三・五話 彼の夢
呪術高専に入学式らしい入学式はない。その為、顔合わせをするのは当日の教室。私が一人で教室にいると、次に入って来たのが彼女だった。それが出会い。私を見るなり、笑顔を向けて自己紹介をした。
「よろしくね、席が四つあるということは、あと二人いるんだね。名前は?」
「夏油 傑、よろしくね」
「げとうすぐる……珍しい名前かも、どういう字を書くの?」
「夏と油でげとう。傑作の傑がすぐる」
「へぇ、いい名前。唯一無二って感じがする」
「ありがとう」
「傑って呼んでいい?」
「あぁ、いいよ。それなら私も名前で呼ばせてもらおうかな」
「いいよ。仲良くしよう、四人しかいないんだしね」
随分と人懐っこい性格だ。呪霊が見える呪術師同士、あまり気を遣う必要もない初めての友人。そう思うと、ただ単純に彼女が可愛らしいと感じた。
あとの二人はとにかく無愛想だった。悟は尖っていて、他人を弱い弱い、と見下している。硝子は何となく挨拶をしていたが、彼女の自己紹介を受けてからだと、随分と大人しく見えた。まぁ、結局は彼女と負けず劣らず、二人とも良い友人になれたから良かったのだけれど。
でもいつだったか、二人とは全く違うように意識していることに気づく。私は彼女に恋をした。どんな些細な仕草も癖も、よく見ていた。ただいつの間にか目で追っていて、怒る姿ですら、愛おしいとも思う。それを伝えて、望む答えを聞けたら、どれだけ幸せなことだろうと思う。でも余計なプライドが邪魔をして、良く思われたくて、カッコつけて。それでも私なりに好意は伝えているはずなのに、彼女は気づいてはくれない。君は特別なのに。
私を人誑しなどと呼ぶが、本当の人誑しは君の方だ。
二年の五月だった。新入生の七海や灰原は呪術高専での私達にとって初めての後輩で、相変わらず彼女は気さくに名前を呼んで、積極的に仲良くなろうと努めていた。
真面目で他人のことをよく見て理解している。なのに私の好意に気づかないなんて。いや、最近は気づき始めているのか、私を意識してくれているように思える。それが嬉しくて仕方がない。
ある日、また彼女が教室で眠っているのを見かけた。机に突っ伏して寝るのは身体に負担が掛からないものなのか。そう思いながら、いつも通りに上着を脱いで、彼女の背に掛けてやる。そっと硝子の席の椅子を引っ張り、側に寄せると、彼女の髪を撫でた。私と違って跳ねることもないサラリとした髪。それに反応した彼女は少し唸りながら、こちらへ顔を向けた。起きるかと思ったが、また静かに寝息を立て始める。可愛いが、ここまでされて起きないのも、危機意識がなさすぎる。
「ダメだよ、こんな姿を見せちゃ。いつ誰に襲われるか、分からないんだから」
そう呟き、髪にあった手をゆっくり頬へと持っていき、無防備な唇を親指でそっと撫でる。ダメだと分かりつつも、私も男だった。欲に身を任せ、そっと彼女に唇を寄せる。そのぷっくりとした柔らかい唇に自身の唇が触れ合うと、劣情をそそられ、同時に背徳感に襲われた。また、傍にあった彼女の手から微かに私の贈ったハンドクリームの香りがした。毎日のように彼女からそのライラックの香りがするが、そんなに長持ちする量だっただろうか。それでも私の贈った香りを気に入って、いつもそれと共にあるのは、優越感がある。
しかし君は気づかないのだろう、私がこれほどまでに君を想っているだなんて。この柔らかい唇に触れたということすら気づかず、いつものように笑ってくれるだろう。
彼女と同じ体勢で隣にいて、寝顔を眺めていると、不意に彼女は目を覚ました。そして、すぐ目の前に私がいたことに驚いて、声も出せぬまま背後に倒れていった。
「はは、驚きすぎじゃないか?」
「びっくりするよ!」
私がシャツ姿なのが気づいたようで、床に落ちた私の上着を取ると、埃を払い、申し訳なさそうに差し出して来た。
「……ありがとう」
「どういたしまして。でも教室で寝るのはやめなよ、無防備だ」
「無防備って……私も何かあったら起きるよ」
「私が来ても起きなかったのに?」
「そりゃ呪霊を出されたら起きるかもしれないけど……傑でしょ?大丈夫」
「過信しすぎてないか?私のこと」
椅子を立てて座り直す彼女に、私は上着を羽織りながらそう問うと、そう?と首を傾げる。先刻の私の行為は彼女の信用を損なうことだろう。それでも彼女の色々な表情は見たい。
「私が寝ている君を襲うって、考えないのかな?」
その小さな唇に再び指を滑らせると、彼女は頬を紅潮させたかと思うと、カブッと触れている私の人差し指を噛んだ。
「痛っ!」
「この女誑し!」
「噛むことないだろう」
「気軽に女の子の唇に触れるからいけないんだよ」
「罰が重いなぁ、暫くは消えないよ」
そう態とらしく手をプラプラとさせると、彼女はそんなに痛かったのか、と申し訳なさそうにする。彼女はとても分かりやすい、そういう所が好きなんだけど。
「そ、そんなに強く噛んだ?」
「思ったよりね」
「それは、ごめん。びっくりしたから」
「びっくりしたから噛むって、犬かな」
犬扱いはどうなんだ、と彼女はムッと眉を顰める。もう少し、私の欲に付き合ってくれないだろうか。
「私も噛んでいいかな」
「えぇ……女の子の手を?」
「何なら首でもいいけどね」
「嫌だよ、それは!」
想像したのか、目を泳がせながら自身の首を隠すように触れる。しかし、強く噛んでしまったことに罪悪感を抱いているのか、軽くね、とそろりと左手を差し出してきた。彼女は甘いな、とつくづく思いながら、そっと私より二回りほど小さなその手をとり、彼女の薬指を根元まで口に含む。
「へっ!?た、食べ、傑!」
困惑して言葉に出来ていない彼女は顔を真っ赤にさせながら、私を見ている。もっと困らせたい、そう思い、噛まずに舌でその指を弄ぶ。くすぐったいのか、ただ恥ずかしいのか、引き抜こうとする手を止め、薬指の根元を割と強めに噛む。
「いっ……!」
「……ごめんね」
やっと口を離すと、指先から舌に伸びる銀の糸がプツリと切れた。あぁ、欲を出しすぎてしまったな、と考えていると、彼女は薬指についた痕を見て、わなわなとしている。
「何で食べるの?ちょっと齧る程度でいいのに!」
「そこ?」
「手、洗わないと、ベタベタ……傑も洗いに行こう。もうこれで貸し借りなし!恥ずかしいし……」
やだなぁ、とぼやきながら教室を出ようとする。左手の薬指に痕をつけたことより、指をそのまま口に突っ込んだことに動揺しているようだ。
私達は手洗いをすると、彼女は痛いな、と口を尖らせながら洗い、それを終えると、ハンカチで拭き、ジッとその痕を見る。そしてその位置にやっと気づいたのか、私の背をベシッと叩く。
「どうしたの?」
「最悪!恥ずかしい!どう隠せばいいの!」
「指輪でもしたら?」
「そ、んな相手いないし……」
「いると思ってたら、痕なんてつけてないけどね。寝取ったみたいじゃないか」
「あぁ、もう!絆創膏貼っとく!」
怒ってそのまま去って行く彼女に、私はその後を追って行く。彼女は医務室に行き、絆創膏を一つ取り、使った物を用紙に書き込む。黙ってその場で薬指に巻きつけようとするが、根元だからか上手くいかない。
「やってあげようか」
「……お願いします」
これは素直というよりかは、諦めが早い。不満気に絆創膏から手を離すと、私は代わりに絆創膏を薬指に巻きつけた。これが指輪だったなら。そう考えずにはいられない。
「傑は絆創膏いらないの?」
「私はいいよ。貼りづらい形しているしね」
ばつが悪そうな顔をする彼女に、私は気にしなくていいのに、と可愛らしく思え、彼女の頭を撫でた。
「何で撫でるの」
「面白いと思ってね。表情豊かで」
「……馬鹿にしてるでしょ」
「してないよ」
また拗ねてしまった。正直、怒っている時の彼女は可愛らしくて好きだ。だから少しいじめたくもなるし、可愛がりたくもなる。撫でられるのは嫌じゃないんだろう。だから手を払わない。やはり少しいじめたくなる。
私はそっとその手を頬に持って行くと、その場所がますます紅潮していくのが分かった。彼女はそれを避け、そそくさと医務室から出ると、教室へと帰って行く。それを再び追い掛ける。
「また私に誑しこまれたと言うかい?」
「別に私はそんなんじゃないから。いい加減、私で遊ばないでよ」
「そういうつもりじゃないんだけどなぁ」
彼女は私を人誑しだと言うが、私が誰かを誑し、自分の意のままにしたのを目にしてきてはいない。どこをどう見てそう思ったのか。でも、悪いことじゃないのは分かる。少なからず自分が口説かれていることを自覚し、確実に私を意識していると分かるから。
教室に入ると、そこには既に夜蛾先生と悟、硝子が待っていた。
「オマエ達、遅刻だ」
「五条より遅いのは珍しいな。しかも二人同時に」
「連れション?」
「異性を連れションに誘う人いないでしょ」
彼女は答えることなく、悟の言葉に突っ込んでから、すみませんでした、と謝って席に着いた。私は敢えて医務室に行ってました、と言うと、椅子にダラシなく座っていた隣の悟が私の手を見て、あ、と声を上げる。さぁ、突っ込んでくれて構わない、と悟の言葉を待っていたが、何も言わずにスッとキレイに座り直した。硝子を見ると、硝子も何も言うまい、と視線を逸らした。この二人、態と触れないようにしているな。
「では、今日の任務を伝えるが……」
夜蛾先生までスルーだ。当の本人は言うわけがないし。後で悟にだけ自慢しておこう。私が彼女の話をすると鬱陶しがられるが。
悟と二人で任務に向かっている途中、私はパッと噛まれた手を見る。
「噛まれたんだ」
「見て分かるっての。ヤったの?」
「そんなはずないだろう。唇に触れたら、噛まれたんだ」
「何で噛むの?」
「驚いたんだって。可愛いよね」
「アイツの話ししてる時のオマエが一番キショいわ」
無理無理、と距離を取られる。どこがキショいというんだ。私は普通に恋してるだけだろう。
「悟も好きな子が出来たら分かるよ」
「俺もそんなニコニコしながら噛まれた手とか見せるようになんの?嫌なんだけど」
「何かあると自慢したいってこと」
分かってなさそうな悟は、途中で缶ジュースを買って、飲みながら歩く。それで思い出したように話をする。
「この間さ、アイツが期間限定のヨーグルトサワー飲んでて」
「また甘そうな物を……」
「で、俺も欲しくなって、アイツの飲み掛けのやつ奪い取って飲ん、」
「は?」
間接キスしたってことか?私が彼女のことを好きだと知っていながら?何て奴だ、挙句にこの話を自慢話にするなんて……
私は思わず足を止め、悟の行動に愕然としていると、彼はまぁ聞けよ、と話を続ける。
「俺もそれで気づいたんだよ、傑に怒られると思って」
「そうだね、今日それを直接上書きしたけど」
「……は?ヤバい発言聞いたんだけど」
「何でもない、続けて」
思わず口走ってしまったが、悟の話を最後まで聞こう、と話すように促すと、彼は術式を使って空き缶を小さく潰しながら話す。
「で、俺も口走ったんだよ。間接キスしたら傑に怒られるって。そしたら傑はそんなことで怒らない≠チてさ。分かる?俺の言いたいこと」
「分からないな、自慢話にしか聞こえない」
「だからそのねちっこいのやめろって話。アイツの中の傑はそんなこと気にしない奴なの。実際違うけど」
「どこがねちっこいんだ」
私はいつも彼女にカッコいいと、意識してもらえそうな行動を取ってるつもりだ。それで彼女にいつも意識してもらえているのだから、それでいいと思っていた。悟のようにガサツなやり方はしない。
「さっきだってヤバい話してたじゃん」
「してないよ。唇に触れたら噛まれたって話だ」
「その後も口走ってたでしょ、上書きしたとか」
「それは、私に非があるかもしれないけど……」
「ヤバいことしてるじゃん」
「また無防備に寝ていたから、少し魔が差したんだ」
「で?キスしたの?」
「柔らかかった。傍あった手から私の贈ったハンドクリームの香りがして……」
「犯罪者の話聞いてるみたい」
悟は、もう聞きたくねぇ、と耳を塞ぐ。それに私はそれでも言っておかなければ、と厳しく言う。
「寝取るようなことやめてくれよ?私は君の所為で失恋したと知れば、親友をやめたくなる」
「知るかよ。絶対アイツ、傑のこと好きだって。さっさと告白すりゃいいのに。童貞かよ、ヘタレ」
「それは悟だろう」
「は?経験済みだし」
どうだか。そう思いながら、親友の性事情を知りたいわけでもないから、黙っていた。直接キスはしたものの、寝ている時だったし、いつか、彼女が起きている時にキスがしたい、と考えながら片手間に任務をこなした。
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