#2.会いたいのは、
いつもと同じ時間に、いつもと同じベッドで目を覚ました。ただ違ったのは、そこに五条 悟がいたこと。
「おはよう。目を覚ましたら、都合良く記憶が戻ってましたーってのはなし?」
「ないです」
残念、と笑う彼に、私は今更ながら眠っている姿や寝起きの姿を見られていることに羞恥を覚えた。
「寝ました?」
「少しはね。それよりも、この生得領域がどれだけ広いのか調べたくてね。少し歩き回ったよ」
「何か分かったんですか?」
「君は知らないだろうなってことが、いくつかね」
彼はベッドに深く腰掛けると、何から話そうかなぁ、と指を折って数えている。私はとにかく身支度を済ませようと立ち上がり、洗面所へ向かう。それについて来ながら、彼は態とらしく肩を竦める。
「聞きたいのか聞きたくないのか、どっちよ」
「どっちでも……私が力になれることなら、聞いて損はないと思いますけど」
「死刑宣告されてるようなもんなのに、冷静だね」
「記憶なんて努力でどうにかなるものじゃないし……それに、何か死を受け入れてるというか」
「相変わらず暗いね、もっと足掻けよ」
私がうーん、と唸りながら、洗面所でシャコシャコと歯を磨いていると、彼はまぁいいや、と私にポジティブさを求めるのを諦めたのか、この世界について分かったことを話し始めた。
「当たり前だけど、ここは君中心の世界だ。君を軸に半径五キロ程度、世界が生成されている。世界の端は帳が下りていて、ここに住んでいる人間達は君が眠っていても活動しているし、違和感を持たない。それは君も同じ。君が自然に生きられるような環境が揃ってる」
それを私が無意識にしているということ?だったら私は凄い人間なんだなぁ、と他人事のように考えては口を濯いだ。
「私が動くと、その先の世界が生成されていくってことですね?」
「そうだね。現実を元に創られた世界、君の都合の良い想像の世界だ。それなりに現実とリンクさせ、あとは想像で補う。そんな世界を現実と思い込み、生活してるってわけ。でも僕の存在や言葉に違和感を持ち始めた。それで一歩前進してるはず。だから記憶が戻ってもいいと思うんだけど」
「じゃあ、私がこの世界に疑問を持つと良いってことですか?」
「多分ね。最初は完全に現実の世界とリンクしてるのかと思ったけど、この世界では僕らの過去も未来も、漫画になってる。呪術もなければ僕らもいない。地形や君に関わらないような人間はリンクさせているんだろうけど、あとは無意識に想像して再現してる。だから僕が君のいない所で人間に話しかけたけど、反応がなかった。こういうの、幽霊になった気分って言うのかな……とにかく、君の想像力はそこまで豊かではないはずだ。必ずどこかで歪みが出てる。だからその歪みを見つけて、記憶を呼び覚まそうって話」
「……どうせ大学もバイトも行かないので、いいですけど」
「因みにどんな大学とバイト?」
「法学部です。花屋でバイトしてます」
「ふーん、君らしいね。流石は自分を忘れられる世界ってなだけある」
自分を忘れられる世界?と首を傾げると、彼は何でもないよ、と目を細めた。私には分かる。早く思い出してほしいという彼の思いが。
「出掛けようか」
「どこに?」
「どこでもいいよ。僕という異物がいることで変わることもある」
「じゃあ、買い物に行きましょう」
私は寝室の扉を閉め、着替えてメイクをする。その間、彼は扉越しの私に話し掛けてくる。
「ねぇ。何であの花を育ててんの?」
「ミムラス?……何でだろう、気に入ったからですかね」
「何故か分からないけど育て始めた、そういうこと?」
「うーん、何か知ってるんですか?」
「それは思い出してほしいなぁ」
何か特別な意味があるんだろうか。寝室とダイニングを繋ぐベランダにあるミムラスの花を見て、私は彼の言葉の意味を知りたくなった。
「……私と悟さんの関係ってどんな?」
「恋人、って言ったらどうする?」
「冗談ですよね?」
「どうだろうね。思い出せば答えは出るでしょ」
絶対に冗談だ。私との関係をはぐらかしたいのか、ただ私の反応を見て楽しんでいるのか。まぁいいや、と身支度を済ませると寝室を出た。待っていた彼はソファからこちらを見ていた。
「悟さんの六眼は、夢の中でも有効なんですか?」
「ここには魂だけで来ている状態、夢の中で六眼は使えないよ。だからオマエの力も僕の知識だけで話してる」
サングラスを外すと、彼はそれをテーブルに置く。それが何だか新鮮に思えたが、彼は行こうか、と立ち上がった。
私達は外へ出ると、悟さんは隣を歩きながら私を見下げて訊ねる。
「君って朝食は食べないの?」
「どうせ出掛けるなら、外で食べた方がいいかな、と思いまして」
「なら僕も食べたいなぁ、どうやら三大欲求はあるらしい」
三大欲求とは言うが、彼に性欲などあるのだろうか。簡単に私の家に居候すると言うくらいなのだから、あまりなさそうに思える。それとも私を女性として見ていないのか。
マンション下にある駐車場、いつも通り自身の車に乗り込んだ。助手席に彼が座ると、一番近いショッピングモールに向けて車を走らせた。悟さんは何故か前ではなく私の方を見ている。
「前を見ればいいのに……」
「そっち側の景色を見てるだけ」
子供みたいな言い訳。視線が突き刺さるが、運転に集中しなければならない。そう思っていると、彼はやっと前を向いては、また私に質問をする。
「自分を忘れられて、幸せ?」
「充実してますよ。時々、人生の半分を無駄に生きてるような気がする、とは思いますけど」
「ふーん……彼氏とかいた?」
「どうだと思います?」
少し彼の反応が見てみたかった。さっき揶揄われた仕返し、というように彼に質問を返すと、痛くも痒くもなさそうに軽く答える。
「いないでしょ。だって大学やバイトも行かないって即断したわけだし、これといって仲の良い友人もいない」
「友人はいるけど……別に、最期に会わなくてもいいかなって思えたんです。本当に大切な人なら、死ぬ間際に会いたいと思えるのかな」
「……さぁね」
「まぁ、とにかく正解ですよ。恋人なんていません」
「そりゃそうだ。何より僕みたいな最高の恋人がいるっていうのに、浮気されちゃ困る」
「その冗談、やめてくださいよ。心臓に悪い」
「心臓に悪いの?何で?」
「……いや、普通に考えて釣り合ってないと思うし、恋人だったとしたら、最低じゃないですか。そんな大切なことを忘れているなんて」
「じゃあオマエは最低だよ。恋人にしろ友人にしろ、僕を忘れてんだから」
その後、私は何も言えなくなってしまった。彼が現実で、彼の主張が正しいのだとすれば、私は最低な人間だ。
ショッピングモールに辿り着くと、カフェがレストラン街にあるから、とそこへ向かった。
隣を歩く悟さんを改めて大きいな、と感じる。足下を見た時、脚が長い分、歩幅が違うはずなのに、彼の歩幅は小さく、私に歩幅を合わせていることが分かった。
「……地面見て楽しい?」
「楽しくはないですけど……」
「じゃあ、上見て歩いて」
しっかりしなきゃな、と私は前を見て歩き、カフェへ入って行く。席へ案内され、悟さんはメニューを開く。私はメニューを見なくても、サンドイッチセットと決まっている。
「おっ、フレンチトーストがあるね、これにしよう。このベリーベリーパフェもいい」
「あ、朝から……?」
「いーでしょ、好きなんだよ」
まるで拗ねた子供のように口を尖らせる彼に、少し可愛らしいだとか、懐かしいだとか、そういう気持ちにさせられた。
悟さんは店員に声を掛け、それらを注文していく。フレンチトーストはまだ分かる。それに続いてパフェとメロンソーダを注文した。甘党にもほどがある。注文を取った女性店員が去って行くと、彼はテーブルに肘をつきながら、ねぇ、と私の顔を覗き込む。距離が近い、と思いながら少し避けた。
「予知を見て、どう思った?」
「心苦しくなりました……私が見たのは星漿体の話で、夏油さんが何故離反したのか、心中も描かれていて。何とも言えない気持ちになりました」
「漫画にそこまで感情移入することってある?」
「ないです。私とは関係ない話なのに、助けてほしいと感じて、叫びたくなったんです。忘れたいと、思った」
「これ以上忘れるなよ」
明るかった彼の声が少し低くなったことに気づく。その一言以降、彼は何かを考えるように黙り込んでしまった。人に忘れられるというのは、寂しいことだと思う。きっと、彼と私は友人だった。それを思い出せないのは、悔しい。
そこに注文したサンドイッチセットやフレンチトーストが届き、食べ始める。
「美味い、味覚さえあるのは異様だね。この領域は厄介だ」
「悟さんでも出来ないことがあるんですね」
「僕をこんな風に縛れるのはオマエくらいかもね」
私は彼の中でそれだけ強い存在なのだろうか。でも、切り捨てることなんて簡単に出来たはず。ただ放っておけばいいだけなのだから。それが出来ないのは……つい恋人≠ニいう言葉が頭を過るが、その考えは捨て去り、サンドイッチを食べた。ここはパンとシャキシャキのレタスが美味しいんだ。
少し遅めの朝食の後、悟さんは何かに気づいたようにあっ、と声を上げた。
「服、買おうかなぁ、一週間ここにいるわけだし」
「じゃあ、見に行きましょう」
男性服売り場に行くと、彼は安いなぁ、と呟いており、普段着も相当良い物を着てるんだろうなぁ、と考えながら、私は落ち着かない店内をうろうろする。彼はさっさと一頻り服を選んで、私にそれを手渡してくる。
「自分で支払いたいとこなんだけど、夢の中にまで財布は持って来れなかったみたい」
「……何か私、悪い男に騙されてる女みたい」
「夢から醒めたら、服でも何でも買ってあげる。どんな高級品でもいい」
「胡散臭い……」
「はぁ?助けに来てやってんのに、感謝してほしいんだけど」
それでも私は払ってしまう。今更、お金なんて必要ない。私は何の根拠もない、まるで現実味のない五条 悟の存在を信じていて、自分が記憶喪失で眠った状態、ここは夢なのだと信じている。馬鹿げているが、この世界で何となく生きていくのはいけないと感じていた。
会計をして、悟さんにそれを渡すと、彼はありがとう、と可愛こぶった笑みを見せる。これは絶対、態とヒモ男を演じて、私を困らせようとしているな、と感じた。
「君は何買うの?」
「今晩のおかずくらいですね」
「それ、ショッピングモールの必要ある?」
「悟さんの必要な物が分からなかったんで、とりあえずここに来れば揃うかなって……あ、歯ブラシとか、いりますよね」
「僕の為ね。そんなに必要ないよ、食べ物と服、そうだね、歯ブラシも。シャンプーもボディソープも君のでいい」
「そうですか……じゃあ、スーパー行って、帰りますか」
「でもちょっとは遊んで行こうよ、ただ見て回るだけでもいいから」
私が頷けば、彼は無言で歩き出した。何か気に障ることでも言ってしまったかな、と思いながらもそれについて行った。
私達は暫く雑貨店に行くなどして過ごした。悟さんはあまりこういったショッピングをしないイメージがある。正直言って、スーパーなど似合わない容姿をしている。
「今日は何にするの?カレー、ハンバーグ、コロッケ、からあげ……」
「好きなの買ってください」
そう言って私は惣菜を見ていると、悟さんはえっ、と間の抜けた声を出す。それに私は顔を上げると、彼は買い物カゴを持ちながらキョトンとしていた。
「どうしたんですか?」
「手作りじゃないの?つまんねぇ」
「料理しないんですよ、私」
「……そういえば確かに、オマエが料理してるとこ見たことないわ」
でもやろうとした時期はあった。調理器具は一通り買って、しまってある。ただ忙しかったり、手間でやりたくなかった。量も作りすぎちゃうし。
「いつもこんな惣菜ばっか食ってんの?僕、手料理が食べたいなぁ」
「はぁ……じゃあ何食べたいですか?」
「んー、オムライスとか」
そう、弁当コーナーにあるオムライスを指す彼に、私はそれをレンジでチンすればいいじゃん。と思ったが、彼は納得しないんだろう。
「分かりました。材料買いましょう」
「流石!君ってば僕の為に何でもしてくれちゃうね」
「何でもはしないですよ?」
「いいや、何でもするね。悪い男に引っかかるタイプ」
「……それ、自分が悪い男って言ってるようなものですよ」
「あれ?僕に引っかかっちゃった?案外惚れっぽいんだね」
腹立つ物言いだ。態とこんな言い方をして、私の反応を楽しんでる。少しムカっとして眉を顰めると、彼は嬉しそうに口角を上げる。
「やっぱ表情筋が死んでないな、君は。そもそも不幸だって顔してない」
「別に、私は不幸だと思ったことないですよ。大学やバイト先に友人もいるし、家族と仲も良いし……充実してます」
つい先刻まで楽しそうに笑っていたのに、彼の機嫌は私の言葉一つでガラリと変わってしまっていた。
「……くだらない。お菓子買ってくる」
吐き捨てるようにそう呟いた彼はそのままフラフラとお菓子売り場へと向かった。私は不幸なままの方が良かったのだろうか。つい、そういう意味で捉えてしまう。気にしてても仕方がないか、とオムライスの材料を集めにスーパーを歩いた。
ある程度食材を見つけて、悟さんを探していると、レジ近くの花売り場に彼はいた。ぼんやりと花を見ては何かを考えているようだ。スーパーの花売り場とはいえ、映える顔だなぁ、と思っていると、彼はこちらに気づく。
「僕、花には詳しいんだよ」
「意外ですね」
「好きな子に会う度、花を贈ってた。一途でしょ?」
「そ、それもまた意外……」
「少しでも僕の存在に気がついてくれたら、少しでも寂しくないように……そう思って、意味のある花を贈り続けてたんだよ。でも、花なんて彼女には無意味だったんだ」
「……花粉症だったんですかね」
私のその言葉に、彼は花に向けていた視線をこちらに向け、眉を顰めた。
「はぁ?」
「アレルギー体質の人は、切り花でも症状が出るんですよ。だから、喜ばなかったのかなって……」
「意味分かんねぇ」
「ごめんなさい、ユーモアのセンスなくて」
「慰めようとした?」
「はい……」
「ヘッタクソ」
彼は買い物カゴを差し出してき、私はカゴに持っていた食材を入れた。同時にお菓子が大量に入っていることに気づき、いつか糖尿病になるな、と考えていた。
その後は明日の食事の話をしながら、二人で買い物をした。悟さんの所為で栄養バランスが偏りそうだった。
大量に買い物をして車に戻ると、自宅へと車を走らせた。特に何かを話すわけでもなく、無事に自宅へ辿り着く。
冷蔵庫の中に食材を入れていると、悟さんはベランダにあるミムラスの花を部屋の中から眺めていた。彼にとって花は大切な物なんだろうか。
「……不思議ですよね。ミムラスの香りなんて、あまり気にしたことなかったのに、悟さんが来た時に香りがして」
「花の香り?」
「そう。窓を閉め忘れたのかなと思って、目を開けたら悟さんが」
「へぇ。他に違和感はなかった?手とか」
特にはなかったような、と思うが、ふと思い出したことがあった。
「時々、手が熱っぽくなるというか」
「こんな風に?」
彼は私が買い物袋を漁っていると、その手を握った。それは私の手が熱っぽくなる時に感じるような温かさ。これは何を意味するのか、と思いながらも、距離の近い彼に戸惑ってしまう。
「ち、近い、です」
「僕は手のこと訊いてるんだけど?」
「確かに、似てる気がするけど」
「夢でも触れられると温かいと感じるんだね」
「そう、ですね」
「不安になったら握ってあげるよ」
「と、突然握られたことに不安を抱いているんですが……」
私に言っていて、私に言っていないような言葉。彼はムッと口を曲げて離れていった。早く思い出さないと私は死んでしまうし、彼もきっと傷つくだろう。それを不安に感じているのは私ではなく、彼の方だと思った。
***
「三日目でーす!何か変化はありましたかー?」
そう、ポストに入っていたであろうチラシの束を棒状に巻いた物を私の頬に押しつけてくる。やって来た日の夜をカウントしているのなら、確かに今は三日目の朝だけど、何も変わっていない。悟さんはいつの間にか起きていて、朝食を作ってくれていた。昨日の料理は散々な結果だったからだろうな。
私はワンプレートに収まったトーストやスクランブルエッグ、サラダなどを食べながら、うーん、と唸る。
「特に変わったことはないですかね」
「早くしないと死んじゃうよ?」
「努力でどうにかなるものでもないような気がします」
彼は持っていたチラシの束で自身の肩をトントンと叩けば、黙って考え込んでいる。悟さんといえど、こういった話は専門外なのだろう。
「歪みを見つけるのとは逆に、既視感のある行動をしたらいいのかもしれないね。ジャンケンとか」
「誰でもやりませんか?それ」
「オマエは予知夢見て、百戦錬磨だった」
そう彼は拳を突き出す。私も恐る恐る同様に出すと、彼はそうだ、と声を上げる。
「負けたら相手の言うこと聞くっての、どう?」
「う、運じゃないですか」
「言ったでしょ。予知で勝てばいい」
そんなのどうするんだ、と私は試しに目を瞑ってみるが、あるのは暗闇だけ。
「はい、ジャンケン、ホイ!」
彼の声に合わせてチョキを出した。彼はグーを出したままであり、私は負けた、と肩を落とす。
「僕の勝ちー」
「何かしてほしいことがあるから、やったんですよね」
「大正解。キス、させて」
「へ?」
そっと私の手に指を絡ませてくると、私は突然のことに動揺してしまった。揶揄われている?それとも私達はそういう関係だった?その行動に思わず身体が緊張して硬直する。彼はそっと唇を寄せてき、私は思わず目をギュッと瞑る。すると柔らかい感触は自身の唇ではなく、繋がれた手に感じた。ハッと目を開けると、彼は私の指先に唇を落としていた。彼の容姿も相まって、そんな年でもないが、お姫様扱いされてるような気分になる。
「唇にされると思った?」
「か、揶揄わないでください」
図星を突かれて、顔に熱が集中する。そんな私を見て、彼はまた拳を突き出す。
「次、負けたら別の場所にしようかな。負ければ負けるほど、痕が増えるかもね」
「い、嫌ですよ!もうしないです、私にメリットないですし」
「僕とキス出来ることがメリットでしょ、何言ってんの?」
「すごい自信……でも私は悟さんにしてほしいことなんてないので」
私は逃げるように朝食を終えた皿を流し台に持って行き、皿洗いをすると、つまんねぇ、と悟さんは不貞腐れたようにソファに寝転んだ。私は洗濯もしなきゃ、と洗面所へ行き、洗濯機を回す。
大学もバイトも休むとなると、することがなくて退屈かもしれない。まぁ、悟さんに時間を潰されるような気もするけれど。そういえば、バイトを無断欠席しても、大学に行かなくても、店長や友人から何のメッセージもない。これが歪み、本来私が取らない行動を取った所為だろうか。
急に孤独感に襲われ、ダイニングへ戻ると、ソファにいたはずの悟さんがおらず、どこ行ったんだろう、とベランダの方を見ると、彼はプランターにいくつか植えているミムラスの花の前に座っていた。彼は常に私じゃない私のことを考えている。だから今もそうなんだろうな、とベランダを出て、彼の隣に座る。傍にはジョウロがあり、溢れた水がベランダの床を濡らしている。
「知ってる?ミムラスの花言葉」
「笑顔を見せて≠ナすか?」
「そう、僕がオマエに贈った花だよ」
「……だから、私も育ててるんですかね」
「どうだろう。領域の中心はこの部屋だ。だから、現実に基づいてここにあるのか、オマエの心に残っていたからかは知らないよ」
「きっと、心に残ってたからだと思いますよ」
「何でそう思う?」
「毎年、目につくんです。花を見たいなら切り花でいいと思っていたのに、ミムラスだけは、見かける度に買ってしまって。この花も最近、植え替えたんですよ」
特別綺麗だと思ったことはないし、香りも気にしたことなどない。だけど、毎年この時期になると必ず植え替えている。だから毎回種類を変える切り花と違って、この花は特別なものなのだと感じる。
「慰めてる?」
「本心ですよ」
「君が言うんだから、そうなんだろうな」
悟さんはゆっくり私に体重を預け、もたれ掛かってくるのを、私は避けることなく、その場に留まった。
漫画で見た彼はとても強い人だった。術式云々ではなく、天内 理子の死に対しても、伏黒 甚爾に対しても、彼は強かった。親友が離反した時も、教師としても、ふざけているようで、しっかりしていると思う。でも今の彼は私に人間らしさを、弱みを見せているようで。二人で暫くその場に居座り続けた。時折、風に吹かれてミムラスの花の香りが鼻腔をくすぐる。
「誕生日、過ぎちゃったね」
「そうですね。今からでもお祝いしますか?」
「いいよ、ケーキ食べたい」
「美味しいケーキ屋さん、知ってるんです」
私が立ち上がれば、彼も同様に立ち上がる。寝室へ向かい、服を着替えている間に洗濯機が終わりの合図を出しているのが聞こえた。寝室の向こう側でバタバタと何やら騒がしい音がした後、ベランダが開く音がする。私は支度を終えてベランダを見ると、悟さんが洗濯物を干しており、私は慌ててベランダに出る。
「私がしますよ」
「いいよ、僕がやる。それより君って、こんな下着穿くんだね」
「み、見ないでください」
すぐに彼が手に取った下着を奪い取ると、端に干した。それを終えると、彼は外の景色を眺めた後、行こう、と中へ入って行き、私達は戸締りをして外を出た。
昨日と同じように車に乗り込み、ケーキ屋へ向かう。その間、彼は窓の外を見て、変わったなぁ、と呟いた。
「街並みですか?」
「街並みは変わんないよ。変わったのは僕の眼。六眼じゃない。世界がこんなにクリアに見えるなんて、初めてだよ」
「良いことなんですかね?」
「どうだろう。でも、普段の自分を忘れているように思うよ」
前も自分を忘れられる世界≠ニ彼は言っていた。それが良いことなのか、悪いことなのか、全てを忘れてしまっている私には分からなかった。
ケーキ屋に辿り着くと、彼はくつくつと笑い始める。それに私は彼の顔を見上げると、私の髪をくしゃりと撫で、そこに入って行った。
「お、僕これがいいな」
そう言って一般的な物より一回り小さい四号のホールのチョコレートケーキを指した。
「じゃあこれ、お願いします」
店員に声を掛けると、悟さんはあっ、と声を上げる。
「お誕生日おめでとうって書いてください、この子、この間誕生日だったからさ」
「い、いいのに……」
「いいじゃんいいじゃん。あのプレート、僕好きだし」
出来上がったものを確認して、会計をする。嬉しそうに彼は受け取って、車へ戻る。よっぽどケーキが食べたかったのか、私達は自宅へ帰ると、悟さんは早速ケーキを開ける。
「手を洗ってくださいよ」
「細かいなぁ」
子供のように口を尖らせながら、手を洗いに洗面台へ向かい、私は流し台で手を洗い、皿とフォーク、包丁を準備する。すると戻って来た彼はダメダメ、と私の手から包丁を取る。
「お皿もいらないよ。そのまま直で食べるから」
「えぇ……」
「いーでしょ、二人なんだし」
彼は目の前に座ると、ケーキの箱に付いているロウソクを刺していく。
「ライターとかない?」
「タバコ吸ってないんで……」
「じゃあ、コンロで点けるか」
ロウソクを一本抜き取って、コンロで火を点けてくると、他のロウソクにも火を移していく。
毎年、誕生日は祝ってもらっていた。だけど、これは何だか特別なように感じて。
「おめでとう」
その言葉を受け取り、私はロウソクの火を吹き消した。余韻を持たせてくれる暇もなく、悟さんはロウソクを取り外し、ホールケーキにフォークを突き立て、食べ始める。その豪快な食べっぷりに、私は思わず吹き出すように笑ってしまった。
「あ、はは……!食いしん坊みたい」
私も食べよう、と、ケーキをフォークで切って食べる。甘味が口の中に広がり、良い気分だったが、悟さんはテーブルに肘をつき、頭をわしわしと掻きながら話す。
「昨日さ、この世界での生活は幸せだ、みたいなこと言ってたじゃん」
「充実してるとは言いましたね」
「何かムカつくんだよな、オマエが幸せそうにしてんの」
「えっ」
「僕がいないとこで、勝手に幸せになってんのがムカつく」
それってどういう気持ちなんだろう、と考えながら、ケーキをフォークでつん、と突く。笑ったからいけないのだろうか。さっきは笑顔を見せて≠ニいう花言葉の話をしたばかりだというのに。
「僕がオマエをずっと笑顔にしてやりたい」
告白じみたその言葉に、胸がキュッと締め付けられ、息を呑んだ。そんな様子を見てか、彼は立ち上がって、目の前にやって来れば、私を抱えてソファへ倒れた。彼の腕の中は、とても温かかった。この体温を私は知っている。それなのに、思い出せない。すぐ傍にある彼の心臓が、トクントクンと鳴っている。
「早く、僕を幸せにして。そういう約束だったでしょ」
悟さんは不幸なのだろうか。私が彼を幸せにする?そんなプロポーズじみた言葉を贈ったのだろうか。
「呪いの言葉だけ残して、勝手に眠りやがって。僕はそんなに気は長くないよ」
「私、」
「会いたい」
彼のその弱々しい言葉は、私を苦しめるには十分すぎた。どこかで彼を大切に思う気持ちが私を苦しめている。
「思い出すから、もう少し、時間をください」
私は起き上がろうとするが、そのまま頭を胸に押し当てられ、起きることが出来なかった。このままでいろということだろうか。
彼の表情を見ることがないまま、私は彼の胸に身体を預け、目を瞑った。
back