#5.彼らの目的に必要なのは。
頬に違和感がある。魘されながら起きると、黒い毛玉がペロペロと私の頬を舐めている。ペットを飼ったことがないから知らないが、犬や猫を飼っている人間は毎朝、こうやって起こされるのだろうか。
「傑、何してるの?」
「毛繕いだよ。愛情表現」
「目覚めの邪魔だ……」
私は起き上がって避けると、彼は膝の上に乗って、私を見上げてくる。動物らしいなと思いながら撫でてやると、彼は目を細めて、気持ちよさそうにする。
「顔洗ってくる……」
硝子や悟はまだ眠っており、私は欠伸をしながら立ち上がり、洗面所へ向かう。傑は布団の上でゴロゴロしているようだ。
洗面所で顔を洗ったり、身支度を済ませると、そこを出る。すると偶然、廊下で夜蛾さんと鉢合わせた。
「おはよう、随分早いな」
「おはようございます、傑の毛繕いで起こされてしまって」
「そうか……アイツらはほとんど山で生活して来た。距離感が分からないのかもしれないな」
「ですね……その辺も教える必要がありそう」
面倒だなぁと考えていると、夜蛾さんはついて来いと話し、庭を見渡せるような客間へと案内され、茶を出してくれる。
「すまなかった。アイツらを押しつける気はなかったんだが……」
「いえ、もういいんです。そちらの事情もあるでしょうし」
「アイツらはあんなナリだが、特級……最も強い妖に分類されている。俺達のような人間が束になってかかっても、祓うどころから足止めすら難しい」
「そ、そんな危険なんですか?」
「こちらから危害を加えなければ問題はない。わざわざアイツらと接触したのは、人手不足だからだ」
「そもそも、祓い屋って、悪い妖を祓うということですよね」
「元々はそうだった。妖というのは、元々君がよく知るような妖怪だった。そのほとんどが人間に害をなすもの。多くが祓われていき、そうして生き辛くなった妖怪は人間社会に溶け込もうと、妖となる。だから今は善良なものが多い」
それなのに人手不足なのは、祓う以外の仕事が増えているのだろうか。でもそれじゃあ強い二人の仕事はないしなぁ。と自分なりに考えていると、夜蛾さんは答えを出す。
「数十年前から、妖特有の病、黒妖化症候群と呼ばれる病が流行り出した。妖の身体が黒に蝕まれていき、最後には自我を失い、人や妖を襲い始める不治の病だ。当時にも妖専門医師が存在していてな、硝子がそれだ。その黒妖化症候群についても研究している」
「硝子ってそんなすごい人だったんだ……」
「君の祖父母もそうだった」
「えっ!?」
「あの山奥でずっと研究をしていたが、途中で諦めてしまった。君の祖母が妖専門医師で、祖父は妖が見えなかったが、薬学に精通している人でな。相性が良かったんだろう」
「し、知りませんでした……」
「表向きはただの医者だったからな。君のご両親も知らないはずだ」
驚きの事実に、私はどう言葉を返していいのか分からず、ただ唖然としていると、彼はふと息を吐く。
「とにかく、我々が戦っているのは、黒妖化症候群にかかり、黒妖化してしまった者達がほとんどだ。最近は特に多くてな」
「そうですか……」
「アイツらは君の言うことしか聞かん。出来れば、祓い屋の仕事を受けてもらいたい」
「いや、私、カフェでバイトしてるんですけど……そんなの無理ですよ」
「給与は多めに出そう。特級案件だ。ただ、危険が伴うこともある。アイツらが一緒なら大丈夫だと思うが」
「夏休みが終われば、大学もあるし……」
「スケジュールもこちらが合わせよう」
本当に人手不足で、傑と悟の手が欲しいんだな……突然、非日常に巻き込まれてうんざりだと思っていたけれど、好きだった祖父母が関わっていたというなら、少し悩んでしまう。
「少し、考えさせてください。私も突然こんなことに巻き込まれて、混乱してるというか……」
「あぁ、突然すまないな」
「いえ……また、ご連絡させていただきます」
そんな話をしながら連絡先を交換していれば、そこに狸姿のままで悟がぽてぽてと歩いてきては黙って膝の上に乗って眠る。
「何でわざわざ私の上で寝るの」
「いーでしょ。落ち着く」
「はぁ……すみません、夜蛾さん。今日もバイトがあるので、帰ります」
「分かった。気をつけて帰ってくれ」
「じゃあ俺も、」
「オマエは仕事だ、悟」
「面倒くさ……涼華も仕事しよ」
「私は別の仕事があるの」
嫌だというように、彼は私の胸に手を掛けて上がろうとしてくる。傑もそうだったが、正直、こういう動物っぽいところは可愛い。私が撫でてやると、彼は気持ちよさそうに目を細めた。
「あまり甘やかすなよ。妖だ」
「そうなんですけど、動物のままだと可愛いな、と思ってしまって」
すると彼はその場で姿を変え、人の姿になると、ギュッと私を抱きしめる。
「人間の姿の俺も可愛いだろ?ちゃんと撫でて」
「可愛くな、お、重い!」
「いたっ!」
夜蛾さんがポカリと悟の頭を殴ると、彼は不満そうに彼を見上げる。
「愛情表現だろ?何が悪いのか分かんない」
「オマエ達はもう少し人間を理解しろ。悟、オマエは中でも特別な、」
「はいはい、分かったよ」
ふと軽くなったと思うと、彼は狸の姿に戻る。仕方ない、と私は彼を持ち上げ、隣に置いて立ち上がる。
「硝子と傑にも、先に出ると伝えておいて」
「はいはい」
そうして私は祓い屋教会の屋敷から出ると、一旦自宅へ帰る。当たり前だが、家の鍵は開いたままだった。ちゃんと身支度を済ませてバイトに向かうことにした。
私はずっと、祓い屋の仕事をするかどうかを悩んでいた。祖父母が何故、研究をやめてしまったのか。それも気になるし、たまたま私だったというだけだが、私は傑と悟に気に入られている。人間らしい感性というか、まだ山から下りてきて間もないから、慣れていない二人の付き添いは必要だろう。でも本当に私が必要なのかな。
「店長……バイトを辞めるかもしれないです」
「え、突然だな。どうした」
「私が必要だっていう仕事があって……」
「どんな?」
「うーん……調教?」
「えっ、そんな学校通ってたっけ」
「いや、普通の大学ですけど、動物に好かれるというか、何というか」
「はぁ……」
何と説明していいのか分からない。しかし、似たようなものだ。私はそう思っていると、ほとんど客のいないその店に我が物顔で傑と悟がやって来る。嘘でしょ、とただただ血の気が引く。店内にいた全員の視線が彼らに向く。それもそうだ、二人とも容姿だけはいい。せめて他人のフリを思っていたが、二人は私を見つけるなり、笑顔で寄って来た。
「涼華!やっぱここで働いてんだな」
「マーキングしてて良かったね」
マーキング、硝子が言っていたことだ。本人は気づきにくいこれは、知識のない私には余計に分からないことで。また夜蛾さんに相談しなければならない。
「こんな所まで来られると困る……」
「いーじゃん。俺達の仕事終わったし」
「それに私達、家の鍵を持ってないんだ」
そういえば二人に鍵を渡してなかった。そもそも最初から渡すつもりはなかったのだが、渡したら帰ってくれるだろうか。
「ここでは何売ってんの?」
「……ここはコーヒーを飲む場所。食べ物はケーキとか、」
「ケーキ食いたい!」
「いいけど、それが終わったら帰って」
「じゃあ涼華のおすすめを」
食べてる間に鍵を渡して、帰ってもらおう。そう、彼らにおすすめのメニューを注文して会計をすると、私は奥に入って席に着いた傑に私の鍵を渡す。
「明日、二人の分の鍵を作ってくるよ。とりあえず、今日はこれで家に入って」
「分かったよ」
悟はもっと砂糖欲しい、苦い苦いと珈琲に砂糖を入れまくっていた。子供舌なんだろう。傑は美味しいよ、とシフォンケーキをつまみながら、珈琲を飲んでいる。
「あ、あれ、知り合い?友達?彼氏?」
カウンターに戻ると、同僚の女の子が彼らに興味津々だった。それに私はどう答えたらいいかと思いながらもはぐらかす。
「顔がいいだけの人達だよ……やめといた方がいい」
「何か苦労してそう……」
何かを察したように彼女は苦笑する。私達に気づいた彼らはにこりと笑って、私に手を振った。マイペースで自分勝手すぎるな、と私はただただ深い溜息を吐いたのだった。
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