#6.理想の世界





 今なら分かる。夢を追ったのは間違いだったと。星漿体の任務で何があったのかを知れた。夏油くんのことを知れた。未来のことを知れた。でもそれを知ったところで、記憶を失っていては元も子もない。
 私がこの深い眠りに就こうと思ったキッカケは、夏油くんが五条くんを封印したこと。夢を追ったお陰でハッキリした。夏油くんは特級呪霊達と共謀し、十月三一日に五条くんを封印する。自身の思う楽園の為に五条くんを封印したのか、彼の思惑はまだ謎に包まれたままで、私が眠るキッカケとなった五条くんが封印される場面の予知は見れなかった。五条くんと夏油くんの過去を見て、辛くなって、助けを求めた。それが私の夢に、生得領域に隙を作ったんだろう。タイムリミットだ。時間を費やし、見れたのは数年後の未来の一部と、過去だけ。五条くんに、伝えなければ。

 私が目を覚ますと、いつも見ている天井があった。違ったのは五条くんが隣で眠っていたこと。やはり少し成長しているだろうか、最後に現実で見た彼とは違っているように思えた。カーテンの隙間から溢れる月明かりに照らされ、輝く彼の髪色は最早懐かしいとすら思える。こちらに身体を向けて眠る彼の頬にそっと指を滑らせる。心地良い体温が、現実のように指先から伝わってくる。僅かに彼の寝息と鼓動が聞こえてくる、そんな静かな空間だった。
 あぁ、幸せだ。この孤独な世界に五条くんが会いに来てくれた。助けに来てくれた。見捨てずにいてくれた。

「私は幸せだよ、五条くんがいてくれるから」

 そう呟き、そっと手を離すと、彼はパチリと目を開け、碧眼が私を捉えた。そして大きな手で私の手を掴むと、自分の頬に私の手を戻した。

「そこはキスするとこじゃない?」
「そうだったかな。私達は恋人じゃなかったよ」
「似たようなもんでしょ」

 五条くんは起き上がったかと思えば、私を仰向けに倒し、覆い被さってくる。まるで私を待ち望んでくれていたようなその表情に、胸が熱くなり、再び幸せを感じた。

「幸せに暮らす私は、悪くないと思ったんだけど……」
「不幸面してる方がいい」
「変わってるね?」
「でも今、幸せって顔してる」
「幸せだから」

 やっぱり彼は私と同じように想ってくれているのだろうか。そう思っていれば、彼の柔らかい唇が私の唇と触れ合う。たった一瞬だったその優しい優しいキスは、想像していたよりも甘かった。キスをしたことのなかった私にも分かる。彼はすごく緊張していて、今のは勇気を出しての行動だったのだと。

「ふ、ふふ、あははっ!」
「笑うとこじゃないでしょ」
「ごめん、何度も言わせて。幸せだよ、五条くん。いっぱい、与えられてる」

 幸せで、幸せで、胸が熱くなって、終いには視界が揺らぎ、目尻から涙が溢れ落ちた。私は彼の頬に触れると、彼はギュッと口を噤み、私の首筋に顔を埋めた。

「オマエが笑うから、僕も幸せだよ」
「……良かった。そういう約束だったもんね」

 そっと彼の背を撫でると、五条くんは私の背とベッドの間に腕を通し、抱きしめると、擦り寄って来る。

「起きてから、続きしよ」
「つ、続きって……」
「キスの次は……分かるでしょ」

 思わずそれを想像してしまい、身体が硬直する。それに気づいて、彼はくつくつと喉を鳴らした。でも、私はそれが叶わないのだと分かっていた。ふと身体から力が抜けると、彼のシャツをキュッと握る。

「五条くん、何で私が記憶を失くしたと思う?何で、ずっと眠ったままなんだと思う?」
「知らない」
「深い深い眠りに就いてしまったから。それだけの代償を払って、未来を見てきた。もう私は二度と目覚めることはないんだよ」
「宿儺の器が現れるってだけの情報で、命懸けたのかよ」
「そうじゃないよ」
「意味分かんねぇ」

 五条くんは起き上がり、私に背を向けて、ベッドに座る。私もそっと身体を起こして、隣に座ると、予知夢のことを話そうと口を開こうとするが、彼はそれを制止する。

「何も言うな。本当に帰れなくなる」
「……もう手遅れなんだよ、ごめんね。せめて、意味のある死にさせて」
「誇りだとか、言われるぞ」
「もう、どうでもいいよ。私は祖父や家族の為に生きてるんじゃない、五条くんと自分の為に生きてる」
「オマエが死ぬことが、僕の為なの?」
「……そうじゃないよ。だけど無駄にするよりかはいいと思って。私の命を貰って。生きていてほしいと願ってくれている人に、貰ってほしいから」

 彼の手を取ると、自分の胸にそれを持っていく。夢の中の私もまだ生きている。彼の手に力は篭っていなかったが、ギュッと私の手を握った。

「いいよ。オマエの全部貰ってあげる」
「ありがとう」

 私はそっと繋いだ手を膝の上に置き、予知夢の内容を思い出しながら話す。それはどれも漫画でいう所の一巻から九巻までの話だ。重要なのは、夏油くんが全てを操っているということと、封印の日。私が知ってるのは、その程度だった。

「私が知ってるのは、その宿儺の器が現れる年、伏黒 恵が高専一年生になる年ってことくらいかな。あとは五条くんが何とかして」
「投げやり。細かいことはないの?」
「あまり憶えてない。これも五条くんの言った歪みの一つかもしれないけど、一度見た予知夢は二度と見れない。だから漫画も消えてなくなる」

 そう、私は本棚から漫画を手に取るが、中身は真っ白だった。この術式は、呪いは私を死に追いやるのが上手い。

「なるほどね、恵も関わってくるか」
「うん。彼が最初に宿儺の器と出会うから」
「へぇ、まぁでもその辺はうろ覚えってことでしょ?僕が関わってないから」
「関わってるけど、物語の最初の方だからというのもある。そんなに記憶力はいい方じゃないから……」
「僕のことを綺麗さっぱり忘れて、幸せな日々を送ってきたもんな」

 棘のある言い方だ、と私は本を元に戻すと、五条くんの前に立つ。

「ごめんね」
「……僕のお願い、聞いてくれる?」
「何?」
「あと三日ある。僕を幸せにして。現実に戻れば地獄なんだから」
「三日?四日じゃなくて?」
「丸一日寝てたよ」
「そっか……三日間ね、いいよ。五条くんも私も、この夢の中だけでは、忘れてしまおう。自分のことを」
「じゃあ今は、何をしたっていいよね」

 五条くんは手を伸ばし、私の腰に手を回すと、胸に顔を埋めてきた。少し恥ずかしい。いつかしたように、彼の髪を撫でると、彼は抱きしめる腕に力を入れる。少し痛くて苦しい、でもそれでいいと思った。まだ生きていると感じることが出来たから。


***


 何もしないことが、今の私達の幸せなのでは、と思った。四日目は何もせず、家にある食材でご飯を作り、ただテレビを観て過ごしていた。考えてみると、私達は呪術師で毎日忙しい日々を送っていた。学生時代から五条くんは働き詰めだった為、この世界でくらい休んでもいいのではないか、そう思い立ち、二人で何もせずにいた。しかし、夜になれば無駄に過ごしたという気持ちに変わってしまった。

「実質、あと一日しかないわけだ。明後日は帰らなきゃならないから」
「そうだね……明後日の朝だね、人がいない場所で、終わりを迎えたい」
「……なぁ、そろそろ名前で呼んでくれてもよくない?」

 まるで現実逃避をするかのようにそう話を変えた彼に、私は名前で呼ぶのは少し照れ臭いな、と感じた。

「悟、くん」
「呼び捨てでいいのに」
「それはハードルが高い……」
「それでいいよ。もう一回呼んで」
「悟くん、夕飯、作ってくれるんでしょ?」
「まっかせといて!悟くんが、美味しい美味しい炒飯作るから」

 名前を呼ばれたことに機嫌を良くした彼は、キッチンで夕飯の支度を始める。私は料理が出来ないから、何でも卒なく熟す彼が羨ましい。

「なぁ、夢の中でセックスしたらどうなんの?」
「は……?」
「したらどうなる?現実の俺は夢精すんのかな」
「……女性にそんな話をするのはどうかと」
「気にならない?」
「ならない。家入さんがドン引きするだけ」
「やだなぁ、パンツぐちょぐちょで起きんの」
「……」

 今は二人きりで、同じベッドで寝るようにまでなってしまった。そんな話をされると、変に意識してしまう。

「でも、今夜試してみる?」
「……一人でして」
「冷た」

 当たり前だ。私達の関係はそこまで進展していたのか?とにかく、夢の中でそういう経験はしたくない。だからといって現実でも出来ないだろうが。

「炒飯出来たよ」

 彼はテーブルに店の物と変わらないくらい綺麗なパラパラの炒飯を持って来た。

「美味しそう……洗い物は私がするから」
「え、出来んの?」
「何も出来ない奴みたいに言わないで」

 私達は何気なくバラエティ番組を観ながら過ごした。記憶のなかった私にとって、この世界での日々はただの平和な日常だった。でも、悟くんにとってはそうじゃない。せめてこの世界で、今だけは穏やかに過ごせたなら。

「僕、芸人になりたいなぁ」
「へ?」

 バラエティを観ていた彼は唐突にそう言った。いや、彼が芸人になるなど想像出来ない。何というか、無茶苦茶になりそう。

「どうして?」
「そうしたら、オマエを笑わせることが出来るかなって」
「はは、それは別に芸人じゃなくてもいいでしょ」
「……ほら、僕には才能がありそう、だろ?」

 隣に座っていた彼はそっと私の腰を撫で、そっとキスをした。昨日よりも深いキス。私がそれを受け入れると、彼は貪るように私の唇を欲した。やっと離れると、彼は私を引き寄せ、首筋に顔を埋めた。

「ここまでして、シないの?」
「……シないよ」
「頑固」

 私達は暫く、互いの体温を感じあった。するすると彼は私の腕から手にかけて指を滑らせていき、繋いだかと思うと、指で私の手を撫で、つつつ、と優しく指やその隙間、手の甲、手のひら、余すことなく撫でていく様が、性的に思え、私は恥ずかしくなる。

「その触り方、嫌なんだけど」
「変なこと想像した?」
「態としないで」

 私は手を放そうとするが、彼の力に引っ張られ、放すことが出来なかった。

「もう……」
「いいだろ、こんくらい」
「お皿洗って、お風呂入って、寝たいんだけど……」
「一緒に入る?」
「やだ」

 やっと手を放してもらえると、私は立ち上がって皿を流しに持って行き、洗っていく。悟くんは湯船を洗う為に風呂場へと向かった。こうして私達は風呂に入って、寝支度を済まさせた。寝室を見ると、悟くんはベッドで枕に顔を埋めて寝ており、私はもう二日くらい同じベッドで過ごしたし、今更いいか、とベッドに入った。すると彼は起き上がって、私に壁側に行くように指示する。

「何で壁側?」
「オマエが逃げないように」
「怖いこと言わないで……何もしないでよ」
「エッチなことはしないよ。ただ、朝起きて、オマエがいないと寂しいでしょ」

 何だか照れ臭い、と私は背を向けると、彼は私の全身を包み込むように抱きついてきた。触れている場所、全てが熱い。でも心地良い。目の前に回された彼の手を握れば、彼はびくりと身体を振るわせた。それから急に口数が減った彼は、私の後頭部に顔を寄せ、頬か額をぐりぐりと押し付けてきた。私はドキドキして暫く寝付けなかったが、彼の寝息が後ろから聞こえきて、私は幸せを感じながら、そのまま眠りに就いた。


***


 目覚めると、隣に悟くんはいなかった。隣にいないと寂しいと言っていたのは悟くんなのに。勝手な人だな、と私は起き上がって伸びをする。マトモに過ごせるのは今日だけだ。彼は何をして過ごしたいんだろうか。すると、ほんのりとトーストの香ばしい香りがした。何か作っているのだろうか、と思っていると、ベッドから見えるリビングダイニングで、二人分の朝食をテーブルに置く悟くんの姿が見えた。彼は私の視線に気づいては、おはよう、とこちらを見て、目を細めて笑った。そんな彼が眩しいな、と思いながら、おはよう、と目を擦りながら返した。

「寝起きって顔」

 近づいてきては、それはそれは愛おしそうに私の頬を撫でる。まるで自分が愛玩動物にでもなったような気分だ。

「悟くん、今日は何したい?」
「オマエの好きなことがしたい。やりたいことないの?明日死ぬのに」
「……悟くんと、マフィン食べに行けてなかったから行きたいな。ほら、エディブルフラワーの」
「あぁ……あれか。あれ食いに行きたいって時、大体オマエが寝るだろ?いい予感しないんだけど」
「どうせ明日には永眠するんだから、関係ないよ」

 私はベッドを抜けて、朝の身支度を済ませる。その間、悟くんは箸や茶を用意してくれていて、何だか申し訳ない気持ちになった。

「ありがとう、今日は外食でいいよね」
「ん、出掛けよ」

 私達は朝食を済ませ、店の場所を検索して、電車で行こうか、なんて話をしながら計画を立てた。それなりにメイクをして、着替えをして、出掛ける身支度を済ませると、そろそろ行こう、と大体店がオープンする時間を見計らって家を出た。駅はすぐ側で、歩いて行ける距離にあり、現実とリンクしているものの、大学生が多少の親の仕送りとバイト代だけで住める立地の家じゃないな、とまた夢の歪みを見つけて苦笑した。
 駅に辿り着き、電車に乗る。席は空いていなかった為、反対側の扉の前に立っていた。人々の視線は悟くんへと集まっており、何だか気まずい、と思っていると、彼はギュッと私の手を握った。

「僕、マフィンよりイチゴ味のドーナツの方が気になってんだよね。花がそのまま乗ってるっていうより、花弁が散りばめられてるやつ」
「それも見せてくれたね。飲み物も綺麗だった」
「好きなだけ飲んで食べなよ。それを見てるだけで、僕は充分」

 彼は手を放したかと思えば、私の髪に唇を落とした。恥ずかしい、こんな場所で。現実じゃないと分かっているが、それでもここにいる人間は現実味がある。

「……いつからそんなに積極的になったの?悟くんの方が現実味ないよ」
「何年経ったと思ってんの?僕だって変わるし、学んだ。女の子を喜ばせる方法とかな」
「その割にキスは緊張してた」
「はぁ?生意気。僕と以外キスしたことないくせに」

 彼はぐいぐいと私の頬を摘んで引っ張る。こういう所は変わってない、と私は思わず笑みを溢した。
 スイーツ店の最寄り駅に辿り着くと、悟くんは落ち着きなく私の手を何度も握り直しては、黙って私の隣を歩いている。

「どうしたの?」
「いや、別に。何か恋人っぽいなと思っただけ」
「キスまでしたのに今更……」
「そうだけど、そうじゃない。何かオマエと恋人っぽいことしてるなと思っただけ」
「あぁ……そう……」

 甘い言葉を囁き、同じベッドで眠り、キスまでしておいて、手を繋いでデートするのは恥ずかしいのか。少し可愛い気もする。

「何その意味深な返し」
「ふふ、ちょっと可愛いなと思っただけ」
「……オマエの方が可愛いし」

 ダメだ、照れてしまう。五条くんの気持ちが少し分かった。互いにそれっきり黙ったまま、でもしっかりと手を握って店まで向かった。
 店は落ち着いた雰囲気のあるカフェで、店には多くの花が飾られている。フラワーショップのようなカフェだ、と感じていれば、まずはレジカウンターで注文してから席に着くようで、店員がいらっしゃいませ、と声を掛けて来た。

「あ、やっぱドーナツよりこのフルーツトーストがいい。アイスついてるし、花もついてる。セットドリンクはメロンソーダ」
「私は、このマフィンとドーナツを一つずつ。あとはローズティーお願いします」

 今朝もトーストを食べたのに、と思いながらも会計を済ませると、私達は席に着き、それを待つ。こんなオシャレな店にはあまり来たことがないな、とそわそわしていると、悟くんは頬杖をつき、ジッと私を見つめた。

「僕、オマエに会いに行く度に花を持って行ってたんだけど、匂いって寝てても分かる?」
「んー……もしかして最近は花を持って来てなかった?」
「部屋でミムラス育ててた」
「それならきっと、夢に反映されてる。急に花を飾りたいと思って買いに行くことがあった。頻繁に変えていたけど、最近はミムラスだけを育ててたし」
「意味はあったんだ」
「あったよ。好きだった、どんな花も。手を握ってくれたのも分かった。温かかったよ」
「ふーん……」

 この相槌は嬉しい時のものかな。少し分かった気がする。注文して届いたメロンソーダを飲み、口元を緩めていた。彼は面倒な所もあるけど、こういう所は可愛い。でもこれは黙っておこう、きっと彼も私を面倒臭い女だと言うだろうから。
 店員が気を利かせてか、同時にフードメニューを持って来てくれた。チョコレートマフィンには花が咲いていて、イチゴ味であろうピンク色のドーナツにはカラフルな花弁が散りばめられている。ローズティーにも大きな薔薇の花弁が一枚添えられていたが。悟くんのフルーツトーストには旬のフルーツとバニラアイス、生クリームと共に、色とりどりのエディブルフラワーが添えられていて、彼は早速、綺麗だと私が口にする前にエディブルフラワーを一つ摘んで食べる。

「草」
「はは、花だけ食べてるの見ると、道端で葉っぱ食べてる犬みたい」
「もっと可愛い例えがあるだろ、小動物とか……でも花の香りはする」
「そうなんだ、じゃあ私もいただきます」

 マフィンやクリームの甘味はあったが、少しばかりの花の苦味と香りがふわりと口内に広がった。見た目もさることながら、味も良い。

「美味しい」
「ドーナツ一口頂戴」

 口をもごもごさせながら話す悟くんに行儀が悪い、と呟きながら、フォークでドーナツを切り、それを彼の口元へ持っていく。一瞬戸惑った素振りを見せた彼だったが、そのままパクリと食べる。餌付けしてるみたい、と思いながら私は自分の物を食べ進めていると、悟くんはお返し、と呟きながら、トーストにアイス、生クリーム、キウイ、花弁をバランス良く取ったスプーンをこちらに向けた。まさかお返しが来るとは、と思いながら大人しく口を開けて食べようとすると、スッと手を引っ込める。

「……意地悪だ」
「引っかかる方も引っかかる方だな」
「いいよ、いらない」
「拗ねんなよ。ほら、ちゃんと食べて」

 私は今度やったら、もう食べないぞ、と言わんばかりに彼を見て、口を開けた。今度はちゃんと食べさせてもらえ、ほんのり温かいトーストでヒンヤリとしたバニラアイスが溶け出して、美味しかった。

「美味しい」
「もうあげない」
「いいよ、私は私の分を食べるから」

 花の香りに包まれたその店内で私達はスイーツを食べた。これが現実だったら、と考えるのはやめよう。ここにいる悟くんは現実で、確かに私は幸せだった。

 今日一日、何かあったかといえば、特に何もない。まるで私に合わせるかのように、悟くんは私と一緒にショッピングしたり、夕飯は外食したいから、と奮発して高級な焼肉店に行った。何もないまま帰宅しては、風呂に入ってテレビを観る。ただ出掛けたというだけで、昨日と何も変わっちゃいない。

「もう遅いかもしれないけど、悟くん、したいことないの?」
「ん?僕はオマエといるだけでいいよ」
「本心は?」
「エッチなことシたいなぁ、なんて」
「夢から醒めて、後悔しても知らないよ」

 現実に男性はそういった現象があるんだから、余計にリアリティのある明晰夢と言えるこの夢でそういった行為をすれば、確実に……

「真面目ちゃんかよ。しないよ、揶揄いたかっただけ」
「今の私も悟くんも、想像で感じているんだと思う。あのマフィンの味も、きっとこういう味だと無意識に想像しながら食べてる。だから私は、その……シたことがないから」
「なるほど、そうきたか。じゃあ気持ちいいって思わせればいいんだな。想像力を掻き立てるような」
「い、いや、そういう意味じゃなくて……」

 何も思わないかもしれないし、悟くんも思わないかもしれない、ということを言いたかったが、彼はポジティブだ。余程自信があるんだろう。私はただ、起きた時に虚しくならないのか、と少し感じてしまう。少なくとも私は、悟くんを現実ではないと感じていた時に、夢から醒めたら虚しいだろうと思っていたから。どちらにしろ、こうしてデートをしていることすら、虚しい行為とも言えるのかもしれないが。

「死ぬ前にいい思いしたいだろ?」
「……知らないよ、どうなっても」

 現実にいる家入さんがドン引きしないよう祈るばかりだ。では早速、とテレビを消し、ベッドへと入って行く悟くん。私は勢いで言ってしまったけど、大丈夫なのか、と不安に感じていた。ニヤニヤと笑いながら彼は布団を捲る。そもそもこのシングルベッドで?と私は動揺しながらも、電気を消して、そっとベッドに座った。

「えっ……マジですんの?」

 まだ目が慣れていない暗い部屋で、彼がそう呟くと、本気にしてしまった私は恥ずかしくなり、一人で掛け布団を被って丸くなった。

「し、しない!」
「したいしたい!悪かったって」
「しません!」

 私は頑なに背を向けたが、彼は可愛いから、つい、と耳元で囁いては、するりと私の身体を撫でた。

「最期に、一生忘れられないくらい、いいことさせて」

 チラリと背後を見ると、暗がりの中で欲情した彼と視線が合った。そして次には唇が触れ合う。あぁ、私はきっと、ずっと前から触れ合いたかったんだろう。


***


 遂にこの日がやって来た。私はいつもとは違う朝を迎えた。私と同様、生まれたままの姿で隣で眠り、脚を絡めてくる悟くんを起こさず、避けながらベッドから抜け出し、ベッドの下に落ちている服を着る。昨夜起こったことを思い返さないように、簡単な朝食を作ろうとした。しかし──

「逃げられると思ってんの?」
「逃げようとはしてないよ。朝ご飯、作ろうとしただけ」
「……もういらないでしょ、ご飯なんて」

 私の腹に腕を回して抱きつく彼の髪を何となく撫でる。

「じゃあ、あと数時間、どうしてたい?」
「オマエと、ただボーッとしてたい」
「そっか。じゃあそうしよう」

 悟くんは起き上がると、私は思わず目を逸らす。彼は服を着ると、ジョウロに水を入れてベランダへ向かい、ミムラスに水をあげたかと思うと、そこに座り込む。相当思い入れがあるんだな、と感じた。私もそうだけど。私達は記憶を取り戻す前と同じように並んで座った。

「ライラックの香りを今でも思い出す」
「昔、つけてたね」
「花言葉は愛の芽生え∞初恋≠轤オい。その通りになったなーって思う」
「……初恋だったの?」
「うん。だから、どうしたらいいのか分かんないの。高専時代なんか特に……」
「意外だなぁ、悟くんは経験豊富だと思ったのに」
「何でそう思うの」
「何でって、カッコいいから?それに昨日も、あれだったし……」
「そりゃモテたし?女が放っておかねーじゃん、こんなイケメン。そこで身につけたの。でも、愛とか恋とは関係ないでしょ。僕が相手を好きになるかは別」
「割と最低な発言してると気づいてほしい……」

 とにかく、恋多き人ではなかったんだなぁ、と私は思っていれば、彼は私の手をそっと握る。互いに沈黙して花を見つめ、手に伝わる体温を感じていたが、私はミムラスに触れると、プチっと茎を折って、一つの花を取る。

「何してんの?」
「現実では叶わないから。プレゼント。ねぇ、悟くん笑顔を見せて=v

 悟くんには、最期まで笑っていてほしかった。思い返せば、彼は夏油くんや家入さんの前ではよく笑っていたが、私と二人きりの時は不機嫌だったように思える。まぁ、最近は揶揄うように笑っていたり、優しい笑みも浮かべるようになっていたけれど。

「笑わせてよ、僕のこと」

 私の話はつまらないし、どうしよう、と悩んでいると、彼は私の手から花を取り、それを弄り、眺めている。そんな彼の横顔を見て、そっと身体を起こして膝をつくと、悟くんの頬にキスをした。昨夜のことがあったとはいえ、私にはとても勇気のいることだった。こんなことで笑顔になるかどうかはさておき、私はそれがしたかった。一方で悟くんは何が起こったのかを理解すると、一瞬で白い肌が紅潮した。そして目を丸く見開いては、私を見つめる。

「ごめん。したくなって」
「っ、」

 悟くんはいきなり私の顎を掴むと、噛みつくようにキスをしてくる。余裕がないように、私の唇に吸い付き、苦しくて口を開くと、彼の舌が入り込んできた。大きな身体に腕を回し、しがみつきながら、彼と舌を絡ませていく。昨夜のことが思い出され、多幸感に包まれた。彼にゆっくり押し倒されながら、深い深いキスをする。快楽が伝わってくる。これらが気持ちが良いと感じたのは、きっとただの妄想ではなく現実なのだろう。

「はっ、こっちの方がいいだろ?」
「ん……っ、ずる、い」
「……手放したくない」

 そう言って彼は私を抱きしめた。私だってこの幸せを手放したくない。それでもこれは決まってしまったことだから。

「悟くん、そろそろ行こう」
「どこに?」
「生まれ変わるの」

 そう言って私が立ち上がれば、彼も私の手を握ってついて来る。どこに行くかは彼も理解しているようだ。
 まだ早朝、ほとんど人はいない。私は駐輪場に停めてある自転車を出すと、悟くんがサドルに座るが、低いと感じたのか、サドルをすっぽ抜けるんじゃないか、というくらいまで上げた為、違和感がある自転車になってしまった。

「掴まってて」

 荷台に座り、ギュッと彼の背にしがみつく。振り落とされないように、最期までこの体温を忘れないように、幸せを噛み締めるように。悟くんはペダルを踏み、進んでいく。思ったよりフラついている為、私は思わず笑ってしまった。

「そんなに重かったかな」
「自転車なんて普段乗らないし」
「もっと急いで!」

 そう声を上げると、ペダルはより回転し始め、スピードも上がる。揺れる自転車に振り落とされまいと必死にしがみついていれば、すぐに目的地に辿り着いた。その場所は、私達が生まれ変わった橋だった。近くには一年間、入院していた病院が見える。欄干の隙間を覗いてみれば、あの時と変わらず、浅めの川が随分下で流れている。

「別に自殺することはないでしょ」
「でも、五条くんに殺されるのもなぁ。嫌じゃない?」
「誰だって殺す覚悟を持って生きてるよ」
「強いね」
「なるようにしかならない。オマエを引き止めても結果は同じ」
「そうだね……」

 私は自転車の荷台に足を掛けて乗ると、それを足場にして、高い欄干の上に座り、悟くんを見下げる。

「生まれ変わったら、また悟くんに会いたいな」
「……深い眠りに就く前に言った言葉、言って」
「…………好きだよ」

 この言葉は言いたくなかった。聞きたくもない。互いに気持ちは知っている、通じ合ってる。でも、それでも……

「その言葉は呪いだよ。この感情も、呪いだ。オマエの笑顔を見ることに執着して、いつしか僕の物にしたくなって、僕がオマエを幸せにしたくて、オマエに幸せにしてほしいと思ってたんだ、本気で」
「……ごめん」
「僕も、好きだよ」

 その言葉が、私の胸に強く強く突き刺さった。確かにこれは呪いの言葉だ。重く、苦しく、それが私にのし掛かる。
 ふと視界が揺らぎ、目から次々と涙の粒が溢れ落ちていく。

「ずっと、俺はオマエが好きだったよ。今も好き」
「ごめん……」
「こんな、オマエが理想とする平和な世界じゃなくても、地獄のような現実でも、一緒に生きたいと思ってたんだ」
「ごめん、なさい……っ」

 その大きな手が私の頬を包み込む。いつだったか、彼が私の頬に触れた時、強く拒絶した。でも今は違う。ずっとその体温を感じていたくて、彼の手を握った。私はきっと、呪われてしまったんだ。ポタリと私の涙が彼の頬に落ちる。それがスゥと流れていくと同時に、悟くんは私を引き寄せて、キスをした。たった一瞬の出来事が、私の胸を締めつける。

「呪いあった仲だ。きっと会えるよ」
「……悟くん笑顔を見せて=v

 私は彼がベランダでキスした時に落としたミムラスの花のひとつを持って来ていた。それを彼に差し出すと、再びそれを受け取っては、私の手を握った。

「愛してるよ」

 照れからの笑顔だろうか、少しぎこちなかったその笑顔は、作り笑いではなかった。だから私は満足して笑った。

「ミムラスはまるで、私達のようだね」
「それ、僕が言った言葉だろ」
「そうだよ……ごめんね、狡い女で」
「どういう意味?」
「悟くんを一生呪うようなこと、しちゃって。でも、悟くんに別に大切な人が出来たなら……」
「どうだろう、これは呪いだから。それに、僕は一途なんだ。五年も、眠るオマエに花を贈り続けたんだし」

 私はずっと彼を縛り続けるんだ。その罪を背負いながらも、私は死んで行く。彼を残して。

「ありがとう」
「だから、次は忘れんなよ」
「うん……そうする」

 名残惜しい。あぁ、死にたくない。まだ一緒にいたい。でも、そういうわけにはいかないから。

「……言い残すことはある?」
「家族には、ただ呪われて死んだと告げてほしいかな。あとは……」

 勿論、悟くんに言いたいことはある。これで本当に最期だ。


「私も、愛してるよ」


 そう言い残し、彼女は後ろに倒れていった。そうして欄干の先で生々しく何かが激突する音と共にパシャリと水が跳ねる音もした。死の音だ。
 彼女の生得領域は崩れていく。それと同時に僕もその場で強い眠気に襲われ、意識を失った。
 目を覚ますと、彼女が眠っている部屋にいた。高専の一室、そこには彼女のベッドしかなかったはずなのに、僕のベッドも用意されていて、彼女の隣で眠っていたようだ。起き上がって、彼女のベッドに座った。そっと触れた手に生気はない。彼女はもう夢に囚われることはないが、花の香りを感じることも、僕の手の温もりを感じることもないし、目覚めることもない。
 夢での死が現実でも反映されるなんて根拠はどこにもない。ただ、夢の中で心拍数が上がるような行動を起こすと目覚めることがあるらしい。だから何も知らない彼女を脅してでも目覚めさせたかった。

「本当に、死んでしまうなんてね」

 僕が彼女の夢へ入らなければ、何も知らないままその命を終えたのだろうか。矛盾を抱えたまま、でも幸せにいい夢を見られ続けたのだろうか。
 ガラリと病室の扉が開いた。そこには水の入ったコップを手に持つ硝子の姿があった。

「随分と早かったな」
「一週間、彼女と夢を見てたよ」
「一週間?夢の世界と時間がズレているようだな。眠ってから半日しか経ってない」

 硝子は彼女の枕元にあるチェストに飾ってあるミムラスに水をやる。それを見ながら、僕はもっと彼女と過ごしていれば良かったと思った。もっと、短い幸せを感じていたかった。

「目覚めないのか?」
「……殺したよ」
「……そうか」

 硝子は彼女の手首に触れ、確認する。そして、そっと毎日のように見てきた彼女の顔を見て、頬を撫でた。

「ふ、幸せそうだな」

 ふと顔を上げて彼女を見る。少し微笑んでいるようにも見えるその表情に、僕だけが地獄に戻って来たのだと感じた。

「僕は地獄で生き続けないといけない。オマエのいない、この世界で」

 傍にあったミムラスの花を一つ千切って、彼女の髪に挿した。

「おやすみ」

 いつも通り彼女にそう告げると、それに応えるかのように、窓から風が吹き、カーテンを揺らした。
 ミムラスの独特な香りが鼻腔をくすぐる。この香りも、この笑顔も、最期の最期まで僕は忘れられないんだろう。






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