#4.それは青春の思い出≠セった。A
初夏にはミムラスの花が終わりを迎えようとしていた。独特な香りを持つその花を、私は気に入っていた。毎日水をあげ、切り花より長く保った為、愛着が湧いたのかもしれない。そろそろ枯れると知り、部屋までやって来ては隣でそれを眺めている五条くん。彼はこの花を見てどう思うのだろうか。
「花だな」
「そりゃあ、花だよ」
「葉っぱが多いし、何かなぁ、傑があげた花瓶に挿してる花の方がいいな」
「そっちも綺麗だけど、ミムラスも綺麗だよ。もっと花壇とか大きめのプランターに植えてあげたら、この子ももっと綺麗に見えると思うんだけどね。部屋で育ててるから難しい」
「じゃあ卒業して、寮を出てからやったら?」
「うん、またミムラスを育てよう」
五条くんは少しそわそわしながら花を見つめていて、私は以前、検索してヒットしたミムラスの花言葉をを思い出す。
「笑顔を見せて≠アれがミムラスの花言葉のひとつとしてあるけど、そういう意味でくれたの?」
「……いいでしょ。悪い言葉じゃないなら」
「そうだね。見てると、自然と笑顔になれる。そんな気がする」
愛着が湧いたからか、日々の生活が楽しいと思えるようになったからか。それとも、笑顔が見たいなんて、花言葉だけで伝えて来る彼の不器用さを思い出すからだろうか。
「あっそう……他の言葉あんの?」
「おしゃべり∞騒々しい∞気の弱さ∞静かな勇気∞援助の申し出=v
「最後の意味分かんねぇ」
「何でミムラスの花言葉になったのかは知らないけど、不思議だね。私も五条くんへのプレゼントはミムラスにしたら良かったかな」
「俺の笑顔が見たいって話?」
「騒々しいって話」
私はふと笑って立ち上がれば、彼はムッと口を曲げながらも、立ち上がって玄関へ向かう。
「……オマエ、今日は俺と任務でしょ。行くぞ」
そういえば、任務前に咲いた花を見るって話だったな。と私は準備して五条くんについて行く。私達の間には沈黙が流れていたが、それは苦ではなかった。彼が話さない理由は、私が騒々しいと言ったからだろう。
補助監督の車に乗れば、以前担当してくれた補助監督だということに気づく。
「あ、どうも。よろしくお願いします」
「今日は二人か、良かったですね」
「まぁ……五条くんが全部片付けると思いますけど」
「…….知り合い?」
「単独任務した時に担当してくれた人」
「いやぁ、あの日は仕事が早くて助かりました!」
「簡単でしたよ?」
「はは、君はやっぱり補助監督向きじゃないなぁ」
いいや、私は補助監督になるんだ。言葉には出さずに黙っていると、五条くんは携帯を取り出し、ポチポチとそれを弄っていたかと思うと、こちらに画面を向けてくる。そこには恐らく食用花、エディブルフラワーで飾りつけられた色鮮やかなマフィンやドーナツ、飲み物の写真があった。可愛い。それを見せた意図を訊ねようとしたが、五条くんは私が言葉を発する前に答えを出してくれた。
「終わったらこれ、食いに行こう」
「あ、うん。いいよ」
断る理由はない。きっと私が花が好きだから選んでくれたのだろう。すぐに頷くと、彼はパタンと携帯を折り畳んで、ポケットにしまった。それだけの為に取り出したんだ、と考えていると、彼は部屋から車まで沈黙していたのにも関わらず、急に饒舌になり始める。
「硝子から聞いたけど、オマエが通ってた花屋、潰れたんだって?俺が行った花屋、教えてやるよ。品揃えも豊富で、店員もいい感じだし」
「その店で花を買ってくれたんだよね。また教えて」
「うん……あ、今日も香水つけてんな。わざわざ店行って買ってんの?」
「そうだよ。慣れてきた?」
「慣れた。ちょっと落ち着くようになったかも」
「それは良かった」
「でも似たような香水つけてる奴いてさ、何か違うな、と思った。あんま詳しくないけど、種類ありすぎて分かんねーわ」
「うん……」
「そういや、硝子がたまたま見つけた誕生日ケーキ買ったケーキ屋、結構良かったよな。そこのチョコケーキが食ってみたい。次の誕生日もそこな。いや、誕生日じゃなくてもいいんだけど。日曜とか空いてる?突然食いたくなってきた」
「う、ん……」
五条くんが隣で騒がしく話しているというのに、私は強い眠気に襲われる。昨夜はしっかりと眠れたし、夢も見ていない。それなのに、おかしい。そのまま私は五条くんの声を聞きながら眠りに就いた。予知夢を見る時の強制的な眠りに近い、そう感じた。
気づけば、私は寮の自室のベッドに座っていた。しかし、ここは夢の中なのだと分かる。思った通りに動けるこれは予知夢ではない、明晰夢とでもいうのだろうか。
私は玄関へ向かい、扉を開くが、そこにあったのはいつも見ている廊下ではなく、黒い壁だった。まるでそれは帳のようで、困惑した。窓も確かめようと、カーテンを開けると、窓の外も黒い壁で覆い尽くされていた。これが何を意味するのかは分からないが、ただ不気味だった。
すると部屋のどこからか、私を呼ぶ声が聞こえた。これは五条くんの声だと気づき、辺りを見回すと、テレビがパッとつき、車内が私の視点で映される。恐らく私は隣に座る五条くんにもたれ掛かっている状態だろう。彼は私に着いたぞ、と話していた。テレビに映っているのは数秒後の未来だろうか。どちらにせよ起きなければ。そう思ったが、どうやって目を覚ますのかが分からなかった。
「五条くん、私、起きられない……」
現実の動きと夢の中での私の動きがリンクしていないことが分かる。そうでなければ、部屋を歩き回っている私は、現実では車内で身体をぶつけていることだろう。
『おい、起きろって』
やはり私の声は聞こえていないようだ。どうしよう、何故こうなってしまったんだろう。最近、眠気に襲われることがよくあるけれど、これは全て術式を使った影響か。
『……任務は俺一人で行ってくるんで、コイツ見といて』
『は、はい!』
私は後部座席に寝かせられると、そのまま五条くんは出て行ってしまった。私はテレビでその様子を見ていて、ただどうしたらいいのか、と戸惑い、再びそこから出る方法はないのか部屋を見て回る。しかし何もない。出口は塞がれているし、何が条件で起きれるかも分からない。
悩んでいる間に時は経ち、五条くんが帰ってくる。まだ眠っている私を見て、彼は私の目の前で手を振る。
『見えてんの?返事しろ』
『ただ眠ってるだけじゃないんですか?』
『コイツは眠ることで呪力が増幅する。そんで予知夢を見て、行動出来る。呪力の流れを見ても、今コイツは予知夢を見てるはずだけど、動かない』
五条くんはそっと私の手を握った。ふと、その温かさが夢の中の私にも伝わってきた。握り返すように拳を作るが、予知夢の私に変化はない。私はテレビの中の五条くんに向かって手を伸ばすと、視界が揺らぎ、その場で倒れた。
「っ!」
身体がびくりと跳ね、目が覚める。そこには予知夢で見た時と変わらない、五条くんと補助監督の姿があった。
「任務、ちゃちゃっと終えたぞ」
「知ってる……でもよく分からなくて」
私は五条くんに何が起こったか話した。彼は真剣に話を聞きながら黙って考える。しかし、パッと顔を上げたかと思えば、席にダラけて座る。
「わっかんねー!でも馴染み深い寮にいるってことだろ?記憶が関わってきてるんじゃね?」
「うーん……最近、よく眠くなる。術式を使う度に変化がある」
「オマエの術式、結構強いからな。それなりの縛りが発生するのかもしれない。使い続ければ、いつかずっと眠りに就いたまま予知夢を見続けるかもしれない」
「それは少し怖いな……」
「夜蛾先生に相談したら?」
「……そうする」
夢の世界で生き続けるなんて、そんなの無意味で、きっとつまらない。
「その前にマフィン食べに行くぞ」
「ごめん、そんな気分じゃなくなった……また、今度にしよう」
「ま、いいけど」
そうして私達は高専へと帰る。車内ではずっと、五条くんは私の手を握ってくれていて、夢の中でもその体温は安心した。だから、私も手放せなくなっていた。
それから私は、眠ることが恐ろしくなったんだ。
***
あの出来事以来、夜蛾先生に事情を説明したお陰か、私は座学に集中出来るようになった。距離を置きたいと思っていた同期の三人と、いつの間にか友人になっていて、四人で過ごすことが当たり前になっていた。しかし、自然と五条くんと夏油くんは強い為、任務に出ることも多く、家入さんも私とは違う方向の勉強もしている。
一昨日は庵さんと冥さんの捜索任務に三人で向かって、帳を下ろさなかったことを叱られていたっけ。私は庵さんと冥さんとあまり面識もないし、何も出来ないから、とついて行かなかった。そういえば、星漿体の護衛を天元様から指名してもらい、五条くんと夏油くんが受けたらしいけど、今日は帰って来ないんだなぁ。
「歌姫先輩がまた話したいって言ってたよ」
「私と話してもつまらないと思うけど……」
「暗いなぁ」
隣で私が上の空で自習しているのを見て、家入さんが声を掛けて来たが、私は間を持たせるのが苦手だ。もっと人と上手く付き合える方法はないだろうか。そう考えるようになったのも、彼らの影響だろう。呪術高専に来て、私の日常は一変した。心持ちも変わったと思う。
「……家入さん、そろそろ休憩しない?おやつの時間だし。珈琲とか淹れよう」
「まだ眠い?」
「今日は大丈夫。前、五条くんに言われたよ、ずっと眠りに就いたまま、予知夢を見続けるんじゃないかって……だから最近、眠るのが怖い。二度と目覚めないんじゃないかって」
「それは怖いな」
「死んだらそこで終わり。何も感じることはない。けど、眠ったら私は、部屋に閉じ込められたまま、ずっとテレビで予知夢を見続ける。その身体が生き長らえるまで、ずっと。寂しいよ、何も出来ずにただ見ているだけというのは」
「そうだな……その術式は使わない方がいいかも」
これは暗いと言われても仕方がない。私は珈琲を淹れて来よう、と立ち上がった時、校内にアラームが鳴り響いた。何があった、と私達は窓の外を見ると、森の近くに蠅頭の群れがいることに気づいた。
「何で蠅頭が?」
「……嫌な予感が、する」
何かがあった。五条くんと夏油くんが一昨日からやってる任務が関係してるなら、巻き込まれてるのかも。
「私も、行った方がいいかな。家入さんはここにいた方がいいと思うけど」
「いや、指示があるまで行かない方がいい。私の傍にいて。何かあったら守って、怪我人が出てるかも」
私達は家入さんの治療を必要とする人がいるかもしれない、と医務室へ向かった。何故こんなにも胸騒ぎがするんだろう。ただ動揺しながら、彼女の傍にいた。
暫くすると、そこに胸にばつ印に傷を負った夏油くんがやって来る。それを家入さんは反転術式で治療をしていく。
「誰にやられた」
「呪詛師だよ。悟が、やられた」
「やられたってどういう意味?死んだってこと?」
「……殺したとは聞いた。私は今から、奴を追う」
「私も、行く……」
つい出た言葉は、呪術師としての言葉、友人としての言葉。あんなに使いたくなかった術式を誰かの為に使おうとしている。でも、夏油くんはいや、と私の肩に手を置く。
「君はここにいて」
「……予知夢を見る。その人を探し当てる」
「どうやって?君が未来に会うかも分からないのに」
「予知夢は私以外の視点でも見たり、他人を俯瞰して見ることも出来る。制限はないけれど、かなりの呪力を消費する。だからあまりしないけど……」
「やめた方がいい、使ったら目覚めないかもしれない」
「それでも、やりたい」
私はそう言って、彼らの反対を押し切る形で、強制的に眠りに就いた。
やはり前と同じ、寮部屋にいた。しかし、テレビで見えている予知夢は思い通りに手を動かすことも、言葉を話すことも出来ている。
「動けてる。今から、予知夢を見る」
そうして、高専内全体を俯瞰視点で見る。まるでビデオテープを早送りするように予知夢を見て、進めていく。夏油くんは盤星教という宗教団体の施設を巡っていて、その中で、やっと見つけた先に、五条くんがいた。血だらけの、まるで別人のような姿で星漿体の女の子の遺体を抱えている。私はそれを見つけた瞬間、夏油くんが最終的に辿り着いた施設の場所や、五条くんが生きているということも話す。
『ありがとう。私はそこへ向かう。君は休んでいて』
夏油くんが出て行くと、私は目覚めようと、あの時と同じようにテレビに手を伸ばす。すると、前と同じように視界が揺らぎ、その場で倒れるように、私は眠った。
***
声が聞こえる。それは戸惑い、恐怖、助けを乞うような多くの悲鳴。最期には血反吐を吐くように潰された。夢は鮮明になっていく。周りには呪霊がいて、自身を襲うことはない。ただそこにいる人達の赤い血が私の脳裏に焼きついた。
目覚めると、真っ先に見えたのは白い天井。辺りを見ると、そこが高専内の医務室ではなく、一般の病院の一室なのだと分かった。何が起こった、と私は窓から差す月明かりを頼りに、ナースコールを押す。ぼんやりとする頭や視界。重い倦怠感があるが、身体を無理矢理起こす。一般の病院で且つ腕に繋がれた点滴や身体の不調を考えると、思っているより長い時間眠っていたのだと察しがついた。私の体感は先刻まで教室にいて、家入さんと夏油くんと話していた時で止まっている。まだ教室や高専にいてもいいくらいの感覚だ。
ふと夢の光景がフラッシュバックする。耳に残る悲鳴は一体誰のもので、誰の過去だったのか。こんな悪夢は初めてで、少し気分が悪くなる。そこに看護師がやって来、私を見るなり目を丸くしていた。そのくらい私は長い間眠っていたのか。訊ねようとしたが、身体の不調を問われ、とにかく言うことを聞いて、正しく返答した。
「ご家族に連絡しますね」
「いや……その前に、呪術高専に。友人に、連絡したいです」
まず考えたのは、五条くんと夏油くんの安否確認だった。その次に一緒にいた家入さん、そして夜蛾先生に状況を確認したかった。後輩の七海くんと灰原くんも任務に出ていたようだし、私のことも心配してくれてるかも。
「私は平気なので、電話だけ掛けさせてください」
携帯はどこに、と辺りを見ると、看護師の女性は花が置かれているサイドチェストから携帯を取り出し、差し出してくれた。一人部屋の為、電話をしていいと許可を貰う。彼女は先生を呼んできますね、と出て行き、私は電話をしようと、携帯を開く。充電はほとんど残っておらず、現在の時刻は九月中頃の午後十時三分と表示されており、約一ヶ月は経っていることに気づいた。そこで、まず誰に電話した方がいいか、と考える。全ての状況を把握するには夜蛾先生だと思ったが、五条くんと夏油くんの心配をし、どちらかと言えば訊きやすいのは夏油くんだ。そう思い、電話帳から夏油 傑の文字を探し出し、電話を掛ける。ワンコール、ツーコール、スリーコール、そこでやっとプツッと音が途切れたかと思えば、彼の声が少し遅れて聞こえてきた。
『……もしもし』
「もしもし、夏油くん?」
『やぁ、今起きたのかな』
「そう。病院から連絡していて……真っ先に夏油くんに掛けなきゃと思って」
そう言えば、彼のくつくつと笑う声が聞こえてきた。電話越しでも、少し笑いを堪えていると分かる。笑うとこだったか?と彼に見えてもいないのに、首を傾げる。しかし、それを見透かすように、すまないね、といつも通りに話す。
『一番に掛けたのが私か。悟に妬かれてしまうね』
「どういう意味?だって、私は夏油くんに五条くんの居場所を教えた瞬間に眠ってしまったから、心配で」
『そうか……君の時間はそこで止まったままなんだね。悟が心配していたよ、夢に閉じ込められたままなんじゃないかってね』
「今回はそんなことなかったよ。何が条件か、よく分からないけど……それより、状況を教えて?大丈夫だったの?」
その言葉に彼は一拍置いてから、五条くんが呪詛師を殺したことや、星漿体の女の子を助けられなかったこと、五条くんは最強になったということ、その日にあったことを細かく話してくれた。
『そんな忙しい日だったのに、今度は君が倒れちゃうなんてね』
「ごめんね、私、迷惑ばかり掛けてしまって。まさか術式で一ヶ月も眠っちゃうなんて」
『一年だよ。今は二◯◯七年の九月』
「えっ……」
確かに、携帯の日付に年数は書かれていなかった。でもまさか一年も寝ているとは思っておらず、サァと血の気が引く。
「う、嘘……」
『本当だよ。あれから、色々と状況が変わってしまってね。詳しくは他の皆から聞くといい。私は、もうこの番号を使わなくなるから』
「新しい番号に替えるってこと?そっちを教えてもらえれば……」
『番号は何だったかな。新しいから憶えていなくてね。悟から聞いてもらえるかな。今は傍にいないんだ』
「そっか……分かった。夜にごめんね」
『いいや、君と話せて良かったよ。さよなら』
「うん、じゃあまた」
少し間があったが、プツリと切れた。何だか声の雰囲気が変わったと思ったのは、一年も眠っていたからだろうか。
丁度、男性医師がやって来ると、私の容体について確認をしてくる。それに答えて、やっと医師から意識はハッキリとしているし、大丈夫だろうとお墨付きをもらった。まだ電話したい相手がいるから、と言うと、彼らは病室から出て行った。
それなら、夏油くんから名前も上がっていたことだし、五条くんに掛けなければ、と電話帳から名前を見つけて、掛ける。一年振りだから怒るだろうな、と少しドキドキしていると、彼は早めに電話に出ては、私の名を叫んだ。音が割れすぎて、これは怒鳴っているのか、それとも喜んでくれているのか、ただ驚いているだけなのか分からなかったが、とにかく私は耳から一旦離した携帯をまた耳元に寄せて話す。
「ご、五条くん……声が大きいよ、もう十時半になる」
『……起きたんだ』
急に声が落ち着いた五条くん。怒っているのか、と私はとにかく謝った。
「ごめんね。使わない方がいいって言ってたのに。聞いたよ、心配してくれてたんだよね、夢に閉じ込められてるんじゃないかって」
『誰から聞いたんだよ、そんなこと』
「夏油くんだよ。あの時、私は予知夢の内容を夏油くんに話したから、真っ先に電話したの」
『は……?アイツ、電話出たの?』
「うん。あの日あったことも夏油くんから聞いたよ。五条くんが死にかけたことも知ってる。私、何かしなきゃと思って」
『もう二度とすんなよ。今、東京戻って来たとこで、タクシー乗ってる。そっち行くから』
「えっ、面会時間は終わってると思うけど」
『いーから!』
五条くんは恐らく、タクシーの運転手に言っているのだろう、病院の名前を告げ、そっちに目的地を変更、と指示していた。
『窓、開けといて』
「侵入は良くないよ、また明日、」
『黙って言うこと聞いてろ』
電話越しでも分かる圧に、私は頷くしかなかった。彼も彼で一年も眠っていた私を心配してくれているのだと分かるけど、と私はじゃあ、と言葉を続ける。
「窓を開けて待ってるよ」
『ん、すぐ行く』
少し声が柔らかくなった。私はまたね、と電話を切ったが、すぐに五条くんから電話が掛かってき、何か言い忘れたことでもあるのか、と私は電話に出る。
『何勝手に切ってんだよ』
「いや、来るしいいのかなって」
『はぁ?このまま電話繋いどけ』
「え、何で?夜蛾先生と家入さんにも電話しようかと思って……」
『夜蛾先生も硝子も後でいい。どうせ明日、お見舞い行くでしょ』
何が不安なんだ、と思いながらも私は分かったよ、と諦める。一年間、横になっていた弊害が来ていて、脚の筋力が衰えているのが分かる。震える脚で立ち上がり、点滴を杖代わりにし、動かしながら窓を開けようと、窓際へ向かう。それを悟られないように、私は話をする。
「夢には閉じ込められなかったよ。悪夢を見たけど、一年前がついさっきのことのように思える」
『それならまだマシな方だろ。夢に閉じ込められたあの時とは呪力の流れが少し違ってたから、前とは状況が違うとは思ってた』
「そっか……私より、私のこと知ってるね」
『オマエが分かってなさすぎ』
私はやっと窓の前に辿り着くと、窓を開ける。ふわりと夏の夜風がカーテンを揺らす。そこでやっと気づいた、この病室は一階や二階ではなく、もっと高い位置にあることに。
「五条くん、この病室、高いよ」
『四階だけど、飛べるし、行ける』
「目立つよ……」
『人がいないか確認する』
「五条くんも明日でい、あれ?」
プツッと音がした為、携帯の画面を見ると、真っ暗だった。そこでやっと充電が切れかかっていたことを思い出し、これは後で五条くんに怒られるな、と覚悟した。
私は元の位置に点滴を置き、窓に背を向けるようにベッドに座る。足を動かさないと、と脚を伸ばし、円を描くようにくるくると足首を動かす。
何も考えることがなくなった時間。私は、何故こんなことをしているのだろう、と不意に感じた。呪術師になりたくないというのに、自ら術式使って眠りに就くなんて。
祖父は常に他人を優先する人だった。上辺だけで誇りだと語る家族を私とは違って、心の底から愛していた。呪術師になったのは、大事な家族を守る為だよ、と語った祖父は誰にも理解されずに死んだ。その時の祖父の言葉に、まだ呪術に対しては疎かった当時の私は、カッコいいと思ったんだ。だから、祖父が死ぬまでは祖父のような呪術師になろうと思っていた。祖父も、いつか私の気持ちが分かる時が来るよ、と言っていた。しかし、私は祖父の気持ちを知らぬまま、上辺だけで誇りだと語る、祖父が守ってきた家族が憎らしくて、彼らに後悔させる為なら、どんな死に方でもいいと思っている。結局はその大きな自己満足の為に生きていたのに。
「上手くいかないな……」
呪術師として死ぬのは本望ではないはずなのに、わざわざ他人の為に自身を犠牲にしようとするなんて、祖父と同じ道を歩もうとするなんて。そんなの、あの人達の思う壺じゃないか。
「あれ、泣いてる?」
不意に背後から声が降ってくる。その声に振り返ろうとしたが、私の頭上に影が落ち、上を見ると、音もなく浮遊して病室に入って来た五条くんが、そのまま浮遊しながら逆さまになって私の顔を覗き込んでいる。その光景はまるで現実味がない。それでも私は違和感なく受け止められるのは、彼が特別だからだろう。
「泣いてないよ」
「つまんないな」
彼はそのまま降りて、ベッドに座る。まじまじと私を見つめる彼の視線に、少し居心地が悪くなり、話を切り出す。
「一年もごめんね」
「……あの時、何で術式使ったの?」
「ただそこで見ていられなかったというか……他人の為に何か出来る事があるんじゃないかと思った。私らしくない」
「呪術師みたいなことするな」
私はベッドに入りながら、点滴と繋がる腕を見て、こんな身体になって、一年眠るまですることだったのか、と考える。
「この一年、色々変わった。いや、最近か……」
「何があったの?」
「灰原が死んで、傑が、呪詛師になった」
声が発せなくなった。何かの悪い冗談だと思いたかった。でも、真っ直ぐと窓の外を眺めている彼の横顔を見て、冗談だと思えなかった。
「……何で?」
「灰原は、一級呪霊にやられた。その後、傑が任務先の村落の非術師を皆殺しにした」
「だから何で……さっき話した時は、普通だったのに」
「非術師を殺して、術師だけの世界を作るんだと。傑と何を話したか知らねーけど、もう一年前とは違う」
私が起きていれば、何か出来ただろうか。いや、他人の思想までは変えられないだろう。私のしたことって何だったんだろう。そう考えていると、五条くんは思い出したように話を変える。
「オマエの両親に会った。寝たきりになっても、他人の役に立てて本望だろうって言ってたよ。オマエのこと、何にも知らないんだな。呪術師になりたくないってことも。オマエが理解者は従兄しかいないって言ってた理由が少しは理解出来た」
「……何の役にも立ててないよ」
「だから同じこと言ってやった。何の役にも立ってねぇって。無駄に術式使って、眠って苦しんでるだけってな。そしたら、夜蛾先生に叱られた」
「ありがとう、ざまぁみろって感じ。私は家族の期待に応えずに死にたいから」
「家族に縛られすぎだろ。自分の為に生きろよ」
「それが私のしたいこと、自分の為でしょ?」
「その割に不幸そうな顔してるぞ、オマエ」
いつもつまらなさそう、とはよく言われるけど、五条くんにはそう見えているのか。自分の口元を触ると、彼はそれ、癖だよな、と言いながら、身体をこちらに向ける。
「自分が幸せだと思う生き方は出来ないわけ?」
「この一年半は、幸せだったと思うよ。家族や呪術のことなんて忘れて、友人と過ごせる日々が、楽しかった。私は幸せになっていい人間でもないはずなのに。でももう、失ってしまった。何の為に、私は眠ってたんだろう」
「……人生やり直す?」
「え?」
「一回死んで、生まれ変わって、そんで人生やり直す?」
「……それもいいかも」
「じゃあ行こう」
五条くんは私に手を差し出す。それに応えようと、私は点滴の針を腕から引き抜くと、彼の手を取る。その手はスルリと抜けていき、彼は私の身体を抱えた。所謂お姫様抱っこというもの。初めてされた私は、落ちそう、と彼の首に腕を回して掴まる。
「どうするの?」
「やり直すんでしょ」
そう言って彼は浮遊し、窓から飛び出した。浮遊感なんてものは一切感じなかった。そしてそのまま病院の近くにあった川に掛かる橋へと移動し、地面に足を付けると、私を下ろした。そこに歩行者はおらず、時折車が私達のことなど気に留めずに通り過ぎていくだけ。橋の欄干の隙間から下を覗くと、浅めの川が随分下にあった。飛び降りれば、身体を強打して死ねるだろう。もしかして、ここで死ねという話?と思いながら、ぼんやりと水面を眺めた。すると彼は欄干に背を預けながら、徐に話す。
「呪術師はいつだって死を覚悟しなきゃならない。いつだって意味のある死を求められる。どいつも一緒。だからオマエは呪術師になりたくないと思うんだろうけどさ」
「……私は誰よりも優しかった、他人を思いやっていた祖父に生きていてほしかった。意味のある死って何?死んだら終わり。私は憎くて仕方がない、祖父を殺した呪いが、祖父に守られていた人間が、家族が嫌い。あんな惨い死に方をするような人じゃないのに」
心からの叫びだった。こんな醜い気持ちは、誰にも言わないと思っていたのに。生きていてほしいと、ただ幸せになってほしい人達が去って行く。呪術師なんて嫌いだ。かさついた唇が震え、視界が揺らいだ。
「俺だって同じ。生きててほしい人がいる、幸せになってほしい人がいる。笑っててほしい人がいる。でもさ、そいつはいつだって不幸なんだよ。自分の為に生きられない、術師だから自分が幸せになれないと諦めてる。何の解決にもならない、それこそ意味のないことをして、意味のない死に方をしようとしてる」
それが私のことだと分かった。全て自覚していることだったから。術師として生まれた以上、呪術界からは逃げられない。幸せなどないのだと、祖父と同じ道を辿るのだと分かった。それならば、と祖父を死へ追いやった守り続けてきた祖父の家族を呪った。幸せになどなれないように。
「自分を呪ったって仕方がないだろ」
「……生まれ変わったら、また五条くんに会いたい」
「それなら、一緒に生まれて変わってやるよ」
彼は私の腕を引き、浮遊すると、共に欄干の上へ乗った。一緒にという言葉に、私は戸惑い、手を払う。それは嫌だと、反射的に拒んでいた。
「自分を呪って、死んだ人間に縛られるオマエも、独りになった俺も、ここで殺そう」
そう言って彼は後ろに、川の方へ背から倒れていく。私は思わず彼の手を掴む。引き戻すなんて力は持っていない為、私もそのまま落ちていく。私がすぐに思ったのは、五条くんだけは死んではいけない、ということ。あれだけ不自然に浮いていたのに、重力に逆らうことなく落ちて行く。彼の服を掴んで、精一杯、自分が下になろうと動いた。しかし間に合わず、地面に激突する、と目を瞑ったが、冷たい水も痛みも感じられない、ただ温もりに包まれていた。目を開けると、私達は水面にぶつかるという所で浮いて止まっており、私は五条くんに抱きしめられていることが分かった。
「死んだよ」
「……死んでないよ」
「橋から飛び降りた時、もう死んだ。生まれ変わって、ここにいる。もう橋の上には戻らない」
「意味、分からない」
「どうせなら死んだ人間じゃなく、俺の為に生きて。俺も、オマエに幸せをあげるから、オマエも俺に幸せを頂戴」
生きていてほしい人、幸せになってほしい人、笑っていてほしい人。私は誰かにそう思われたかったんだ。それを五条くんが思ってくれている。私は幸せ者で、手放したくないと思った、縋りたいと思った。彼は、特別だから。
祖父は、大事な家族を守る為に呪術師となった。守られていたことを知らずに生きて来た私は、自身や家族を許せずにいた。でも、他人の為に生きることは、それだけ幸せを得ることなんだと思う。祖父はいつも幸せそうに笑っていた。私達、弱い家族は祖父に守られ続けていたけれど、その分だけ祖父は幸せだったのだろうか。
『呪術師になったのは、大事な家族を守る為だよ』
『いつか、私の気持ちが分かる時が来る』
祖父の言葉がフラッシュバックする。今なら分かるよ、お爺ちゃん。あの日々を守りたくて、私はリスクを冒して術式を使った。そして今は、私に寄り添ってくれる五条くんの為に生きようと思う。役に立ちたいと思う。ちゃんと、私も大事な人を守るから。
***
補助監督になったからといって、何が変わるわけでもない。しかし、一年間眠っていたブランクは大きい。筋力の衰えもあり、リハビリの日々が続く。任務に同行することは少なくなっていたが、それでも卒業まで失った一年を取り戻すように必死に勉強した。
卒業して、補助監督として働き始める。実家に戻ることはなく、一人暮らしをすることにした。ミムラスの花苗を買ってきては、ベランダでそれを育てる。大きめのプランターにはオレンジのミムラスの花を。また、五条くんに見せてあげよう。
ある日、五条くんと補助監督として任務に同行することとなった。高専へ向かうと、退屈そうに長い脚を伸ばして、階段に座る五条くんを見つけて、声を掛ける。
「五条くん。何で外にいるの?中で待ってればいいのに」
「探す手間が省けるでしょ。さっさと終わらせてさ、出掛けよう」
「どこに行くの?」
「オマエはどこ行きたい?」
「……マフィン」
「マフィン?」
「前に、エディブルフラワーを使ったスイーツのお店に行こうって言ってたけど、結局行けてなかったから。五条くんは行った?」
「行ってない。じゃあそこ行くかぁ」
そう高専の車に乗り込む。そういえば、自身の運転する車に五条くんを乗せたことなかったな、と思っていると、彼は後部座席ではなく、助手席に座った。珍しい。
「何で助手席?」
「いいじゃん別に」
いいけど、と呟きながら、車を走らせる。彼は機嫌良く私を見て、口角を上げている。何が楽しいのか、私にはさっぱり分からない。
「私を見ても何もないよ」
「見てないし、そっち側の景色見てるだけ。自意識過剰すぎ」
これでも最近の彼は物腰が柔らかくなった方だとと思う。不機嫌な態度を取ったり、子供っぽい所はあるが、呪術師としては夏油くんがいなくなってからというもの、真面目でしっかりしてきていると思う。でも教師になろうかな、と言い出した時は、これは私がしっかりしなければ、彼の夢を支えなければ、そう思うようになった。
「最近寝てる?」
「家入さんよりかは寝てる」
「今はオマエの話」
「寝てる時は寝てる。昨日は……寝てないかも」
「寝ろよ。昨日は任務に一件同行したくらいだったし、忙しくなかったでしょ」
「何で会ってないのに私のスケジュール知ってるの?」
「そこじゃないでしょ」
何とか誤魔化せないかな、と考えていたが、無駄だった。どう答えたらいいものか、と思いながらも、ゆっくりと口を開く。
「寝るのが怖くなった。ただそれだけ」
「添い寝でもしてあげよっか」
「余計寝れなくなる……」
「それって緊張して眠れないって意味?」
「それもあるけど、何だか五条くんの夢を見る気がして嫌だ」
「何で僕が出てくる夢が嫌なんだよ」
「五条くんに限らず、故意に見ない夢は他人の過去を見ることも多い。他人の過去もその思考も見える。ほとんどは憶えてないけど、大抵は悪夢。それが嫌なの」
五条くんの時はたまたま良い夢だと感じられたけど、毎回そうだとは限らない。一年の眠りから覚めた時に見たあの夢は、夏油くんのもので間違いない。トラウマになっている。
その話を聞いて、五条くんはなるほど、と呟いたあと、沈黙した。こういう話はしない方が良かったのかもしれないが、嘘を吐いても彼には通用しないような気がして。そんな心配を他所に、彼は腕を組みながら、でもさ、と沈黙を破った。
「僕の過去は良い夢だったんでしょ?悪夢じゃない」
「うん。花屋さん……五条くんが紹介してくれた所。そこの店員さんだったと思う」
「ふーん……なるほど、そういう意味ね」
彼は口元に触れながら、私から視線を逸らし、窓の外を眺めた。再び沈黙が続き、やっと目的地に到着すると、私達は車を出る。人の気配がない山だった。
「こんな僻地だし、帳もいらないっしょ」
「念の為、ということもあるよ。小さめの出しておこうか?」
「いいよ。サッと終わらせて、甘いマフィンを食べる。オマエは寝てていいよ」
五条くんはフラフラと森に入って行くと、私は運転以外に補助監督の意味はないな、と思いながら、車に乗って少しシートを倒す。寝転び、風で枝葉が擦れ合うサラサラとした音に耳を傾けていると、目蓋が重くなってくる。私はそのまま何日か振りの眠りに落ちた。
多くの人間がその場で立ち尽くしている駅のホームにて、少し今の雰囲気とは異なる五条くんが、複数の白いブロックから伸びる物体に捕らわれている。それが呪物だということが分かり、五条くんを捕らえるほどの物、特級なのだと察しがつく。彼の目の前には額に縫い目があり、袈裟を着ている夏油くんと、身体中が継ぎ接ぎだらけの見知らぬ男がいた。彼らの会話は聞こえないが、夏油くんが何かを口にした時、五条くんは呪物に引き込まれ、閉じ込められた。そしてそのキューブは夏油くんの手に収められる。
俯瞰してその光景を見ているということは、私のいない場所での予知夢なのだと分かる。次の瞬間、私はいつの間にか自宅にいた。前回の寮部屋とは違うが、嫌な予感がした。逃れることの出来ない部屋の中。テレビの中にいる五条くんは、多くの骸の中で黒いアイマスクをつけ、行動しないまま、ただ笑った。何かを期待するように、独りではないかのように。しかし──
『無意味な死にさせちゃったな……ごめんね』
そう呟いた彼はどこか寂しそうで。未来の私は何をしているんだ。この言葉の意味は理解出来ないが、明らかに五条くんは身動きが出来ない状態にある。助けなければ、こんな未来にしてはいけない。もっと予知夢を見なければ。そうテレビに手を伸ばした時、パツンとテレビの電源が切れ、真っ暗になった。いつの間にか、手の中にはリモコンが握られていて。リモコンの右上にある赤いボタンには『電源』と書かれている。ただそれを押せばいいだけ、続きを観ればいいだけ。そうすればきっと、未来を変えられるような手掛かりがあるはずなのに。怖い。もしかしたら現実に戻れないかもしれない。眠りに就いたままかもしれない。五条くんに、会えないかもしれない。
「五条くん……」
彼を助けたいのに、欲が出てしまう。その欲の所為で、私はこの電源ボタンを押すことが出来ない。
この術式は厄介だ。見たくない物を見せてくる。そうやって私を夢の中へ引き込もうとする。電源ボタンに指を掛けた時、リモコンを持っていない左手が温かくなった。この温もりを私は知ってる。
私はリモコンをテーブルに置くと、部屋から出ようと、玄関の扉のドアノブに手を掛けた。出れなかったらどうしよう、そう思いながらも、温もりを感じる左手をギュッと握ると、扉を開いた。その瞬間、私は目眩がして、そのまま倒れた。
目を覚ますと、変わらず車の天井を見上げており、助手席には五条くんがいて、私の左手を握ってくれていた。
「一年経ってないよ」
「どれくらい、経った?」
「僕と別れた時から二十分くらい?」
「夢の中は、長く感じたよ……」
茫然と天井を見上げながら、そう呟くと、彼はへぇ、と手を握り直しながら訊ねてくる。
「どんな夢?」
「あれは未来だと思う、遠い未来。駅のホームに、夏油くんがいた。五条くんは多分、呪物に捕らえられて……会話は、聞こえなかった。でも、呪物の中に捕らえられた五条くんは、何か言ってたかも」
「それを見たくて見たの?」
「いいや……勝手に見た。他人の過去を見るのと一緒、こんな風に未来を見たのは初めてだった。どうしてこうなったのか、もっと情報が欲しかったけど、更に夢の中へ入って行けば、帰れないような気がして……」
「多分、オマエが夢に見る部屋は生得領域とかなんだと思う。生得領域でそれに手を出さなければ、起きれるんじゃない?逆に手を出すと起きれない。傑の時も生得領域内で予知夢を見たから、一年も眠ったとか」
なるほど、と私はリモコンを握っていた時の不安感を思い出す。あれはやはりそういう意味だった。生得領域に入ること自体は問題ないが、そこでする行動が、更に深い眠りに入ることに繋がる。
「またマフィンの気分じゃなくなったな。オマエの家行こう」
「報告書は?」
「そんなもん明日でいいよ」
「ダメだよ。高専に戻る」
私達はそのまま高専へ帰った。無駄なことを考えないようにする為か、五条くんは最近あった出来事などを話していた。私は正直、上の空でちゃんとした返事を出来ていなかったと思う。それでも、彼の優しさは伝わってきた。
報告書を提出し終えると、どうしても私の家へ行きたい、と言う為、コンビニに寄ってデザートを買い、五条くんと共に自宅へ帰る。
「やっぱ物少ねー」
「花や本はあるよ。それに狭いし……そんなに物を置いてもね」
1LDKの部屋、確かにソファや大きめのテレビなどは買って置いたが、それ以外は寮部屋とほとんど変わらない。私はミムラスを思い出し、あっ、と声を上げてベランダに出ると、五条くんも外へ出てくる。そして私が育てているミムラスを見るなり、彼はその前にしゃがんで、軽く指で花を撫でた。
「育ててんだ」
「うん。時期だしね」
彼は何かを考えるように、ジッと花を見つめていたが、隣で同様にしゃがんでいる私に視線を移す。
「ミムラスは僕らみたい」
「へ?」
「笑顔が見たいと言ったのは僕だし、オマエは僕に騒がしいとか言うじゃん。勇気だっけ?それはオマエのことだとも思うし」
「ふふ、そっか。じゃあこれは、私達の花だね」
「……うん。デザート食うわ」
立ち上がって部屋へ入って行くと、彼はソファに座って、コンビニスイーツを開けている。心なしか彼の耳は赤い。私も隣に座ると、ぼんやりと真っ黒な画面のテレビに反射する私達を見ていた。
「幸せだよ、五条くん」
「ん?」
「貴方といると、幸せだよ」
「……酔ってんの?」
「酔ってないよ、飲んでないし。踏ん切りがついた。ねぇ、五条くん。私の手を握って」
そう言って彼に左手を差し出せば、五条くんはそれを拒むことなく、食べていたロールケーキとプラスチックのスプーンを置くと、その大きな手で私の手を包み込み、握ってくれた。
「どうしたの、いきなり」
「五条くんが手を握ってくれた時、夢の中でもそれは反映される。手が温かいの」
「ふーん……」
「ありがとう。もう怖くないから」
そっと彼の肩に身を預けた。それに、五条くんは軽く握っていた手に力を入れる。それが分かった時、私はそのまま眠りに就いた。
夢の中の私の部屋。隣に座っていた五条くんはいない。しかし左手にはまだ温もりがある。私はテレビのリモコンを手に取ると、ギュッと左手を握りながら、電源ボタンに手を掛ける。
「好きだよ」
彼に感じるこの感情は愛なのだろう。五条くんの為なら私は、同じ未来にいなくてもいいから。だから──
私は電源ボタンを押した。その瞬間、私は頭の中を掻き乱されるような感覚に襲われ、その場で気を失った。
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