パンフレット出してきたってことは、皆で行くの?」
「あぁ。泊まっていいと言うんでね、たまには家族旅行もいいと思って」
「行きたーい!」
「すごい、ここ泊まれるの?」

 美々子と菜々子が楽しみにしている中、あまり外出という外出をしない私は不安だった。でも傑も一緒にいるし、二人が喜ぶならいいか、と考えていた。

「いつ出発?」
「明日、観光したいなら朝七時には出発かな。新幹線の座席、予約しておいてほしい」

 なるほど、旅館の最寄駅を調べて、その旅館までの交通手段の確保をしておけということか。

「今日の内に準備しておかなきゃ!美々子、余計な物持って行っちゃダメだよ」
「菜々子もおやついっぱい持って行っちゃダメだよ」

 二人は食事を終えてそそくさと部屋で準備を始める中、傑は微笑ましいものを見るかのように笑う。

「ふふ、彼女達はまだまだ子供だね」
「そうだね。私も準備しておくよ。傑の分もね」
「悪いね。急に」
「私も楽しみだよ、温泉でゆっくりしたいなぁ。どうせ呪霊は傑が取り込んでくれるだろうし」
「たまには君にもゆっくりと過ごして欲しいからね。家のことや真奈美さんの手伝いばかりだろう?」
「別に私はダラっと過ごす時間もあるし、苦になってないからいいけど、傑は休みという休みがないでしょ?傑こそゆっくり過ごしてほしいんだけど」
「君と共にいることが一番の休息だよ」

 傑はそっと私の顎を持ち上げ、触れるだけのキスをする。私はもう!と彼の口を押さえて、離す。

「そうやって誤魔化す!」
「私のことが分かってきたみたいだね、嬉しいなぁ」
「最初から分かってるの。ちゃんと休んで、私を安心させて?傑がいなくなったら、どうすればいいの、もう私に戻る場所なんてないよ」
「……分かってるよ、寂しい思いさせてごめんね」

 そう言って彼はまたキスで誤魔化した。それも嫌いではないからいいのだけれど、時々、休まない彼を見ていると不安になる。いや、彼のことだ。何も考えない時間を作れないのだろう。彼の掲げる大義は問題が山積みだ。私はこの事に関しては無力だから、せめて傑が休める時間を……

「余計なこと、考えてない?」
「私には余計なことじゃない」
「何考えてた?」
「大事な人のこと」
「それは余計じゃないね。でもキスに集中して」
「朝から、もういいじゃん……」
「もう一回」

 そもそも袈裟姿でするようなことじゃない、と思いながらも、私は流されてしまう。軽くキスしていたはずなのに、舌が入り込んできた時、私はふと目を開けると、美々子と菜々子の部屋の扉から二人がこちらを見ていて、私と目が合うと、サッと隠れた。急に恥ずかしくなり、彼から顔を逸らす。

「見てる見てる見てる……」
「年頃だからね、興味あるのかも」
「そんな場合じゃない!もう、ほら離れて離れて」
「照れ屋だね。色々バレてるというのに」
「な……っ」
「冗談だよ」

 完全に弄ばれた、と私は恥ずかしくて手で顔を覆うと、彼はくつくつと笑いながら立ち上がると、玄関へ向かう。

「美々子、菜々子、忘れ物がないようにね」
「はーい!」
「はーい」
「行ってきます」

 傑は出て行くと、私は彼に聞こえないような声量で行ってらっしゃい、と呟きながら、気持ちを切り替えよう、と何事もなかったかのように空いた皿を取って、流しへ持って行き、皿洗いをする。
 キッチンのすぐ隣の彼女達の部屋から、二人はコソッと顔を出し、美々子は私に尋ねる。

「夏油様と結婚しないの?」
「えっ!?」

 あれを見た上で第一声がそれなのか、という驚きもあったが、言及されなくて良かった、とも感じた。

「結婚しても良さそうなのに、とは思ってたの。でもラルゥは結婚はないんじゃないかって言ってて」
「ラルゥさんにまで話してるんだ……」

 私は話が広まったらやだなぁ、と思いながら、もうすぐ十四歳になろうかという年頃の女の子の疑問には答えたいな、と思いながら、結婚か、と洗い物しながら考える。

「籍を入れてないってだけで、やってることは変わってないような気がするけど……」
「全っ然、違う!結婚式は?新婚旅行は?子供は?」
「ウェディングドレス着た?」

 ずいずいとにじり寄って来ながら話す彼女達に、やっぱりそういう憧れが芽生え始めてるんだろうか、と思いながら、私は素直に答える。

「結婚は憧れるよ?でもそれが簡単に出来るような環境じゃないというか……分かるでしょ?」
「そうだけど……結婚式くらいはいいんじゃないかなって」
「この間、似合いそうなウェディングドレスを話してたの」
「え、私の?」
「そう!テレビでやっててね、引きずるくらい後ろが長ーいやつで、私達がそれを持つの!」
「夏油様は黒のタキシードでお出迎えして……」
「永遠の愛を誓う!」
 ねー!と二人で仲良く手を合わせて楽しそうに話しているのを見ながら、私もその様子を想像する。
 私の憧れるチャペルでの結婚式。皆が祝福してくれている中で、私は真っ白なウェディングドレスに身を包んでいて、ベールが上げられた時に見える彼の顔は幸せに満ちていて。愛を誓い合って、死なんて思わせないような、そんな幸せな夢。
 それが叶うことはないのだろう。そう思うと、心臓がキュッと締まったように、切なくなった。

「それが実現したら、夢みたいに幸せだろうね」

 彼女達はその言葉を聞いて嬉しそうに笑った。今でも十分幸せだと思う。これ以上の幸せが実現した時、私達の罪深さを考えてしまう。どうしたって、夢のチャペルには似合わない罪深い人間だろう。それでも私達の幸せを願ってくれている二人が愛おしく思えて仕方がない。
 私は皿を洗い終えると、もう身長差が然程ない二人を一気に抱きしめる。

「ありがとう。私は十分、幸せだよ」
「私も!」
「何か照れるね」

 それでもギュッと抱きしめてくれた二人に、私は改めて幸せを感じていた。

 明日の為に買い出しに行ってくる、と出掛けた美々子と菜々子。私は自分と傑の分の服を準備したり、新幹線の席の予約、旅館に直接連絡を入れた。送迎バスを出してくれるようだ。
 傑が遠征に行くと言っても、私は連れて行ってもらえなかったし、何だか久々だな、と感じていた。傑なりに私に気を遣っていてくれたんだろうか。人の死が目につかないように。
 そうして傑は遅く帰ると連絡があった為、先に夕食を済ませて明日の為に眠ることにした。
 翌朝。早朝に目が覚めると、隣で傑が眠っており、私はうんと伸びをしてベッドから出ると、ある程度の身支度を済ませ、朝食を作り、美々子と菜々子を起こす。渋っていたが、今日は泊まりに行く日だ、と伝えれば、二人は飛び起きた。最後に傑だな、と寝室に戻って、眠る傑の隣に座ると、身体を揺らした。

「おはよう、傑。もう起きないと」
「……まだ早い」
「新幹線で眠ればいいじゃない。ほらほら、起きて」

 昨夜は遅かったんだろうか。心苦しいが、美々子と菜々子が楽しみにしているし、無理にでも起こさなければずっと眠っていることがある為、身体を突いて起こす。

「ほらほら、起きて!家族旅行でしょ?子供達が楽しみに待ってるんだよ、傑パパ」

 その瞬間、彼を突いていた手を引かれ、ベッドに引き込まれる。まるで寝技だ。

「君がママ?」
「そのつもりで言ったんだけど……他の人想像した?」
「いいや、私の可愛い奥さんだ」

 そうして私は抱き枕にでもなったのか、というくらい全身で抱きしめられた。まだ寝る気だ、と私は察知して、彼の背を叩く。

「はいはい、起きて!私も眠いの我慢してる」
「んん……」

 傑は私を抱えたまま起き上がり、座ると、そのまま私に体重を預けてくる。それを必死に支える。

「もう!甘えるのも程々に!」
「嬉しいだろう?」
「嬉しいけど、今はダメ」

 彼はやっと身体を起こして動かす。私はやっと起きた、と息を吐く。

「大きな子供が一人増えたのかと思った」
「子供はこんなことしないよ」

 そう言って彼は私の額に唇を落とした。そうしている間にも時間は経っている。

「はいはい、準備してご飯食べる」
「今日は冷たいなぁ、倦怠期?」
「そうじゃないけど、家族旅行でしょ?私も久々の外だし……早く行きたいかなって」
「……そうだね。準備しよう」

 私はリビングダイニングでテレビを観ながら食事をしている美々子と菜々子に混じって、いただきます、と食べ始めた。傑はおはよう、と声を掛けながら、洗面所へ向かい、身支度を済ませた。
 皆で食事をし、着替えて駅へと向かう。タクシーの窓から見える風景がいつもとは違い、新鮮に見えた。五年眠っていた私も、思い出してから三年は経つ。それまでずっと、家から宗教団体のある建物を行き来する生活だった。駅の人の多さには懐かしさを覚えるが、傑はいい気分ではないだろう。
 新幹線がやって来ると、予約してあった席に座る。私達は車両の一番前の席に、その後ろの列に美々子と菜々子が座った。
窓側に座っていた彼はサッとブラインドを下ろす。

「……何か、思い出すよ。振られた時のこと」
「誰に振られたんだい?」
「傑に」
「告白された覚えも、振った覚えもないんだけどなぁ」
「嘘吐き」

 私は肘置きに置いていた傑の手を握ると、彼は握り返してきた。あの時とは逆だ、そう思いながら話す。

「互いに想い合っていたのに、好きの一言もなく、私達は長い間すれ違ってた。そりゃあ硝子にも呆れられるよ」
「あの悟にも呆れられていたよ。今だってそうだろうね。君はバカなことをした、と思っているはずさ」
「悪い男に捕まったなぁ」
「ふふ、そうだね」

 懐かしい。でも、今回は振られてない。彼は私を受け入れてくれていて、何もかもが違う。

「今から任務へ向かうみたいだね」
「似たようなものだよ」
「そうだね。楽しみだ」

 そうして私達は新幹線で旅館の最寄駅まで辿り着いた。旅館の送迎バスを探していると、傑があの人、と指した先にそのワゴン車はあり、旅館の主人の息子であるその人に私が率先して声を掛ける。

「昨日、ご連絡させていただいた夏油です」
「夏油様、お世話になります……!こちらの方は?」

 私の言葉を無視して、傑に目を向け、話し掛けている。まぁ、教祖なのだから当たり前だろう。

「どうも。私の妻と娘です。私でも十分事足りるのですが、手早く済ませる為にサポートも必要かと思いまして、連れて来ました。問題ありませんよね?」
「は、はい!もちろんです!ではどうぞ!」

 私達は車に乗り込み、旅館へ向かう。狭い車、と悪態を吐き始めた菜々子に私は黙ってるようにシーッと人差し指を唇に押し当てた。
 暫くして、パンフレットにあった通りの旅館に辿り着く。辺りは温泉街で観光地となっている。今はその旅館だけが休業しているようで、私達は一目見ただけで、その理由が分かった。

「いっぱいいる……」
「うわ、何でここだけ?」
「……呪物があるかな。それが引き寄せた呪霊ということになる。ここに来て良かったね」
「この旅館の主人が亡くなった時に、遺品の封印でも解いちゃったのかなぁ」

 とにかくその旅館で蠢いている呪いを祓いきらず、弱くする程度で傑に取り込んでもらうことにした。まさかこんな場所で久々に呪術を使うことになろうとは。
 それを終えると呪物を見つけ出し、これが元凶だと話し、壊した。あまり呪物で呪霊を集めると高専の目に付くかもしれないから。
 仕事を終えると、私達はやっと観光することとなった。人で賑わっている中、私達は美々子と菜々子が寄りたい店について行った。

「君も行きたい場所があれば付き合うよ」
「美々子と菜々子の行きたい場所が私の行きたい場所だよ」
「大人になったね」
「自分は最初から大人だったみたいな言い方でムカつく」
「ふふ、私も子供だったよ。君に意識してほしいと必死だったしね」
「カッコつけてた。今もそうだし」
「男なら好きな子にカッコいいって言われたいだろう?」

 彼はそっと私の手に触れて繋ぐと、私はそれを握り返した。あぁ、こうして手を繋いで歩けるなんて、幸せだ。そう感じて自然と笑みが溢れた。
 観光を終えて旅館へ帰って来ると、美々子と菜々子が早速、土産を開封しており、早いなぁ、と苦笑する。

「夕飯を出してくれるみたいだから、あまり食べちゃダメだよ」
「はーい」
「私は風呂にでも入ろうかな」
「大浴場!?」
「いいや、私は部屋についている風呂だよ」
「勿体ない……どうせなら広いお風呂で皆で入りたかった」
「年頃の子と入るのは少し恥ずかしいなぁ」
「はは、私と入ろうか、美々子、菜々子」
「久々だ!」

 家のお風呂は狭いし、最初は入っていたが、最近は入っていなかった。たまにはいいだろう、と私達も準備をして、大浴場へと向かった。

「夏油様、何か言ってた?」
「何かって、何の話?」
「まだだよ、二人きりじゃないし」
「私達邪魔かな」

 本当に何の話だ、と考えていると、二人は何でもない!とその話を終わらせた。傑から何かあるのかな、と何だか少し不安を感じた。
 貸切の大浴場は、私達の為に湯を張ってくれたらしい。申し訳なく思いながらも、美々子と菜々子とゆっくり過ごさせてもらった。
 部屋に帰った頃には食事が運ばれて来ていて、私達はそれをいただいた。久々の外食に私は料理しない日もあっていいなぁ、と本当に羽を伸ばしていた。

「あぁぁ……自覚していなかった疲れが取れていく……」

 ベタっと畳に寝転がれば、美々子も菜々子も色々と店を回ったり、日常でしないことをしたからか、疲れて今にも眠ってしまいそうだった。

「二人とも、布団で寝なさい」
「何かもったいなくて……」
「もったいない?」
「折角、皆で旅行来れたのに、寝ちゃったらもったいないでしょ?」
「大丈夫だよ、また行こうか。四人でね」

 傑の言葉に、彼女達は嬉しそうに笑うと、安心して敷かれた布団で眠った。数分もしないうちに寝息を立て始める二人に私はおかしくて笑ってしまった。

「可愛いなぁ……私達が出会ったのも、このくらいの年?いや、あと一年後くらいか」

 景色の見える窓側、広縁にある席に腰掛ける傑の元へ行き、目の前に座ると、彼はそうだったね、と茶を啜る。

「そう思えば、私達も長い付き合いだ」
「その内の五年は眠ってたけど」

 すると傑は美々子と菜々子を見た後、窓の外に視線を向ける。

「……少し、夜の散歩に出掛けないか」
「いいよ」

 私達は浴衣姿で旅館を出て、人の少ない川沿いを歩く。少し、恋人気分を味わいたくて、彼の腕にそっと触れると、それに応えてくれるように腕を組んでくれる。密着して外を歩くなんてこと、私達はあまりない。だからか、恋する少女に戻ったような、そんな気持ちになった。

「本当、可愛いね君は」
「え?」
「そんなに私の隣を歩くのが楽しいかい?」
「いいじゃん、別に……」

 そんなにニヤついてたかな、と恥ずかしくなり俯くと、彼はそっと川の側へと続く階段を下りて行き、そこにあったベンチへ腰掛ける。ここが目的の場所だったのかな、と私も同時に隣へ座る。その場所は川のせせらぎが静かに聞こえ、心地良い風が吹く場所だった。まだ開いている川沿いの店の明かりが川にキラキラと反射していた。その水面をぼんやり眺めていると、傑はふと笑いながら、私を頬を撫でた。

「君は今、幸せだろうか」
「え?それは、もちろん」
「私は君に幸せになってほしい。君は人を愛することも出来るし、助けることも出来る。優しさを与えることだって出来る。ただ、その相手が私という人間に向けられていることで、不幸になっている気がするんだ」
「……別れ話?」
「どう受け取るかは君次第だよ」

 突然すぎて、何の考えにも至らなかった私は黙って彼の話に耳を傾ける。

「昔も言ったけど、好きな人には幸せになってもらいたい。私では君を幸せに出来ないと、」
「私、その時に自分の幸せは他人に決めるものじゃないって話をしたはずだよ」
「そうだね。でも時々考えてしまう。私と共に歩む道の先で君が笑っているのかどうか」

 彼は本当に狡い人だと思う。私の気持ちをこうして弄ぶ。あの新幹線で私を振っておきながら、好意があると示してくる。そしてあの村落で私を置いて行ったのに、迎えに来た。傑しかいないのだと、この道しかないのだと思わせておいて、またこうして突き放そうとする。本当に、本当に狡くて、自分勝手な人。

「傑は私がいなくたって大丈夫だと思う。だけど、私は傑がいなきゃダメだって思うの。もう傑を好きになってしまったから、どんな形であれ、好きな人と一緒にいられる時間が幸せだと感じてしまったら……もう後戻りは出来ない。今更離れた所で、これ以上の幸福は得られないと、私は思ってるよ」
「……そうか。やはり私は悪い男だな」

 私は今まで過ごしてきて、どれだけ傑に依存しているかが分かった。それと同時に、彼が私に幸せになってほしいと、自分といてはそれが叶わないと思っているのが、彼の本音で。きっと私がここを去って、ただの一般人として過ごしたり、高専に帰る道を選んだら、どれだけ気が楽になるだろう。でも、私はその道は選ばない。

「どうせ傑は、私が離れて幸せになろうが不幸になろうが、寂しくなって迎えに来るよ」
「ふふ、そうかもしれないね」
「私がいることで傑が不幸になるなら、それは嫌だけど、そうじゃないんでしょ?だったら傍にいさせて」
「……それなら、誓いを立てようか」

 彼はそっと私の手を放し、立ち上がると、私の目の前で跪く。それに一体何をする気だ、と困惑していると、彼は私の左手を取った。

「私が死ぬまでずっと、私に縛られて生きていくと誓ってくれる?」
「な、何それ……」
「愛の誓いだよ」
「呪いみたい」
「ふふ、それは確かに。ある種、呪いの言葉となるかもしれない。でも言葉通りの意味だ。私に縛られてくれるかな」
「誓うよ。私達の終焉が例え不幸だったとしても、それで構わないから。傍にいて」

 ギュッとその手を握り返すと、彼は愛おしそうに私を見つめ、ふと笑ってその手に唇を落とす。

「あぁ。それじゃあ私も誓うよ、ずっと君だけを愛して、私なりに精一杯、君を幸せにすると。最期には私を選んで良かったのだと思ってもらえるように努力しよう」
「はは、何か照れ臭い……けど、嬉しいよ」
「それじゃあ、目を瞑って」

 いつも通り、彼はキスをしてくれるのだろう、と私は目を瞑ってそれを待つ。しかし、その割には時間が経っているし、繋いだ手が揺れているのを感じた。それに私は目を開こうとすると、すぐにキスされ、声を発する余裕もなく、再び目を瞑るしかなかった。軽いキスだけで終わった為、離れて目を開けると、彼は私の左手を自身の手に添えるように動かすと、静かに話をする。

「誓いの言葉も、誓いのキスも済んだ。あと、足りないものがあるよね」
「え?」
「私達の指に、その証がない」

 そう言って彼は左手にキラリと耀くダイヤが埋め込まれている銀色の指輪があり、私は更に困惑する。そんなもの、ずっと手に入らない物だとばかり思っていた。それはスルリと私の薬指にピッタリと収まった。

「君も、私にくれないか?」

 傑の指のサイズに合わせられた指輪を受け取る。これ以上ないというほどドキドキと高鳴る鼓動がきっと彼にも伝わっているはず。そのくらい、私は幸せを感じていた。
 差し出された左手の薬指にそっと嵌めていく。ピッタリと収まったそれに、彼は満足気に笑った。

「集会の時は外すかもしれないけど、それ以外は付けておくよ。君も、そのままでね」
「……信者のお布施で作られた指輪だ」

 バカでまだ子供な私は、嬉しいのにそれを素直に口にすることが出来ずにいた。だが、彼はそれをおかしそうに笑う。

「そう言ったら、君は猿のお布施でご飯を食べているんだよ?」
「……嬉しいって、素直に言えなかっただけ」
「君の表情を見ていれば分かるよ。可愛いね」

 隣に座り直した傑は、私の頭を撫でる。私はただひたすら、おもちゃを買い与えられた子供のようにその指輪を眺めていた。

「すまないね、綺麗なウェディングドレスも、式場も用意出来なくて」
「そんなのいらないよ……十分すぎるほど、幸せだから」

 暫くそうしていたが、私はふと疑問が思い浮かんだ。美々子と菜々子が傑に何かを吹き込んだことは確実だが、それはきっと昨日の今日だ。指輪を用意出来る余裕などなかったはず。

「この指輪、いつから?」
「君が記憶を取り戻してすぐにね。眠っている間に指輪の大きさを測って、作ったんだ。でもなかなか渡す機会がなくて。君の幸せについても悩んでいた所だったし」
「で、あんな試すようなこと言ったんだね」
「君らしい答えで安心したよ」
「はぁ……美々子と菜々子には何て言おう。何かすごく結婚に拘っていたみたいだし」
「あぁ、それも知ってるんだね」

 何をどう聞いたのか、と考えていると、彼は昨夜のことだろうか、それを思い出して笑うと、その出来事を話す。

「昨日、帰って来たらテーブルにゼク○ィが置いてあってね。その本には君が結婚したがってると書かれた付箋が貼られていたよ」
「はぁ……」
「君に結婚願望があるなんて思ってなくてね、驚いたよ。その本を読んでみたら、眠るのが遅くなってしまって。あとは、美々子と菜々子の選んだ君のウェディングドレス案だね」
「何してるの、あの子達は……」
「どれも君に似合いそうだったから、着てほしいんだけど、お預けかな」
「余計に心配になってきたよ、二人に伝えるのが」
「私も明日に一緒に説明しよう。ママにばかり子供を押しつけるのもどうかと思うしね」
「パパは胡散臭い教祖やって忙しいからね」

 もう見慣れてしまった格好だけど、と思っていると、彼は酷いな、と笑いつつ、私を抱き寄せ、そっと私の指輪に触れる。

「昔、君の薬指を噛んだこと、あったよね」
「あぁ……うん」
「あの時からずっと、ここに絆創膏ではなくて、指輪を嵌めたいと思ってた」
「学生時代から重いことを考える……」

 意外と昔からそうだったんだな、と考えていると、悟にも言われたな、と彼は笑う。

「それをあの日の夜、夢で見たんだ。起きたら記憶を取り戻してる君がいて、指輪を作ろうと思ったんだ」
「それを渡せずにいたんだね」
「今、やっとあるべき場所に収まった」

 私も彼の大きな手に指輪があるのを見てむず痒くなっていた。それに、彼は私の肩に頭を預け、体重をかけてくる。

「この家族旅行も、今この瞬間、新婚旅行に変わったんだから、もう少しこのままでいようか」
「……そうだね」

 私達は身を寄せ合い、川のせせらぎに耳を澄ませながら、二人だけの時間を楽しんだ。ただただ幸せなこの時が永遠となれば良いのに、そう感じていた。

 昨夜は傑と二人の時間を楽しんで、深夜に帰って来て眠った。
 今日は旅館にいて、まだゆっくり眠っていても良いはずなのに、私は早朝に目を覚ましてしまった。気持ち良さそうに眠っている三人を見て、私も二度寝しよう、と再び眠りに落ちた。

「えぇっ!指輪してんじゃん……!」
「しっ、起きちゃうよ」
「一枚だけ写真撮っていいかな!?」

 カシュ、とスマホのシャッター音と彼女達の声で目が覚める。菜々子の所為で起きちゃったじゃん、と美々子は菜々子を責める中、私の意識はまだぼんやりとしており、隣で眠っている傑を見てから、起きている彼女達に視線を向けた。

「おはよ……」
「おはよう」
「おはよ!ねぇねぇ、私達に言いたいことあるんじゃない!?」
「……傑が起きてからね」

 彼女達は早く聞きたいのか、いつもはしないのに、彼の名を呼びながら傑を起こす。彼は眠そうにしながらも、いつもとは違う荒っぽい起こされ方をされたからか、流石に目を覚ました。

「うぅん……おはよう……」
「夏油様、指輪!」
「プロポーズしたの?」
「指輪、プロポーズね……したよ……」

 まだ眠そうな声で枕に顔を埋めながら話す傑。もっと聞きたい、と叩き起こされており、私はそれがおかしくておかしくて、お腹を抱えて笑ってしまった。

「教えて!ウェディングドレスは!?」
「着たよ、私が普段着たことのないものだった」
「チャペルは?」
「チャペルではなかったけど、素敵な式場だった」
「新婚旅行はいつ?」
「もう深夜の間に行っちゃった」
「えぇー……」
「もっと話聞きたいのに!というか、それを私達が寝てる間に全部やっちゃったの?」
「ごめんね、二人きりが良かったんだ」

 傑はやっと起き上がると、私の肩を抱く。それに二人はそれもそうか、と口を尖らせる。

「プロポーズの言葉は?」
「それも私達だけの秘密」
「子供は!?」
「こ、子供か……」
「ふふ、いずれね」

 嬉しそうにする美々子と菜々子の質問に、私達は昨夜の出来事や今後のことをはぐらかした。

「悪いけど、それ以上は答えられないな。夫婦だけの秘密っていうのもいいだろう?」

 それが魔法の言葉だったかのように、彼女達はピタリとそのことに関する質問はしなくなった。しかし、時折指輪を見ていると二人が揶揄ってくるのは、少し照れ臭い。でもそんなやりとりでさえ、私は幸せを感じている。また本当の家族に近づけたような気がして、私は嬉しくなると同時に、裏で行われている不幸を考えていた。

「どうか今だけは、私達が幸せを得てしまうことを許してくたさい」

 その代わり、私の終焉は不幸で構わないから。多くの人の幸せを踏み躙る世界で生きる私の心ははきっと、それで救われるから。


***


 とうとうこの日がやって来た。事前に知らされていたことだが、改めて呪術高専を落とす、という彼の言葉を聞いて、私は心臓が押し潰されるような、緊張と不安を覚えた。

「君は行かなくていい」
「え……?」
「相手に殺意があるとはいえ、君に人は殺せないだろう?」

 目覚めてから約五年間、初めに傑が私に触れた非術師を殺してからは人の死を見たことはない。けれど、裏で何をしているかなど、訊かなくても分かる。ただ傑が、皆が私の目に触れないようにしてくれていた。このままずっと彼らに気を遣わせながら、どっち付かずのまま生きて行くのか。傑と生きると誓ったのなら、ここでケジメをつけておかなければならないのかもしれない。

「私も行くよ……私だったら悟の気を引けるかも。時間稼ぎくらいにはなる」
「それなら、悟が計画に気づいたら出て行って。ミゲルと足止めしてほしい」
「……うん」
「無理だと思ったら戦わなくていい」

 優しく私の頬を撫でる傑に、私はただ頷くことしか出来なかった。
 呪術高専へ宣戦布告しに行くという時も、私はついて行くことはなかった。悟は教師をしているという話だが、あの性格で教師が務まるのか?そう、懐かしい記憶を呼び覚ましながら、十二月二四日を待っていた。

 当日。私は不安が顔に出ていたのか、傑は大丈夫だよ、と呟き、出掛ける前に私の手を取ると、指輪と額に唇を落とした。

「成功すると思わなければ、成功もしない」
「分かってるよ。ちゃんとする」
「……愛しているよ。どんな君でもね」
「私もだよ……気をつけて、傑」

 まるでこれから世界を救うかのように、堂々とした足取りで去って行く。こちらは大義だとしても、彼方からすれば、人殺しの集団だ。
 私は一人、指示された通りに美々子と菜々子とは離れた別の呪霊の中に隠れて待機する。傑の呪霊とはいえ、呪霊の中にいるというのは、あまり落ち着かない。すると外から轟音が鳴り響いた。まだ開戦の合図は来ていないというのに。私は慌てて真奈美さんに連絡を取る。

「真奈美さん、外はどうなってるの?」
『予定をくり上げたの。貴女はそこにいて』
「悟はまだ気づいてないの?」
『いえ……待機していて。これは夏油様からの指示よ』
「何それ……私は出るから」

 この期に及んで何を言ってるんだ、と私は呪霊から出ると、そこには倒れた呪術師が数名と、呪霊を祓っている呪術師一人の姿があった。その呪術師はまだ余裕がありそうで、呪霊を祓い終えるとこちらに気づく。

「呪詛師だな」
「……そうだよ」

 こちらを攻撃してきた術師に、私も対抗していく。彼は弱くて、術式を使うまでもなく殺せる。殺せてしまう。彼が次に持っていた武器を振り上げた時、私は覚悟を決めた。腕を蹴り上げ、それを奪い取ると、その男を斬った。血が舞った。傑が殺した時とは違う。最初は必死にもがき、苦しんでいた彼も、アスファルトに血が広がって行くにつれ、次第に力を失っていく。最期にピクリと身体を震わせ、二度と動かなくなった。

『っ、退却よ』

 少し焦ったような口調で真奈美さんが通信してくる。私はその声を聞くまで、動かなくなった彼を見つめたままだった。初めて肉を斬った嫌悪感、この人にも家族がいたんだろうか、友人がいるんだろか、そう考えざるを得なかった。
 ふと雄の笑顔、彼の死やそれを悲しんだ当時の自身や建人を思い出し、自分のしてしまったことを思い返す。私は傑のように強くはない。大義の為にここにいるわけじゃない、傑の傍にいる為にしたことだ。どんな犠牲を払ってでも、彼が隣で幸せだと笑ってくれる、そんな世界を、そんな未来を理想を描いていただけなのに。こんなにも、難しいことだったなんて。
 私は再び、自身の手で殺した人間を見て、吐きそうになった。その場でえずき、俯いていると、アスファルトに影が揺らいだ。

「今、幸せか?」

 顔を上げなくても、その声の主が誰かは分かっていた。でも約五年振りの友人の顔を見ようと、身体を起こした。目の前には特徴的な白髪があったが、目元に巻かれた包帯で逆立っている。左目辺りの包帯は解かれていて、変わらない彼の碧眼がこちらを見つめていた。

「何、その包帯。ちょっと笑える」
「笑える余力はあるんだな」
「まぁね……皆、逃げたかな」
「オマエ以外はな」
「……そう」

 それならいいんだけど。私はどうなるんだろう。捕まってしまうのかな、それともこの場で殺されてしまうのか。ミゲルさんと共に悟の相手をする予定だったから、逃げられると思ったのに、こうなることは想定していなかった。でも、時間稼ぎにはなる。

「好きな人といるって、大変だね。悟」
「だから言っただろ。幸せになんかなれないって」
「でも、悟の手を取らなかったことを後悔はしていないよ。幸せだった」
「そうは見えないな。傑は目的の為なら人を殺すけど、オマエは違うだろ。その思想のズレでオマエは苦しむ。傑はそれを分かってたから、一旦手放したんだろ」
「……だから、一緒になろうとしたんだよ」

 そう、隣にあった遺体を見ると、悟は包帯を解き、淡々と話す。

「それってどうなの?それで傑が喜ぶってんなら、オマエらは幸せだろうな」
「……きっと、傑は私に人殺しをさせたくなかったんだと思うよ。私を、こんな気持ちにさせるから。これ以上、不幸にさせたくないと、そう思う人だから。人を殺して気づいたよ。互いに不幸になるだけだった」

 ずっと、傑は行かないでいいと、無理をしなくていいと、待機するように真奈美さんにまで指示を出していた。きっと、人を殺してほしくなかったから、こうなると分かっていたから。そんな彼の優しさから目を逸らした私に、幸せになる権利なんてない。

「私、いい死に方はしなっ……!」

 突然、身体に走った衝撃に、足元がふらついた。それと同時に、目の前にいた悟も目を見開いた。自分の身に何かが起こった、とじんわりと熱くなった腹を見ると、背から腹まで突き抜けた長い刃が見えた。ほら、ロクな死に方しない。どこからだ、と振り向くと、負傷していた呪術師の男が意識朦朧とした状態で数本のナイフを浮かせているのが見えた。そしてそれは真っ直ぐと、私の身体を突き刺していった。悟がいる前で、わざわざ私に呪いの篭ったナイフを突き刺してきた。きっと、私の殺した彼の友人か何かだろう。そうでなければ、味方である悟に任せるはずだ。彼の仇を自身の手で討ちたかったんだろう。

「やっぱり、こうなるよね……」

 私は身体からナイフを抜いていき、悟に背を向ける。

「抜いて、これ……」

 悟は何の躊躇いもなくそれを抜くと、私は痛みでその場に膝をつく。

「っ!」
「最期に、言い残すことはあるか?」
「……この死に方で良かった」
「…………」
「自業自得だもの。傑と一緒に死にたいなんて、贅沢だ」
「……介錯はいる?」
「一人で、ゆっくり、死にたい。この痛みを、暫く感じていた、い……私に、は、不幸が、お似合いだ」
「……そう」
「さようなら、ありがとう」

 私は無理に笑顔を作り、彼を見上げると、悟はそこから去って行った。これで良かったんだ。でも、美々子と菜々子を悲しませるかもしれない。ごめんね。傑も、きっと悲しむだろう、私は二度と目を覚さないんだから。
 ただ、好きな人と幸せになりたかった。幸せだと感じて欲しかった。それなのに、先に死んでしまう私を許してほしい。
 冷たく、硬いアスファルトに身を預けると、私はそのまま目を瞑った。

 ほとんど意識も飛びかけていた時だった。重い身体がふわりと宙に浮くような感覚を不思議に思い、無理矢理、目蓋をこじ開けた。そこには揺れる白髪があり、悟だとすぐに分かる。

「生きてるならラッキーだね」

 ボヤけた視界、身体を動かすことはもう出来なくなっていた。

「こ、こ……」
「呪術高専」

 壁にもたれ掛かるように、建物と建物の間の小道に座らせられた。やはり、情報を引き出す為に連れて来いと命令でもされたのだろうか。そう考えていると、彼は私の傍でしゃがみ込む。

「傑がさ、オマエには最期まで幸せになってほしいって言ってた」
「す、ぐる……?」

 何があったのか、尋ねようと身を乗り出そうとしたが、ずるりと身体が滑り、肩に何かが当たった。そちらを見ると、そこには右腕を失くした傑が項垂れている姿があり、思わず息を詰まらせた。あまりにも、ショックが大きすぎた。

「僕が殺した」
「……そ、う」
「オマエにとって、どっちが幸せなのか考えた。罪を償う覚悟であのまま一人で、傑の死も知らないまま死ぬのと、傑の隣で死ぬの。僕はこっちを選んだ」
「すぐ、る……」

 やっぱり失敗してしまったんだ。私は精一杯、手を動かして、もう二度と動かない彼の左手を握った。そこにはまだ指輪は残されていた。

「結婚、した、の……」
「……傑からも聞いた。これでオマエは幸せなの?」
「うん……じゅ、ぶん、だよ……さと、る。ありが、と……」

 一人で寂しく死んでいくのが良いと思った。だけど、私は自分に甘いから、最期まで幸せであり続けたいと、そう思ってしまう。こんな生き方をしても、愛する人の隣で死ねるのは本望だ。

 来世はきっと、傑が心から笑えるような世界になっていれば。そう願う。


 ゆっくりと目を閉じた彼女の表情は、幸せそうに見えた。言葉だけじゃなく、本心から、これで良かったのだと、そう言うかのように。

「似た者同士だな、オマエら」

 最期に見せた二人の笑顔を思い出しながらそう呟くが、返事はない。

 彼女は傑に、愛に呪われた。この最期を彼女は幸せだと言ったが、僕には理解出来ない。それでも、親友達が幸せだったと笑ったのだから、この終焉も悪くなかったのかもしれない。






back


×
「#オメガバース」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -