三話 私達の青春は。A





 キッカケは何だったのか分からない。それでも、いつの間にか傑を目で追っている自分がいることに気がついた。でもどこかで彼は厄介で、良い方向に進むか分からないから、やめておけ。と自身に警鐘を鳴らしていた。彼は誰にだって優しい。そうやって誑かすって分かってるんだから。私はそう思いながら、自習中に隣の席の硝子越しに傑を睨みつけていた。

「熱烈な視線を感じる」
「夏油、何かしたんだろう」
「何かしたつもりはないけどね」
「あれだろ。傑がシャンプーがないって女子寮のシャンプー勝手に使ったから」
「ちょっと、あれ高いのにやめてよ!」
「一回だけだよ、一回だけ」

 買うの忘れてたんだ、と苦笑する彼に、私はまぁいいけど、と視線をノートに向け、ペンを走らせた。
 昼になり、悟と傑が昼食を買いに教室を出て行くと、既に用意してあった私と硝子はその場で食べ始める。すると硝子は弁当を食べ始めた私をジッと見つめる。

「もしかして、夏油のこと好き?」
「へ?」

 図星を突かれた私は素っ頓狂な声を上げると、硝子はいやだって、と言葉を続ける。

「ずっと睨んでるでしょ。怒ってるわけでもないのに」
「うーん……どうしよう」
「やめときなよ」
「だよね、私もそう思ってる」

 人誑し、と私は机に突っ伏すと、硝子はやれやれ、と私の頭をツンと突く。

「アレのどこがいいの?」
「彼、モテる要素ばかりだと思うけど……愛想がいいでしょ?でも時々意地悪で……人誑しだと思う」
「私には分からないな。いて楽しい奴らではあるかもしれないけど、アイツらクズだし」
「そういうの、好きにならきゃ分かんないのかも」

 でもこの気持ちは留めておこう。彼は私のことなんて、何とも思っていないんだから。

 その日の任務は悟と傑と私の三人だった。いつもと変わらない簡単な任務が終わり、帰ろうとした。そこにポツリポツリと降り出した雨は、次第に傘がなければ水浸しになるほどのザザ降りとなる。デパートの屋根の下で雨宿りをしながら、私達は灰色の空を見上げていた。

「あーぁ、傘、持って来てないよ」
「俺は無限でどうにか出来るけど」
「私達が問題だね」
「オマエ、傘買って来いよ」
「えぇ、何で私が……」
「だって今回の任務、何もしてないじゃん」
「私も疲れたなぁ」
「うぐ……っ」

 そう言われると困る。私は仕方がない、と雨宿りをさせてもらっているデパートで傘を買おうと入って行った。少々値が張るが、普段からあの二人に奢ってもらっているし、今日くらいはいいだろう、と傘を三つ買う。デパートを出ると、私がいないちょっとした合間に、恐らくは私達と同じように雨宿りをしている女子高生二人が悟と傑と話をしている。いつも声を掛けられてるな……と思わず溜息を吐く。

「すまないね、恋人がいるんだ」

 傑のその言葉は本当のことなのか、また私にナンパ避けをしてほしいのか分からない。それでも私は彼らに声を掛けた。

「お待たせ、傘買って来たよ。好きなの選んで」

 それに気づいた彼女達からの視線を感じた。負けるか、と耐えていると、悟は俺はこれ、と一本選び、傑もありがとう、と礼を言いながら、傘を取ると、彼女達にそれを渡した。

「まだ雨は止みそうにないからね。気をつけて」

 そう言って優しくする。人誑しめ。私は内心そう思いながら手元に残った傘を差す。

「じゃ、傑は傘なしってことで」
「濡れて帰れよ」
「何言ってるんだ?私は君の傘を借りるよ」

 傑は私の差した傘に入ってくると、私の手から傘を取る。これは相合い傘だ。嬉しいような、照れるような。彼はこういうことを平気でやって来る。

「さ、行こうか」

 私達は歩き出すと、悟はオェ、と声を上げた。

「意味分かんね。人に買わせた傘を他人に渡すとか」
「分かる」
「だからといって放っておくのもね。いいじゃないか」
「二度と会わない人間に優しくする必要あるか?」
「まぁまぁ、傑は人誑しだし」
「そう言うってことは、君も私に誑かされているのかな?」
「誑かされている人間は、誑かされていることに気づかないよ。彼女達みたいに」

 私は最初から彼の人柄を見抜いている。誑かしている彼も好きなんだ。あぁ、馬鹿馬鹿しい。彼女達をとやかく言う権利は私にはない。

「はは、顰めっ面」

 そう笑う彼に、私の気持ちを悟られたくはない。


***


 バレンタインは、私にとって女友達と手作りチョコを交換し合うくらいのイベントでしかなかない。そのくらい恋愛とは縁遠いものだった。だから今年も、と思ったが、硝子は手作りチョコを作るタイプでもない。既製品のチョコでも買ってバレンタイン気分でも味わうか、と考えていたのだが。

「なーんか、甘い物食べたいよな」
「分かるな。チョコなんかいいらしいよ、頭の回転が良くなる」
「マジ?チョコ食べたくなってきたー」

 明日がバレンタインであることを分かっていて、会話している悟と傑。これはおねだりなのか?ここまで露骨なのは初めてだ。硝子は明らかに無視しているし、私もあげる気はない。だって、気持ちを伝える気もなければ、気恥ずかしい。チョコを渡してもメリットが何もない。

「ねぇ、硝子。今、バレンタインフェアがやってるらしいから、一緒に行かない?」
「甘いの苦手なんだけど」
「最近、洋酒入りチョコが流行ってるらしいよ、私は食べたことないんだけど……」
「うーん、試してみる価値はあるな、たまにはいいかも」
「でしょ?ちょっとお高いの買ってさ、贅沢気分味わうのもいいかなって。自分チョコっていうの」
「じゃあ、放課後行こうか」
「うん、そうしよう」

 彼らは興味なさそうな素振りをしているが、明らかに私達が話し始めてから黙り込んでいる。そんな欲しいのか?男心は分からないな。

 放課後、硝子と共にデパートに特設されているチョコ売り場へと向かう。女性客で混雑する中、可愛らしい見た目のチョコや、ブランドチョコを見ていく。

「夏油には買わないの?」
「買わないよ……というか、今日おねだりしてたよね」
「ウザいな」
「渡すのも何だか気恥ずかしいし、硝子も渡さないでしょ?」
「倍にして返すってなら、渡してやらんこともない」

 流石は硝子、抜け目がない。確かに、そういう理由なら渡せるかも?いや、渡したいとか思ってない、思ってない。そう心の中で葛藤していれば、それを見透かすように硝子は続けて話す。

「私達からってことで、一つずつ渡したら?で、ホワイトデーは倍」
「うーん……それなら気恥ずかしいこともないかも」

 硝子の提案に乗り、私達は彼らに適当なチョコを選んでは高専へと帰った。

 翌日。教室に入ると、遅刻魔である悟も早くに来ており、傑も一緒にいた。それに若干呆れる私達は出し惜しみすることなく、昨日買ったチョコを渡す。私は傑に手渡した。どういう反応をするのか、と少し緊張する。

「私達二人からってことで、どうぞ」
「ありがたく受け取り、来月は倍にして返すように」
「楽しみにしてるよ」

 まるでそれが目当てのように私も振る舞うと、彼らは本当に買って来るとは思わなかった、というようにチョコを見ている。

「何が欲しいの?どのブランドもん?」
「チョコの何倍よ、それ……」

 お返しに悩む悟に、金持ちの考えることは違うな、と思っていると、傑は私を見る。

「嬉しいよ。来月、ちゃんとお返しするからね」

 悟は硝子と何かを相談していたが、傑から何が貰えるんだろう。私は少しドキドキとして、そして期待してしまっていた。

 翌月、ホワイトデーは皆が個別の任務などで忙しかった。その為、ホワイトデーなど考える余裕もなくその日は過ぎようとしていた。しかしやっと夜に帰ると、傑からメールが届いていたことに気づく。『何時頃帰ってくる?』という内容に、私は『今帰って来たよ』と返した。コンビニで買って来た弁当を食べながらテレビを見ていると、玄関からノック音が聞こえた。

「帰ってる?」

 すぐに傑の声だと分かり、私は開いてるよ、と声を掛けると、彼はお邪魔します、と部屋へ入って来た。

「鍵を掛けないのは不用心すぎないかい?」
「食べたらシャワー行こうと思ってたから。寝る時は掛けてる」

 私は何か用だろうか、と彼を見ると、傑は座っている私の側に座ると、ラッピングされた箱の入った紙袋を目の前に差し出して来た。

「もしかして、ホワイトデー?」
「そう。気に入ってもらえるか分からないけど」

 そっとラッピングを解き、中を見ると、そこにはブランドのボディーソープとハンドクリームのセットが入っており、私は本当に高いやつだ、と少し気が引ける。

「本当に倍になって返ってきた……ありがとう、硝子にもこれを?」
「硝子には悟が。ご希望の日本酒をね」
「学生の贈り物じゃないね、開けるのは数年後にしてほしい……」

 まだ未成年なんだから、と息を吐くと、まぁまぁ、と傑は苦笑する。

「それで、気に入ってもらえたかな?」
「うん。勿体ない気がするけど、今日から使うよ」
「あぁ、君の香りが明日から私が選んだ物になると思うと、嬉しいものだね」
「何それ……」

 まるで独占欲でもあるような言い方。私は意識してしまって恥ずかしくなっていると、彼はそっと私に顔を寄せる。

「今の香りも好きなんだけどね」
「っ……!」

 任務帰りで汗かいているのに!それ以前に嗅ぐか?と私は困惑しながら身体を反らすと、彼はふと笑って立ち上がる。

「すまない、失礼だったかな。じゃあ私はこれで」

 そう言って彼は部屋から出て行くと、私は唖然とした。彼は私を戸惑わせるのが上手い。
 ボディソープもハンドクリームも使ってみた。甘い花のいい香りがして、私好みだった。ただ、部屋であった出来事にドキドキして、私は彼に弄ばれていると感じた。好きだって、バレてるのかな。
 そんなことがあったからか、昨夜はあまり眠れず、早めに身支度を済ませて教室にやって来た。当たり前だが、私が一番乗りだ。早起きしてしまった日は早めに教室に来ては、二度寝をしている。そうしたら必ず誰かが起こしてくれるから。今日は冷えるな、と思いながらも、机に伏せて眠った。
 暫くすると、教室の扉が開く音がして軽く目覚めてしまった。しかし、頭はぼんやりとしていて、睡魔に勝てない。

「こんな寒い教室で……冷えるよ」
「にぇむい……」

 傑の声だと気づき、私は寝惚けた声を出すと、思ったよりふにゃついた力が入っていない声が出てしまった。それに彼はふと笑う。

「ふふ、寝惚けてる?寝足りない?」
「ん……」

 すると、背に温かい物が触れた。彼の手だと遅れて分かると、私は辛うじて開いた目でそちらを見ると、すぐ傍に傑がいるのが分かった。

「私が贈ったボディソープの香りがする」

 そっと私に身を寄せるように覗き込んだ彼の香りまで私に伝わってきた。その瞬間、心臓が止まってしまうのではないか、というくらい驚いた。唇が触れ合いそうな距離に、私はまた机に伏せた。

「か、嗅がないで」
「すまない。でも、いい香りがするね」

 彼は意地悪だ。私の気持ちがバレて、弄ばれていると、疑いが確信に変わった。

「意地悪……」
「つい、可愛くてね」

 その言葉に再び顔を上げると、彼はいつもの笑顔を向けてきては、私の髪をサラリと撫でた。その時、教室の扉が開き、硝子がやって来た。傑はパッと手を離すと、彼女におはよう、と声を掛けて席に着いた。硝子は私の隣の席に着くと、思い出したように私に話す。

「五条にレアな日本酒貰ったわ」
「学生が貰うもんじゃないんだよなぁ……」
「私はボディソープとハンドクリームを贈ったよ」

 傑がそう言えば、私は持って来ていたハンドクリームをポケットから取り出すと、硝子は手を差し出してくる。

「ちょっと頂戴」
「じゃあ私にも」

 二人に少しずつ分けると、いい匂いがする、と自身の手を嗅ぐ。

「これから暫く、これが君の香りになるんだね」
「変態っぽい発言」

 硝子が呆れたように言いながら、私を見る。彼女が言いたいことは分かる。そういう関係になったのか、と訊きたいのだ。

「揶揄われてるの」
「へぇ」

 面白いのだろう、ニヤリと口角を上げる彼女に、私はこのことが悟にバレたら、全員に揶揄われ続ける。と深く溜息を吐いた。また教室の扉が開いたと思えば、悟が欠伸をしながら入って来る。

「何か甘い匂いする」
「私が彼女に贈ったハンドクリームだよ」
「あー、こんな匂いにしたの?女って感じ」
「じゃあ私の手からも女の子の匂いがするね」
「似合わねぇ……」

 確かに傑からこんな香りがしたら驚くかもしれない。硝子が顔と匂いが一致してない、と両手をすりすりと擦り合わせると、悟は私達が全員がハンドクリームをつけているのだと気づく。

「俺も頂戴、カサカサだわー」
「悟ってハンドクリームと縁がなさそう」
「何で?」
「スキンケアしない人間に見える。綺麗なくせに」
「それ、褒めてんの?バカにしてんの?」
「褒めてる褒めてる」

 私はハンドクリームを悟に少し分けると、彼は女の匂いになった、と満足気に席に着く。自分だけしてないのは嫌だったのか?と少し可愛げがあると思っていれば、傑と目が合った。

「ボディソープも試させてもらおうかな」
「もう同じの買ったら?」
「そういうことじゃないんだけどな」

 何を考えてるんだ、と私は眉を顰めると、彼は理由を語ることなく、自身の骨張った男性らしい手を撫でた。それを見ていた悟は特に何も言うことなく、自身の手を嗅いでいた。


***


 七月末頃、暑いこの季節に悟と傑が喧嘩して、男子寮を破壊したらしい。時々、校舎を破壊する所は見たことがあるが、自分達が住む寮でまで喧嘩するか?と私と硝子は呆れながら、夜蛾先生にこっ酷く叱られている二人を瓦礫の山の隣で遠目に見る。

「何で喧嘩したんだろう」
「どうせくだらないことでしょ」
「それはそうだけど」

 やっと説教が終わり、夜蛾先生が眉間に皺を寄せながら私達に話す。

「悪いが、修繕工事中は女子寮の余っている部屋を使わせてやってくれないか」
「あのクズ共は外で寝かせばいいんですよ」
「でも夏だしなぁ、おバカでも人権はあるよ。それに、建人と雄が可哀想」
「割と酷いことを言う……」
「いーじゃん、許可取んなくても。女子寮はオマエらのもんじゃねぇぞ」
「シャワーや洗濯機も共用だ、時間を合わせる必要があるだろう。オマエ達は自由に出入りしてるようだが、男が女子寮に入るな。逆も同じだ」
「私達の面倒が増えるだけじゃないですかー」
「だから頼んでいるんだろう」

 別に私は問題ないけど、と考えていたが、硝子がとても不満そう。確かに硝子はシャワーの時間がバラバラだったりする。入りたい時に入るって感じだから、その自由が奪われるのは嫌なんだろうな。

「いいだろ、シャワーくらい。部屋が分かれてんなら。傑はラッキースケベ期待してるムッツリだけど」

 その言葉に傑は悟を殴った。どうせ喧嘩理由もこんなくだらないことなんだろう。前にも悟の生活態度がどうとかで傑が叱っていた気がする。でもこれは喧嘩っていうより、小規模な戦争だ。

「少しの間だし、まぁいいじゃない。掃除してもらったり、奢ってもらったりしようよ」
「仕方ない。例のブツで取引だ」

 全員がタバコだろうなぁ、と思いながら、任務がある為、その場で解散となった。
 その夜、シャワーは時間帯で分けることとなり、洗濯ももちろん別になった。私はいつも通りに過ごしていると、硝子から『男共は入り終えたみたいだし、もう入ってもいいって』とメールが来た為、早めにシャワーを浴びたい私は『今から浴びて来るよ』と返して着替えを持ってシャワー室へと向かった。
 誰もいない脱衣所で服を脱ぎ、私がいつも使っているシャワー室へ入る。湯船もない、プールで見るような簡易的なシャワー。肩から下、膝上までを隠すだけのその簡易的な扉はいつも意味がないと思ってしまう。生徒が少ない分、自分専用のシャワースペースを作り、いつもシャンプーなどをそこに常備している。
 ふわりとライラックの香りのボディソープが身体を包み込む。とても落ち着くこの香りを気に入り、ずっと使っていたいと、私は傑に貰った同じ物を購入して使い続けている。
 脱衣所で物音がし、硝子も来たんだな、と頭から全身に湯を被り、身体についた泡を流していると、シャワー室へと入って来る足音が聞こえた。声を掛けようと振り返ろうとした時、声が掛かる。

「おい、悟。そこは彼女の、」

 スッとそこに顔を出し、声を掛けて来たのは、私と同様に裸の傑だった。頭が真っ白になった。多分、真っ白になったのは傑も同じで、彼が合っていた視線を下に向けようとした時、私はやっと我に帰り、彼に背を向ける。

「四人ともシャワー浴びたんじゃないの!?」
「私も悟に先に行ってると言われて来たんだけど……すまない、また出直すよ」
「そ、そうして……っ!」

 足音が遠のいていくと、私は再び頭に湯を浴びた。絶対硝子と悟が余計なことした、と私は恥ずかしくて頭をむしゃくしゃに掻いた。
 私は落ち着いてから上がり、着替えると、服をランドリー室へポイと入れてから、硝子の部屋のドアをノックもなしに開けた。

「硝子!!怒るよ!!」
「ウケる、襲われなかったんだ」
「そ、そんなことするわけないじゃない!あぁ、もう……!気まずくなる!」
「いーじゃん。今朝言ってたラッキースケベ、夏油も体験出来て喜んでるでしょ」
「私の貧相な身体見て何を思うの……恥ずかしい……」
「夏油の見た?」
「見るわけないでしょ……」

 揶揄いモードの硝子と話してても私が恥ずかしくなるだけだ、と私はそこから出て行った。部屋に戻って枕に顔を埋めていたが、携帯の着信やメールの受信があったことを知らせる小さなライトが点滅していることに気づき、開くと、傑からメールがあった。『さっきはすまなかった。全部悟が悪いんだけど、後でお詫びに君の好きそうな菓子でも持って行くよ』とあった。いや、会うのは気まずいんだけど、とどう返すか悩んだまま、うつ伏せ状態で携帯を手に寝落ちしていた。
 そっと脚に温かい何かが触れ、なぞられる。それが頭へと移動してきた時、私は目が覚めた。そこにはベッドに腰掛けた傑の姿があり、大きな手が優しく私の頭を撫でていた。

「傑……」
「おはよう。また鍵を掛けずに寝たね」
「ちょっと居眠りしちゃっただけだし……」

 またお説教だ、と思っていると、彼はホワイトデーの時を思い出させるように、未だに寝転がっている私の上に覆い被さると、そっと私の首筋に顔を埋めた。

「ひっ!」
「さっき、シャワーを浴びたからだね、あのボディソープの香りが強い」
「ちょ、傑……」

 心臓がドクドクと脈打っているのが分かる。うつ伏せの状態で、腕をベッドに押さえつけられいる私は、彼に支配されているように思える。

「部屋のベッド、こんな格好をして男を招き入れるなんて、私はそんな安全で無害な男かい?」
「ご、ごめん。鍵掛けるから……」
「私も悟も、七海も灰原も高専にいる呪術師も、どれだけ優しい顔をしようが男なんだよ」
「わ、分かった……」

 傍で囁かれる声にドキドキと心臓が高鳴る。抵抗してもびくりともしない彼はちゃんと男の人なのだと感じた。
 彼はそっと手の力を抜き、私を解放する。私はホッと一安心して起き上がると、彼は私の前に小さめの紙袋を取って目の前に出してきた。どこかで見たことのある店の名前で、何だったっけ、と思いながら受け取る。

「昨日、任務帰りに店の近くを通りがかったからね。食べたいと言っていただろう?ギモーヴ、だっけ?」
「あっ!あの並んでるお店の……」

 以前、任務に出かけた時にたまたま見かけたスイーツ店があった。ギモーヴの見た目も可愛く、とても美味しそうだったが、長蛇の列で並ぶ余裕もなければ、傑を巻き込めないと思った為、諦めていた。

「前、見てただろう?だから買ってきたんだ。さっきのことは、これで許して」

 悪怯れることなくにこりと笑う傑に、私はお菓子で釣られるなんて、と悔しく思いながらも嬉しかった。

「……許す」

 前もチョコレートで釣られたような気がしたけど、まぁいいか。美味しいんだもん。私はわくわくしてそれを開けると、可愛らしいカラフルなギモーヴが出てき、パクリと食べる。

「ん!美味しい」
「ギモーヴってどんなの?一つ頂戴」

 私はそれを差し出すと、彼はそれを食べる。それに彼は甘くて美味しい、と頷く。そして、思い出したようにそうだった、と話をする。

「明日は私と君で任務らしいよ」
「そうなの?」
「あぁ、朝が早いから、しっかり寝ておくんだよ」
「はーい……」

 彼はまた明日ね、と私の頭を撫でると、そのまま出て行った。私は火照った身体を冷やすように、エアコンの温度を下げた。

 翌日。任務へ向かう時間、早朝に起きると、身体が怠かった。やはりエアコンをつけっぱなしで眠ったのは良くなかっただろうか。身体を起こそうにも強い倦怠感でマトモに動くことが出来ない。火照った身体に、私は熱があるのだと気づいた。そろそろ時間だ、と考えていると、玄関からノック音が聞こえた。

「おはよう、そろそろ行かないと」
「……ごめん、行けないかも。風邪ひいた……エアコンで」
「鍵、開けれる?」

 私は何とか立ち上がり、鍵を開けると、扉がゆっくり開き、傑は私を見るなり、頬に触れてきた。

「本当だ。高熱だろうね。硝子はまだ寝てるし、連絡だけ入れよう。多分、予定があっただろうから、付きっきりは無理だと思うけど」
「薬だけでいいよ……ごめんね、任務行けなくて。夜蛾先生と硝子には私から連絡しておく」
「分かった。今日の任務は私だけでも十分だ。今日だけは鍵を開けておいた方がいいかもね、硝子が来るだろうから」
「うん……」
「お大事に、また来るよ」
「うん……」

 力なく返事をし続け、扉を閉めると、私はベッドに戻って、硝子と夜蛾先生にメールをした。どちらからもすぐに返信が来て、休めと優しい言葉をくれた。硝子は『準備して部屋に行くから、水分だけは摂っておいて』と送ってきたかと思うと、暫くして部屋へとやって来た。手には市販薬や体温計、ポカリ、おにぎりがあった。

「大丈夫?」
「昨日、暑かったからエアコン付けっぱなしで寝ちゃって……だからかな、風邪ひいた」
「昨日、あんなバカ騒ぎしてたのにな」
「悟と硝子の所為でしょ?」

 私はそれらを受け取り、礼を言いながら、何とか胃におにぎりを入れて、薬を飲む。三十八度の熱があることが分かり、今日は大人しくしていよう、とベッドに寝る。

「傑から貰ったギモーヴ食べなから大人しくしてる」
「何で貰ったの?」
「昨日のお詫び」
「お礼の間違いでしょ」

 お礼?と首を傾げると、彼女は話を逸らすようにポカリを開けてそれを私に差し出す。

「私は予定があるから看病してやれないけど、夏油がいるでしょ」
「うぅん……寝てるから一人でいいんだけどな……」
「人誑しなんだろう?アンタに惚れてもらおうと何でもするんじゃない?もう惚れてるだろうけど」
「揶揄わないで」

 私はポカリを飲んで、手に取りやすい場所に置くと、ふと息を吐く。

「……ありがとう、硝子」
「どういたしまして」

 じゃあね、と彼女は出て行き、私は気持ちが楽になった。私はそのまま寝てしまおう、と再び眠りに就いたのだった。
 物音で目覚が覚めると、そこには傑がいた。袋いっぱいに何かを買ってきている。

「傑……何時?」
「すまない、起こしてしまったか。昼の二時だよ」
「もう終わったの?」
「簡単な任務だったからね」
「傑の任務に同行しなくてもいい気がする……」
「時々は誰かがいてくれると嬉しいね」

 私はトイレに行こう、とまだ怠い身体を起こし、そこへ向かう。出てきて手を洗っていると、傑はフルーツ缶の中身を皿に出しており、私は袋の中身を見ると、カップうどんなど胃にやさしそうな物を買っている。

「……ありがとう」
「風邪ひいてる時って、人恋しくなるだろう?」
「傑でもそう思うことあるんだ」
「私も人間だよ。それくらいあるさ。ほら、フルーツは好きだろう?食べて」
「うん」

 共用キッチンから取ってきた皿とフォークだろう。それを受け取り、フルーツを食べる。優しい甘さが沁みた。

「美味しい……」
「いつも元気な君が弱々しいのは変な感じだね」
「元々そんな、元気タイプじゃないよ。驚かされることが多いってだけで」

 いつもならぺろりと平らげるが、今日はそうもいかず、ご馳走さま、とそれをテーブルに置く。残りはいただくよ、と言って傑が食べていた。特に多くは話さない傑は、袋から食べやすいスープ系のインスタント食品などを取り出している。私達の間には言葉はなく、ただ彼が立てている音しかない。

「……毎日騒いでるから、落ち着く時間が欲しいなって時がある。教室はいつもは騒がしいのに、朝は静かで、いい風が入ってくる。夕方は、夕陽が綺麗だし」
「よく寝てるよね」
「流石に今の時期は無理だけどね。静かな時間が好きだったりする」
「そうなんだ。じゃあ私は邪魔かな」
「いや、傑はあまり喋らないし、邪魔だと思ったことはないよ。時々意地悪してくるけど」
「そう聞いたら、もう出来ないね。嫌われるようなことはしたくない」
「……変なの」

 まるで本当に好かれたいみたいだ。そう思いながら、まだ寝足りないのか、ただ風邪で頭がぼんやりとしているのか分からないが、疲れてしまった。薬を飲んで水分補給をすると、私は再びベッドへ潜り込む。布団の温かさが更に眠気を誘う。傑がまだいるというのに、私はゆっくり目を瞑り、眠りに落ちていく。

「おやすみ」

 そう言って彼が私の額に唇を落としたのは、きっと熱が見せた幻覚なのだろう。

 その日見た夢は悪夢だった。辺りで人が死んでいる。私は目の前にいる正体不明の呪いを見上げるばかりで、何も出来ずにいた。恐怖と困惑と愛情と、よく分からない感情が私の中で渦巻いていた。でも、その呪いから、私の名を呼ぶ傑の優しい声が聞こえてきて、何故か少し安心して、私は暗闇へ落ちて行った。
 とてもとても静かで長い夢だった。呪術師なんてものをやっている所為だろうか、こんな夢を見るなんて。

 長い時間眠っていたようで、起きると半日以上眠っていて、早朝だった。よくこんなに眠れたものだ、と感じた。それよりも、ベッドにもたれ掛かり、眠っている傑がいることに驚いた。長時間ここにいたのだろうか。ただ申し訳ないという気持ちで、彼がいつもしてくれているように、私もベッドの上から自分が被っていたタオルケットを彼の肩に掛ける。ちゃんと包むように、と前の方までタオルケットを持っていくと、背後から彼を抱きしめるような体勢になっていることに気づいた。それにも起きずに寝息を立てている彼に、私はそっと腕を回して軽く抱きしめる。きっと、恐らく、彼は私を好いてくれていると思う。そう思いたい。でもなかなか切り出せないのは、どこかに不安を抱えているから。傑が好きって言ってくれたら、こんなに優しくて、時々意地悪して、誑かそうとしているのは、私だけだと言ってくれたら、私も安心して貴方に好きと言えるのに。

「……ありがとう」

 そう呟くと、そっと離れて、随分と楽になった身体を起こして、シャワー室へ向かった。こんな大胆な行動に出るなんて、自分らしくない。
 いっその事、これは全部熱の所為にしてしまおう。


***


 何かが大きく変わったのは、星漿体の護衛任務だった。あれだけ強かった二人でも、星漿体を護りきれなかったらしい。帰ってきた二人は血塗れで、星漿体の女の子が亡くなったことに責任を感じていて。
 悟は高専を襲った男を殺し、反転術式まで使えるようになった。まるで隙のない、異様な雰囲気の彼を少し怖いと感じたのは、私だけなのだろうか。
 傑は何ともないよ、と笑顔を向けるが、それはいつもと違っていて。星漿体の存在がそれほどまでに大きかったのだろうか、それとも別のことなのか。私にはよく分からないが、死と隣り合わせの世界にいるとは思えないほど、馬鹿みたいに青春していた私達の日常が崩れていくのを感じた。悟と傑に星漿体の護衛を任命した天元様を少し、恨んでしまった。そのくらい、傑は変わってしまったんだ。

「傑」
「ん?」

 二人での遠征、私達は新幹線に乗っていた。彼は車窓からの景色をぼんやりと眺めており、声を掛けると、我に帰ったようにハッとして、隣に座る私を見た。

「考え事?」
「大したことでもないよ。それより、いつものことだけど、悟が土産を指定して来た。美味しいんだってさ、ここのアップルパイ」

 そう言って彼は悟から送られて来た写真を見せてくる。確かに美味しそうだ。

「硝子には何を買って行こうか、私達の分も」
「それは現地に着いてからでいいんじゃないか?」
「それもそうだね、任務が終わったらゆっくりしよう。少しくらいいいよね」

 とにかく休んで欲しかった。他愛もない話をして、少しでも気分転換が出来たなら。私に出来ることはそれくらいだ。

「この間、京都校の男子に硝子のこと 訊かれたんだけど、好きなのかな」
「あぁ、その人には覚えがあるよ。私も訊かれたからね」
「そうなんだ。連絡先欲しがってたけど、勝手に渡すのもなぁと思って、断った」
「いいと思うよ、それで。硝子は興味ないだろう」
「うーん……告白するのかな」
「さぁ……私ならしないかな」
「私もそうすると思う。でも硝子の反応次第だよね」

 硝子が好きな彼の立場から考えて発言したことだった。傑もそうだろうと思っていたが、彼はいや……と言葉を詰まらせる。そんな彼を見ると、傑は窓の外を眺めながら話す。

「私自身の話だよ。好きな人には幸せになってほしいからね、例え両想いだと分かっていたとしても、恋人にはなれないかな」
「……傑、結婚出来なさそう」
「そうかもね」

 遠回しに振られた。きっと、多分、希望も含めて、傑は私のことを好いてくれていると思う。傑も私の気持ちを知っている。その上でのこの発言は、そういうことだろう。

「私は好きな人との今を大事にしたい……傍にいられたらいいかなって。だから、振られると分かってるのに、気持ちを伝えたくない」
「そっか。その男が幸せにしてくれなさそうなら、やめた方がいいかもね」
「今、幸せって感じるからいいんじゃないかな。自分の幸せって、他人が決めるものじゃないから……」
「ふ、それもそうだ」

 すると彼は、肘置きに置いていた私の手に触れた。それに思わずびくりと身体を震わせると、そっと握ってくる。私はその意図が読めなかったが、手を握り返した。
 想いは通じているのに、きっとこれから先、私達は交わることはないのだろう。この関係を、一体何と呼ぶのだろうか。


***


 呪術高専に入学してからの二年間はあっという間だった気がする。三年生になったという自覚があまりない。変わらぬ顔触れだからか、こんな三人と共に過ごしたからか、ただ単純に忙しかったからか。何物にも代え難い青春は、ある日突然終わりを迎えるような。そんな不安に駆られる、桜が風に舞う季節。

「あれ?先輩、何してるんですか?」

 そんな不安を掻き消すような明るい声が背後から聞こえた。振り返ると、そこには灰原 雄と七海 建人の姿があった。高専内にある桜の樹の下に立つ私を不思議そうに見つめている。

「この桜の樹の下には屍体が埋まっている」
「えっ!」
「そのくらい綺麗って話ですか?」
「そうそう」

 小説からの引用だと気づいている建人はそう答えると、雄は何だ冗談か、と笑って身体の力を抜いた。

「何か不安なことでも?」
「私はこの樹の下に埋まっている屍体が発かれるのが恐ろしいんだよ」
「どういう意味ですか?何も埋まってないでしょ?」
「埋まってないとも限らないでしょ?」
「じゃあ掘ってみます?」

 少しわくわくと目を輝かせた雄に、私は思わず笑った。建人は誰かに対しての比喩表現と理解しており、言葉のままに受け取る雄を見て溜息を吐いた。

「掘っちゃうか、私は見たくないって言ってるのに」
「じゃあ先輩は見なくていいですよ、自分がやりますから!埋まってるか埋まってないか、確認しないと不安になるじゃないですか」
「……じゃあ、頼もうかな」

 いつも傍にいる私よりも、雄や建人の方が向いているのかもしれない。私はそう思い、彼らを見ると、建人は明らかに面倒臭いといった表情をしている。

「雄だけでいいよ、やるのは。簡単だから」
「えぇ、掘るの大変ですよ」
「本当に掘るわけじゃない。本当に屍体が埋まっているのなら、呪いに転化するかも。そうなれば大騒ぎですよ」
「でももう祓われたって可能性も!都市伝説っぽくて面白そう!」
「はぁ……」

 一般の学校じゃないから、こういった都市伝説がない。夜の肝試し、みたいな話にもならない。そもそも何かいたとするならば、呪霊だ。それは怖くはないだろう。
 雄と建人の会話に耳を傾けながら、私はポケットからメモ帳とボールペンを取り出すと、文字を書いていく。

『この紙を手にした者は、普段言えない本音を言わなければならない』

 子供じみた遊びだが、これもいいだろう。それを千切って、雄に手渡した。

「はい、これあげる。私の呪い」
「チェーンメールか何かですか?」

 妙なことをし始めた私に、建人は眉を顰めると、雄は楽しそうだと笑う。

「じゃあ僕が渡されたんで、本音を言わなきゃいけないんですか?」
「雄がスタートだよ。貴方はいつも本音を言ってる気がするから……」
「じゃあ七海に!」
「いや、私はいりませんよ」

 そう拒否したが、雄はそれを建人に握らせる。私は建人の本音か、と彼を見てニヤニヤと笑う。

「楽しみだなぁ、建人の本音」
「言わなきゃ進みませんか?」
「そうだね」
「早く早く」

 彼は仕方ない、と渋々それに付き合ってくれるようだ。それに少し言いづらそうに、照れくさそうに話をする。

「私は、貴女の後輩で良かったと思っていますよ」
「えっ」
「少々、他人任せな部分はありますが、援護は助かります。それに、あの騒がしい先輩達よりかは幾分マシです。が、このような遊びに付き合わされるのは、少し面倒だ」
「んー、最後のは本音かな?面倒だけど、不安を抱えた私を心配してくれてる」
「……まぁ」
「はは、ありがとう。じゃあそれを、傑に配達して来て、それだけでいい」
「なるほど、分かりました」
「掘らなくていいんですか?」
「まだそれを言うか」
「この樹に関しては掘らないでおこう。じゃ、頼んだよ」

 そう彼らに託して、私は自室へ戻っていった。
 どうせ傑は本音を言いやしない。最近、彼は少し痩せたような気がする。一人でいる時、何かをぼんやりと考えているような、辛そうな顔をしている。いつも目で追っている好きな人なんだ、見ていたら多少は分かる。理由を訊いても、いつもはぐらかされる。その一方で、安心する。彼の心の内を聞くのが怖い。あの笑顔の裏にどれだけの苦労と闇を潜ませているのか、それが私には手に負えないことだったとしたら。傍にいられなくなることが、とても辛い。
 そのままベッドに寝転がり、目を瞑る。こんな時は一旦眠って、考えるのをやめよう。
 ふとノック音が聞こえた。誰かが部屋へやって来たのだと分かるが、重い目蓋が開くことなく、再び眠ろうとした。すると次はガチャリとドアノブを捻り、扉が開いた音がした。

「寝る時は鍵を掛けるって言ってなかった?」

 傑の声だとすぐに気づき、やっと目が覚めると、うつ伏せで眠っていた私は身体を起こそうとした。しかし背に何かが当たり、何だ、と振り向くと、そこにはベッドに手をつき、私に覆い被さっている傑の姿があり、あの時と同じでドキリとして、完全に頭が冴えた。

「す、傑?」
「無防備だね、襲われてしまうよ?」
「……襲う人なんていないよ」

 私はどうすればいいのか分からず、その場で丸まっていると、彼はそっと私の耳元に唇を寄せる。

「まだ分からない?ここにいるのに」
「……どうせ敵わないから、いいよ」
「相変わらず諦めが早い」

 諦めじゃない。そうしたいと望んでいる。傑が少しでも、私の傍にいてくれるのなら。しかし彼は起き上がって、ベッドに腰掛けると、私は少し期待したのに、と思いながらも口にはせず、隣に座った。傑は私が雄に渡したメモを差し出してきた。

「これ、君が書いたろう」
「そうだよ。雄に本音は言えた?」
「私の好きな人の名を言っておいたよ」
「へぇ……」

 やはり、悩みは打ち明けなかった。まぁ当然だ。にしても、好きな人の名前が私のことだったら嬉しいけど、どうなんだろう。

「それを聞きたかったんじゃないのかな?」

 私は彼の手からメモを取ると、傑はあ、と声を上げる。

「君が受け取ったから、今度は君が本音を言う番だ」
「……傑に、楽になってもらいたいと思ってる。最近、辛そうで何に悩んでいるのか分からない。だから教えてほしいと、そう思っただけ」
「そうか……でも、君が思い悩むことでもないよ。ただ忙しくて少し疲れているだけ。上を向いて、綺麗な桜だけを見ていたらいいよ」
「建人から聞いたの?」
「まぁね。灰原が屍体が埋まってるなんて話をしていたよ」
「全部言うなぁ、彼らは……」

 別にバレたって問題はないけど、余計に言わなくなってしまうんだろうな、と少し諦めていた。

「埋まっている屍体なんて見る必要はないよ。今の綺麗だと思ってくれている私を見てくれていればいい」
「……傑がそう言うなら」
「君の言った通り、今を大事にしようじゃないか」

 そう言って優しく笑うと、そっと私の髪を撫でた。馬鹿みたい。これで恋人じゃないなんて。でも、彼が傍にいてくれるなら、そうやって笑ってくれているなら。私は屍体が埋まっていようが、足下を見ないよ。


***


 じめじめとした暑さが徐々に私達の体力を奪っていく。そんな季節に、悟は弱みなんて一つもないというほど強くなっていて、呪術師として生きていくには羨ましい才能で、友人として喜ばしいことでもある。その一方で、傑の顔色は悪かった。悟が言及したが、夏バテだと言うだけ。

「傑は、弱味を見せるのが嫌なのかな」
「カッコつけたいんでしょ。特にアンタには」
「全然カッコよくないけどね。よく分かんない。幸せに出来ないから恋人にならないって言うくせに、恋人っぽいことをする。弱ってるくせに強がろうとする。私には理解出来ない」
「それを受け入れてるアンタも、夏油と変わらないと思うけど」

 そう言われると言い返せない。確かに私も傑に好きだなんて言ったことはないし、満更でもないけれど。硝子は何だかんだ、似合ってるんじゃない?と言ってくれて、私は少し恥ずかしさもあったが、嬉しかった。恋人として彼を縛ることは出来ないけれど、それでも想いは通じ合っていると思うから。

 特級の悟と傑は忙しく、会う機会が減った。私も弱いが、一人で任務に駆り出されているし。毎日、彼はどうしているだろうか、と考える日々が続く。そんなある日のことだった。

 灰原 雄の訃報を聞いたのは。

 彼の遺体を前にしても、現実を受け入れられなかった。静かな遺体安置室で、顔に大きな傷を作り、もう二度と笑い掛けてはくれないその眠った顔をただ見つめていた。ただ眠っているだけ、そう言い聞かせていた。でもやっと死を受け入れたのは、建人の辛そうな顔を見て、彼を慰めようとした時だった。受け入れたくなかったのに、彼を見て受け入れるしかなかった。呪術師の死は何度も見てきた。それでも、友人を失うのは初めてだった。建人はもっと辛いはずなのに、私は慰めるどころか、慰められてしまうほど泣いてしまっていた。失う恐怖を知った。

 九月。私と傑はとある村落へ向かう。その村落で起こる神隠しや変死の原因とされる呪霊を祓うのが任務だ。道のりは長く、新幹線、電車、バス、タクシー、あらゆる交通機関を使った。これはまるで二人旅。

「久しぶりに会ったというのに、元気ないね」
「傑に言われたくないんだけど」

 乗客のいないバス、きっと席が埋まることはないのだろう。自由に座れるはずなのに、私が座席に着くと、すぐ隣に座った。私は目的地への順路を確認する為に地図を開くと、傑はそれを覗き込む。

「もう夜遅いし、予定通り民宿で一泊しようか」
「そうだね。それにしても遠いなぁ、こんなの初めてかも」
「元々は私一人の任務だったのに、何でついて来たの?」
「……何となく」
「何となくね……わざわざ休日を任務に費やすなんて、私ならしないよ」

 たまたま休日に傑がこれから遠方へ任務だと夜蛾先生から聞いて、無理に同行させてもらった。雄の死のこともあり、傑は特に思い悩むようになっていたと思う。最近は特に顔を合わせることもなかった為、心配していた。任務でもいいから、傍にいたかった。それを分かっていながらも、態とらしく聞くのだから、タチが悪い。

「でも、こんなに大変だとは思ってなかった。移動で丸一日使ったよ?」
「田舎だからね。民宿から村落まではタクシーだ」
「座りっぱなしでお尻が痛くなる」
「揉み解してあげようか」
「スケベ」

 地図を丸めて、ベシッと軽く彼の頭を叩く。冗談を言えるくらいにはまだ元気だな、と何となく思っていると、傑は私の手からその地図を取り、再び開きながら話す。

「君がいると、穏やかになれる気がする」
「普段は穏やかじゃないの?」
「……最近、眠れていない」

 初めて、彼が弱っていることを告白した。少しは弱味を見せるようになったのだろうか。私は気を許してくれたのだと嬉しくなった。

「今夜はゆっくり休もう。明日はそのままタクシーで向かうだけだし。傍にいるから」
「ありがとう」

 そう少し微笑んで彼は私の手を握った。こんな暑さでも気にならないくらい、寧ろ少し汗ばむ彼の手をギュッと握り返し、私の方が心が穏やかになった。
 辿り着いた民宿は、事前に傑が予約していて、私のことも伝えてくれているようだった。優しく迎え入れてくれた夫婦と会話を楽しんでいたが、傑は何だか辛そうで。私は長時間移動で疲れてる、と話すと、夫婦は申し訳なさそうにして部屋へ案内してくれた。しかし、案内された八畳の部屋には布団が二つ。私は夫婦が去った後、傑を見る。

「もしかして、カップルと勘違いされてる?二部屋って言った?」
「もう一人追加とだけ言ったんだよ。同室でもいいだろう?」
「よ、よくないでしょ、男女が!」
「今更?前まで、泊まり込みで桃鉄して、悟の部屋で寝てたのに」
「う……っ」

 そう言われると、反論のしようがない。いや、でもあの時は悟も硝子もいた。状況が全く違う。

「いいじゃないか。君といると、よく眠れそうだ」
「……そう」

 そう言われると弱い。満更でもないと思っている自分がいる。彼が楽になるなら、私はそれでいいから。
 私達は順番に風呂に入り、準備してもらった食事を取る。その後は寝支度を済ませて、少し布団の距離を取って敷くと、彼はそれを引っ張ってくっつける。

「同衾もいいじゃないか」
「よ、よくない」
「人の体温は落ち着くんだよ」
「でも……」
「襲ったりしないさ」

 こういう時の彼は頑なだ。諦めよう。私は布団をくっつけると、そこに入る。すぐ傍に傑がいる、それだけでもただ身体が熱くなるのを感じた。

「暑い。人の体温とか言ってる場合じゃない」
「それなら、手を握るくらいでいいよ」
「……今日は随分と、甘えるね」
「少し、甘やかされてみようかと思ってね。君はいつも心配そうにしているから」
「何か上からだなぁ」
「私を眠らせてくれ」

 そう言って私の手を取り、自分の頬に当てた。普段、結んでいた髪が解放され、長い髪が彼の頬や首に掛かっている。それが妙に色っぽく見える。良くない考えだ、と私はそっと近づくと、仰向けになった彼の胸辺りに手を置き、トントンと一定のリズムで優しく叩く。まるで子供を寝かしつけるような行動だったが、彼はふと笑ってそのまま目を瞑り、私は暫くそれを続けた。

「おやすみ、傑」

 私の声は届いていないようで、規則正しい寝息が返ってくるだけだった。

 翌日。
 私達は民宿を出て、タクシーを呼ぶと、目的地である村落へと向かう。

「よく眠れたよ」
「はは、良かった良かった。私も眠れた」

 疲れていたのか、人の体温が落ち着いたのか、緊張もなく眠ることが出来た。心なしか彼も少しスッキリとしていて、私は安心した。しかし、そんな明るい気持ちになれたのも束の間、辿り着いた村落で原因となっている呪霊を祓うことは出来たが、神隠しや変死の原因が他にあると村人に案内された場所には、囚人を入れるような大きな檻があった。そしてその中にはまだ幼い女の子が二人いた。暴力を受けた痕が痛々しい。
 村人は彼女達が一連の事件の原因であり、不思議な力で村人を襲うと言う。きっと、この子達はこちら側の人間、襲うというのも何かの間違いだ。そうでなければ、こんなに痛めつけられることもない。術師である彼女達は呪術に理解のない非術師に虐げられて来たのだろう。すぐにでも高専に連れて帰るべきだと判断した。

「傑、この子達を出してあげよう。こんなの、酷すぎる」
「……任せたよ。皆さん、一旦外に出ましょうか」

 声色で傑の怒りが伝わって来る。でも、村人への対処はしてくれるはず。私は一刻も早く彼女達を出してあげたかった。

「大丈夫、私達は仲間だよ。ここから出ようか」

 私は錠前を壊して扉を開く。まるで怯えた子猫のように警戒し、でも頼りたそうにしている二人に、私はゆっくり、優しく話す。

「この村から出よう。辛かったね、外には君達と同じ人間がいる。理解のある人達が沢山いる。私も同じだよ、おいで」

 彼女達は私に抱きついて、啜り泣く。小刻みに震え、痩せ細り、傷ついた身体をを私は優しく優しく抱きしめ返した。

「大丈夫だよ。傑が戻って来たら、」

 傑が戻って来たら、出て行こう。そう言おうとしたが、それは誰かの悲鳴でかき消された。それは一人だけじゃない。複数の、村人の悲鳴、呻き声、バキバキと骨が砕かれるような音がする。それだけで、外で何が行われているか、容易に想像出来たが、理解は出来なかった。私はそれが聞こえないように二人の頭を抱える。

「大丈夫、大丈夫、だから……」

 そう、彼女達や自分に言い聞かせた。
 どのくらい経っただろうか。私にはとても長く感じた。暫くすると、そこに自身のものではない、他人の血に濡れた傑が帰って来た。まるで、別人のように感じた。

「さようならを、言わなければね」
「す、ぐる……」
「……その子達は私が引き取るよ。君は高専に帰って、私が殺したと伝えればいい」
「そんな、何で……」

 理解出来ない。確かに彼女達が受けた仕打ちは酷いものだったが、それは村人を殺すほどのことなのか?呪詛師になってまで、この生活を全て捨ててまでやることだったのか?

「待って、傑……」
「さようなら。私のことは忘れて」

 戸惑いを見せる彼女達の手を引き、行こうとする傑に、私は待って、と彼のシャツを引っ張る。

「連れてって」

 傑の考えは理解出来ない、でもこれから分かっていけばいい。全て嘘じゃなかったはず。村人を殺したのも、この子達の為。昨日見せた笑顔も、あの体温も全て、嘘じゃない。傑は傑だ。だから……

「言っただろう。私は君を幸せに出来ない。君に私の思想は理解出来ないだろう。理解してもらいたいとも思わない。君はそのままでいい。呪術師として、生きればいい。私を忘れて」
「狡い!そんなの!今更、さようならなんて、今までは何だったの……?」
「……今、君は幸せ?」
「っ、」
「私は今もこれから先も君を幸せにすることは出来ない。だから、忘れてくれ」

 涙が溢れ出た。もう失いたくないのに、ずっと傍にいてほしい人を失うなんて。傑は彼女達を引き連れて、その場を去って行った。こちらを気にしていた彼女達と傑の姿が見えなくなると、私はその建物から飛び出した。呪霊や傑の残穢が多く残っている。森に囲まれた村落内の空気はこんなことが起こるまで良いものだと思っていたが、今は血生臭く、そこら中に村人の無惨な遺体が転がっている。私はその場で嘔吐し、膝をつく。

「何で……何で、傑……」

 置いて行かないで。
 頭がズキズキと痛んだ。息が出来なくなって、目の前が暗くなっていく。そうして、その場で意識を失った。
 最後に頭に残っていた言葉は『私のことは忘れて』の一言。

 私はそのまま呪われたように眠った。そして、全てを忘れた。






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