二話 微かに残る、過去の愛。
「あら、この子が傑ちゃんの恋人?」
「案外、普通ノ人間ダナ」
「よろしくお願いします」
「……」
身体は立派な男性だが、心は女性であろう見た目の人、カタコトな話し方をする怪しげな外国人、秘書でもやっていそうな真面目そうな綺麗な女性、顔の右半分に大きな傷のある男性。傑さんに連れて来られたその場所に、彼の家族はいた。
何かしらの志を持って集まった人達か、あるいは美々子や菜々子のように、傑さんに助けられた人達か。
「よろしくお願いします……」
美々子や菜々子はともかく、私が一番、身体つきも力も立場も劣っているんだろうな、と感じて身を縮めると、傑さんは優しく私の肩を抱く。
「皆、よろしく頼むよ。彼女、記憶はないけどしっかりしてるから」
「私、何かした方がいいんですか?」
「何もしなくていいよ。でも、呪術の知識は豊富なのに、使えないのは勿体ない。時々、彼らと手合わせしてもらうといい。何かあった時の為にね」
「分かりました……」
何かあった時、とは何なのだろう。私が殺されそうになった時?だったら、殺される理由を聞きたいが、きっと誰も教えてはくれないのだろう。
彼らと自己紹介して、それなりに相手がどんな人なのかは分かった。美々子と菜々子もお世話になっているようだし、私のような訳ありの人間でも受け入れてくれる優しい人達だ。
「今は傑ちゃんとはどういう感じなの?」
そう、ラルゥさんが興味深々に訊ねてきた。どういう感じかと言われても、普通だ。私の考える家族がすることと同じようなことを、私達は毎日繰り返している。三食を共にして、リビングで多少会話をして、それぞれやることも与えられている。家事は分担し、三人は私の作る料理が美味しいと言ってくれ、買い物も美々子と菜々子と行く。特に何の変哲もない日々だ。
「傑さんと過ごすより、美々子と菜々子と過ごすことが多いです。彼については、何も分からないです。訊いてもはぐらかされることが多いので」
「あら、じゃあ恋人らしいこと、してないのね」
「はい。私には恋人だった時の記憶がないので、あまり……」
彼は恋人らしいことをしたいと思っているんだろうか。それとも、私に記憶がないからしないだけだろうか。それも彼の優しさ?私には彼の心情を理解することは出来なかった。
それからは、いつも通りの日々の中に、彼らと手合わせをすることも生活の一部となっていった。私は彼らの目的も知らぬまま、知ろうとしないまま、日々を過ごしていく。
そんなある日、傑さんから帰りが遅くなると連絡があり、結局その日は美々子と菜々子と食事をして、彼女達を寝かせた。私は何故だか眠れなくて、ベランダに出ては何を思うでもなく、灯りの残るビル街を眺めていた。すると、閉めていた窓が開く音がして振り返ると、私服に着替えている傑さんがいた。
「眠っていると思ったら、外に出ていたのか。今日は冷えるよ」
「眠れなくて」
「私の帰りが遅かったからかな」
「……多分そう、かも」
出張でいない日もあるが、今日はただ予定より帰りが遅くなる、というだけの違いだったが、いつもと違ったのはそこだけだ。
「可愛いことを言うね」
彼は隣に立つと、私の肩を抱いた。その手はとても温かくて、自分の身体がどれだけ冷えていたかが分かった。
「傑さんは、今の私が好きなんですか?」
「私は君が記憶を失おうがその身体を失おうが、愛してるよ」
甘い甘い言葉を囁く彼に、私はドキリとした。傑さんは柵にもたれかかり、くつくつと笑う。
「愛されていないと思ったかな、不安にさせたならごめんね」
「そうじゃないですけど……」
「記憶を失おうが、君は君だよ」
そう言って彼は私の首筋を撫でると、そっと自分に引き寄せ、抱きしめた。その温かさに包まれた時、理由は分からないが、何故か少し泣きそうになった。
「君は私を愛してはくれないのかな」
「私は傑さんのこと、何も知りませんから……分からないんです。でも、好きなんじゃないかって、私の失ったはずの記憶が言っているような気がして」
「それならまだ、私は愛されているようだ。嬉しいね」
まだ、とはどういう意味だろうか。そう思い、ふと顔を上げると、彼は私の額に唇を落とした。
「君が堂々と私を愛してると言ってくれた時に、ここにしよう」
そう言って、私の頬に手を添えたと同時に、唇を親指で撫でた。
「……分かりました」
少し期待してしまった私はもう、彼に惹かれている。でもきっと、彼はそれを望んでいるわけじゃない。
「さぁ、中へ行こう」
「はい」
私達はそのま部屋へ入ると、彼は私の部屋の扉を開け、中へと誘う。
「眠れそう?」
「多分」
「一緒に眠ろうか」
「いや……」
「身体も冷えているからね。大丈夫、襲ったりしないよ」
そういう心配をしていたわけではないけれど、私は流されるままベッドに寝かせられ、隣に傑さんが入り込んで来た。嬉しそうに笑いながら、彼は私の腹辺りをトントンと一定のリズムで優しく撫でる。
「おやすみ」
「……おやすみなさい」
まるで子供扱いされているようだけど、それでも私は深い眠りにつくことが出来た。
***
美々子と菜々子は干し終えて取り込んだ布団をリビングに引き入れた後、その上で仲良く昼寝をしていた。子供って可愛らしいな、なんて思いながらも、私は夕飯の買い出しに出掛けたいと考えていた。二人がいつも一緒に行ってくれていたが、起こすのは忍びない。一人でも大丈夫だろう、と一応は書き置きを残して買い物に出掛けた。
買い物をしている時だけは、まるで別世界に来たかのように感じる。いつもは静かな場所で、家族以外とは会わないようにしているから。こうして外に出ることが当たり前で普通のことなのに、私はそれを求めてはいけないような気がした。
今日は勉強を頑張っていた美々子と菜々子が好きなおかずにしてあげよう。そう思いながら、食材をカゴに入れていく。例え記憶を失っていたとしても、美々子と菜々子がいなくても、買い物くらいは出来る。
無事に食材を買い終えて店を出て行くと、ふと視界に白髪の男性が目に入った。サングラスで瞳が隠れているが、とても綺麗な顔立ちをしていると感じた。ただ一瞬、視界に入れただけ。それなのに彼は人混みを掻き分けるようにして駆け寄って来たかと思えば、私の腕を掴んだ。
「オマエ……っ!」
血の気が引いた。彼は私を知っている。異質な彼はきっと、いや絶対に呪術師だ。だとしたら、私は殺されてしまう。
「は、放して!」
すぐに逃げようと踵を返して走った。振り返らず、ただ逃げた。どうやって彼を振り切るか、それだけを考えて。人混みを抜けて、タクシーを探そうとしたが、目の前にいた人とぶつかり、立ち止まる。ハッと顔を上げた先にいたのは、先程の白髪の男性。先回りされていた。
「僕から逃げるなんて、出来ると思ってんの?」
「っ、お願いします、殺さないでください。私……」
「は?何で僕がオマエを殺すの」
「え?」
「そりゃ、あの場にいたんだから事情を聞く必要はあるだろうし、上の連中が黙ってないだろうけどさ。でも僕はオマエが何かしたとは思えないんだけど」
私を知っていて、尚且つ親しい間柄だったのだろうか。戸惑っていると、彼はおい、と私の目を覚まさせるように頬を抓ってきた。
「何ボーッとしてんの。五年もどこにいた?」
「ごめんなさい……私、何も憶えていなくて」
「は?」
「何も、憶えてないんです」
「じゃあ何で逃げたの?」
「私は良くないことをしたんでしょう。追われて、殺されて当然のことを」
「誰から言われた」
正直に答えていいものだろうか。傑さんは信用するな、と言った。でも彼は信用していいような、そんな気がして。口を開こうとした時、彼がその名前を口にした。
「傑か」
「……はい」
「アイツ、どこにいる?」
「言えないです」
彼は暫く黙って考え込む。それに私は黙って彼が口を開くのを待っていた。逃げられないと分かったから。
「僕が上の連中と話をつける。オマエの残穢はあの場になかったし、だからやめとけよ」
「やめとけって……?」
「傑だよ。何言われたか知らねーけどさ、幸せになんかなれない。僕が助けてやる」
別に幸せになりたいわけじゃない。ただ起きたらそこに傑さんがいて、頼れる人が彼しかいなくて。多くの疑問があり、訊いてもいつだってはぐらかされる。そうしていく内に、いつしか知るのが怖くなった。でも今は道を選べる。本当に、助けてもらえるなら。私は彼が伸ばした手を取ろうとした。しかし、美々子と菜々子のことや、彼の笑顔や体温、今までの日々がその手を拒んでしまった。
「……ごめんなさい。私、裏切るようなことは出来ないです」
私は彼に背を向けて歩きだす。ここで殺されても仕方がない、そう思っていた。しかし、彼は私の腕を掴んだ。
「オマエまで……行くな」
「殺すか逃すか、どっちかにしてください」
とても酷なことを言っていると思う。きっと彼は私の友人だった。名前も知らない彼は言葉を詰まらせ、私の腕を握る力を強めたが、ふと放す。
「思い出して、後悔すんなよ」
その言葉に私は振り返ると、彼の碧眼は寂しそうに私を見つめていた。
「それは、その時の私に任せます」
そのまま背を向けて歩きだす。彼が追って来ることはないだろう。そう思いながらも、一抹の不安を覚え、私はタクシーを見つけては遠回りして帰った。きっとこれで良かったんだ。
無事に帰宅すると、バタバタと足音が玄関へ向かって来た。奥から走ってやって来た美々子と菜々子が私を抱きしめた。
「一人で出て行っちゃダメなのに……」
「遅いから心配した!!」
「……ごめんね、何度も行ってるはずなのに、道に迷っちゃったんだ」
何を迷うことがあったのだろう。道は一つしかないのに。この子達を見て、余計にそう思えた。
「おやつ、買って来たから食べようか」
後悔は今の私がすべきことではない。
眠れなかったあの日から、傑さんは毎日、私と同じベッドで寝るようになっており、今日のことはその時にでも話そうと考えていた。いつも通り、食事や風呂を済ませてベッドに入ると、傑さんも当たり前のように遅れてやって来てはベッドへ入る。
「傑さん」
「ん?何だい?」
「……今日、私は一人で外に出て、術師に会いました」
「追って来なかった?」
「少し、追って来ました。でも話すと逃がしてくれました……私達の友人だと思いますよ」
そう言った瞬間、彼は何かを察したように、ふと笑っては、そうか、と呟いた後、言葉を続けた。
「悟に会ったんだね。運が良いのか、悪いのか……彼は何て?」
「私を匿ってくれようとしていました。上と話をつけるとか何とか……助けてくれると」
「助ける、ね。君は行かなかったんだ」
「はい。思い出して、後悔するな。とも言われました」
「後悔、しないといいね」
どこかで、この選択をしたことを彼は喜んでくれるんじゃないかと、そう思っていた。でも彼は少し浮かない顔をしていて、私は彼の本心が分からなくなってしまった。
「私がいない方が、良かったですか?」
その問いに、彼は言葉を選んでいるようだった。そこはいてほしいと、即答してほしかったのに。
「……君を一度、置いて行った。私といては幸せになれないと思ってね。でも、友人から君があの場で倒れ、眠ってしまったと話を聞いてね。ずっと、君のことが頭から離れなかったんだ」
「それで、どうしたんですか?」
「分かるだろう?高専から攫ってきたんだよ。眠っていても、いつか起きると信じていた」
「記憶はないですけど」
「そうだね。それでもいいさ、君は君だ。愛しているよ」
愛おしいと言うように、私に視線を向けては、頬を撫でて来る彼の手を握る。
「それなら、後悔させないようにしてください」
「……それは出来ないな」
「どうして?」
「私の歩む道は険しく、危険が伴う。きっと、君の思想から大きく外れたものだと思うよ。私のことを知れば知るほど、記憶を取り戻せば、悟の言うように後悔するかもしれないから」
「そうですか……」
「君がここにいるのは、私の我が儘だ。だから、君が悟の元へ行くと言っても、仕方がないことだ」
「……勝手ですね」
ごめんね。そう言いながら、彼は私を抱きしめた。私はそれを拒めるはずもない。もう既に、彼に心を奪われているのだから。
***
「こんにちは、真奈美さん」
家族のいる場所へ呪術を習いに来た。今日は袮木 利久さんに相手をしてもらう予定だった。しかし、どこを見ても彼はいない。だから、たまたま見つけた菅田 真奈美さんに声を掛けた。
「こんにちは、夏油様なら今はお仕事中よ」
「いえ、傑さんではなく、袮木さんを探してるんです。今日は相手をしてくれると聞いていたんですが」
「あら、そうだったの……でも、彼も諸事情で今はいないわ」
「そうですか……じゃあ今日は帰ります。ここで出来るお仕事、ないので」
「そうね……美々子と菜々子を見てあげて」
「はい、失礼します」
彼女はとても丁寧で話しやすい。真奈美さんの言う通り、帰って美々子と菜々子と遊ぼうかな、と思い、帰ろうとそこを出た。しかし、信者だろうか、非術師の三十代くらいの男性が話し掛けてきた。
「君、ここの人?」
「いえ……」
「そうか。でもここに来て良かったよ、夏油様は素晴らしい!憑き物が落ちたようだ。君のような可愛らしい子にも出会えたし、何ていい日なんだ!」
呪霊を吸収してもらったのか、彼はハイになっているようで、私の手を握った。
「ここへは頻繁に来るのかな。これからの会にも参加しようと思っていて、よかったら、」
言葉は途切れ、彼は一瞬にして、目の前から消えた。いや、消えたのではなく、呪霊によって押し潰されたのだ。恐る恐る足元を見ると、先程までの幸せそうだった男性は見る影もなく、肉塊となっていた。私の服に血が飛び散り、じわりと地面に血溜まりが広がって行く。
「あぁ……汚してしまったね、すまない」
いつもの優しい声が背後から聞こえた。振り返ると、そこには傑さんがいて、いつもの笑顔を向けていた。
「ダメじゃないか、悟の件もあったろう?誰かと接触するのは良くない」
「す、傑さん、これ……」
「あぁ、それは気にしなくていい。後で片付けさせるよ。そんなことより、君を汚してしまったね」
息が出来ない。殺した、傑さんが人を。血の臭いが鼻をつき、吐き気がする。その時、頭がじくりと痛み、脳裏にフラッシュバックしたのは、多くの屍体。
「大丈夫?」
「大丈夫じゃ、ない……人を、人を殺したの?」
「非術師、彼らは猿だよ。気にすることはない」
猿?何を言ってるの?彼は人間で、今さっきまで幸せそうに笑っていた。
「彼はさっきまで、傑さんを褒めて、」
「猿は呪いを生み出す存在でしかないんだ。私はね、そんな猿共は殺して、呪術師だけの世界を築こうと思っているんだ」
それが彼の思想。確かに私とは全く違った思想だ。ただ呪力を持つ人間と持たない人間がいる、それだけの差。この世界の仕組みや、彼の全てを知っているわけではないが、どんな理由であれ、その危険な思想にはついて行ける気がしない。
「さぁ、汚れを落とそうか」
今や肉塊となってしまった彼が握った私の手を傑さんが握って、その手を引いていった。私は呆然としてしまっていて、ただそれについて行くだけとなった。すると、先程の場所に真奈美さんがおり、放心している私を見るなり、眉を顰める。
「何かありましたか?」
「さっきの……佐々木さんだったかな」
「佐伯ですね」
「まぁ、どちらでもいいが、汚い手で彼女に触れていたものでね。あの猿の役目も終わっていたし、問題ないだろう」
「そうですね、代わりはいくらでも。掃除させておきます」
「頼むよ」
あぁ、ここにはそういう思想の人間しかいないのか。美々子と菜々子も知っているのだろうか。そうだとして、彼を夏油様と慕う彼女達もきっと。
いつもは入らない部屋に通され、私を椅子に座らせると、ここにあったな、と彼は棚から綺麗なタオルを取った。訓練用に着ていたジャージは血に濡れて染み込んでいる。傑さんはそのジャージのジッパーをゆっくり下ろしていき、そっと私の身体に手を滑らせると、ジャージを脱がせた。
「残念だけど、これはもうダメだね。新しいのを買おう」
そして次に目の前で片膝をつくと、血の付いた靴をそっと脱がした。
「この靴はまだ大丈夫かな。君が気に入っているものだし、綺麗にしないと」
そう言って彼はタオルで靴を拭いていく。真っ白なタオルは赤く染まっていき、靴から血が拭き取られていく。それをぼんやりと見つめながら、私は声を絞り出す。
「……傑さん」
「どうしたんだい?」
「怖い、です」
「……怖がられても仕方ない。でも私と同じ思想を持ったり、理解する必要はないよ。ただ、」
「違うんです……それでも、後悔していない自分が怖いんです……」
たった数ヶ月、彼らといただけなのに。あの白髪の彼が言った言葉の意味を理解しても、ここにいることに後悔はしていない。私の過去の記憶がそう思わせているのだろうか。だとしたら、これは呪いだ。
私の言葉に、彼は靴を拭く手を止めては、くつくつと喉を鳴らす。
「はは、そうか……君はもう、私から逃れられなくなったわけだ」
彼は私に綺麗になった靴を履かせると、汚れたタオルをゴミ箱に入れ、私の頭を撫でる。
「矛盾しているよ。一番幸せになってほしい人を、一緒にいたいという我が儘な理由で不幸にさせてしまっているのだから」
そう言って、彼は私の唇に触れるだけのキスをした。壊れ物を扱うように、それは大事に、大事に。その時、ある言葉を思い出す。
彼女は愛に呪われている
その通りだと思った。私は彼に呪われている。優しい顔をした、平気で人を殺すこの呪詛師に。
「……愛してるって、言ってませんよ?」
「もう言ったも同然だろう?」
そしてまた、愛おしそうに唇を重ねた。今度は長く甘いキスを。凄惨な殺しを忘れさせるように、私を逃さないように、私を深く呪うように。
***
洗面台の鏡を見ながら、自身の唇を指でなぞる。あの呪われたキスを思い出すと、ドキドキと鼓動が速くなるのを感じた。恋人ならキスはしてきたはず、もしかしたらそれ以上のことも……
「何してるの?」
「な、何も」
水を出しっぱなしにしていることに気づいたのか、美々子がそこへやって来る。私はハッと我に帰って顔を洗うと、彼女は首を傾げた。身支度を済ませると、私は慌てて朝食を作った。三人はいつも通りそれを食べる光景を目にすると、私は改めてこれが日常になるのだな、と感じた。すると傑さんが普段よりのんびりしたペースで食べていることに気づいた。
「傑さん、今日はお休みですか?」
「あぁ。今日は家にいようかなって」
「そうですか」
「えぇ!私達、今日は呪術の特訓なのに」
「一緒にいたかった」
「すまないね、美々子、菜々子。今日は彼女を独占させてもらうよ」
その言葉に、不満そうにしていた彼女達は一転して目を輝かせる。何故それで喜ぶのか、理解出来ずにいると、菜々子は興味津々に訊ねる。
「デートするの!?」
「お家デートね」
「外には行かないんだ」
「そうだね」
「明日、明後日くらいの買い出しには行きたいんですけど……」
「それくらいなら行こうか」
そんな話をしながら、まるで一家団欒の朝食を済ませると、美々子と菜々子は出掛けた。珍しく家に残った傑さんは、彼女達が居なくなった途端、私を自らの腕の中に引き込んだ。
「今日は二人きりだね」
「そ、そうですね」
耳元でそう囁かれ、ドギマギした私は声が上擦ってしまった。恥ずかしい。
「何をして過ごす?ベランダでゆっくりと本でも読もうか、君の好きなおやつを片手に映画を観る?それとも、ベッドの上でゆっくり過ごす?」
「買い物に行きたいんですけど……」
「選択肢にないものを出してきたね。そうだった、行こうか」
ベッドの上を少し想像してしまい、咄嗟に出た言葉だった。朝食の時も言っていたし、何の違和感もない。私はそう自分に言い聞かせながら、部屋へ戻って着替える。出て行くと、いつもの真っ黒なスウェットから変わっていない傑さんに、私服と呼べる私服がないのでは、と感じた。
「傑さん、服、それしかないんですか?」
「ん?ちゃんと着替えたよ」
「全然違いが分からない……」
「袈裟や必要に応じた正装はあるけど、普段着はあまりないかな。美々子と菜々子と出掛ける時に着た服はあるけど、季節外れだしね。これじゃあダメ?」
「いや、何でもいいんですけど……」
仕事以外で出掛けることが少ないんだろうか。それは少し、寂しい気がする。そう思いながらも私はそれ以上何も言うことなく、二人で買い物へ出掛ける。
傑さんは当たり前のように手を繋ぎ、私をドキドキさせてくる。彼の体温を感じるだけで、私は満たされていた。これは過去の記憶が思わせていることなのか、それともまた惚れ直したということなのか。どちらにせよ、私は彼が好きだと改めて実感させられる。
「今日は何を作ってくれるのかな」
「何がいいですか?」
「蕎麦が食べたいな」
「温かいやつですか?」
「いいや、ざる蕎麦」
「なるほど。じゃあそうしますね」
付け合わせは昨日の余り物でいいかな、と考えていると、傑さんは隣でふと笑った。私が顔を上げると、ごめんね、と辺りを見回す。
「まるで学生時代に戻ったような、そんな気がする。見えている景色は違うけどね」
「どんな学生時代でしたか?」
「……一言では言い表せないな。でも大切な日々だったよ。私が君にアプローチしても、なかなか気づいてくれなくてね」
「そうなんですか?」
「あぁ、でも私を好きになってくれた。君が意識してくれて、気持ちが分かった時、舞い上がるような気持ちでいたよ。幸せにしたいと、独占したいと、君を見る度に恋をしていたような気がする」
「な、何か、恥ずかしい……」
「ふふ、我ながら学生らしく、可愛らしい青春って感じだったよ。悟も君を気に入っていたみたいだし、少し焦りのようなものもあった……最初だけ」
今の落ち着いた雰囲気からはあまり考えられないな。焦りなんて微塵も感じない。人を殺した時だって、私が拒絶するかもしれないのに、さも当たり前かのように振る舞っていた。学生時代はそうでもなかったんだろうか。
「まぁ、焦っていても、君の前ではカッコつけたくて、そんな素振りはしなかったと思うよ」
私の疑問に答えるように話す。私の考えはいつも見透かされているような気がする。そんなことを他所に、彼は懐かしむように話を続ける。
「やっと君が意識してくれるようになって、意地悪もしたかな。少し焦らしたりもしたよ。君は分かりやすいからね。反応を見るのが楽しかった。今だって、そうだろう?」
「えっ」
ドキリとして思わず手を放したが、彼はギュッと握ったままで、揶揄うように笑う。
「言葉にしなくても分かるものだよ……あ、ここのスーパーだね」
いつも行っているスーパーに辿り着いた。話していればあっという間で、カゴを取ろうとすると、彼が代わりに取り、そのまま奥へ進んでいく。
「一緒にスーパーに来るなんて、まるで恋人、夫婦みたいで、時々はいいかもね」
その言葉と無邪気な笑顔にキュッと胸を締め付けられた。彼はずっと私が目覚めるのを待っていて、もしかしたら、人を殺した時に拒絶されるのではないか、という不安があったのではないか。そう考えずにはいられない。私の前ではカッコつけていたと言っていたが、今だってそうなのかもしれない。そう思えば思うほど、彼の手を放したくはないと感じてしまった。
買い出しを終えて帰宅すると、私は冷蔵庫に食材を詰め込む。傑さんはティッシュペーパーなど、冷蔵庫に入れないような物を片付けていた。
やっとそれを終えると、彼はさてと、と時計を見ては、ふと息を吐く。
「まだお昼だね。美々子と菜々子が帰って来るまで、ゆっくり過ごす?」
「傑さんの休みなんですから、傑さんの好きにしていいですよ」
「それって、何だかすごくスケベな言い方だね」
そう、私の耳元で話すと、私はそういう好きにしていいじゃない、と顔が熱くなる。しかし、彼はその反応を楽しむように笑うと、私の手を引いて、いつも二人で眠っている私の部屋に入っていく。
「さぁ、ベッドでゆっくりしようか」
「はい……」
出掛ける前に想像したことが起こるのではないか、と少し緊張してベッドに入ると、彼はいつも通り隣に寝ると、私をジッと見つめる。
「シてもいいの?」
「……傑さんの好きにしてください」
今度はそういう意味で言った。それを分かっていて、彼はくつくつと笑う。
「狡いなぁ、私に判断を委ねて……まぁいいよ。既成事実を作ってしまおうか。君が逃げられないように、ね」
「逃げる気なんて……んっ、」
彼は結んでいた髪を解きながら覆い被さってくると、深いキスをした。普段から彼は大きいと感じていたが、ベッドに押し付けられるようにキスされると、まるで獣に食されているような気分になる。
「君の匂い……まだあるけど、ほとんど、私に染まってしまったね。それもまたいい」
そう、私の首筋に唇を落とす傑さんに、私は何故かその場に存在しない香りを思い出す。甘い、花のような香りだった。
彼と触れ合う度、チカチカと何かがフラッシュバックする。私は彼を知っている、どんな人間で、私達の関係は……それもこれも、知識にない初めて得た刺激、快楽と共に考えられなくなっていく。私はずっとこの時を待っていたかのように、彼に身を預けた。
目尻から溢れた涙や、この愛おしさはきっと、過去の物。
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