君のいる風景4
2013/11/10 07:29
鍋から立ち込める湯気すら、二人の間で淀む重々しい雰囲気を増長させている気がする。
二日目の鍋の、味の染み込んでしなしなになった白菜は美味しい。
白菜が舌の上で崩れていく感覚にシンパチは一頻り酔いしれると、湯気越しに白く濁った土方を見た。
若干血の気の引いた顔をしているのは、きっと昨日のアルコールが尾を引いているのだろう。
今は受け皿で豆腐を細かく刻んでは口に運んでいる。
……何か、会話をした方が良いに決まっているのだが。
さてどんな話題を振れば良いのやら。
そもそもいつもは一体、二人でどんな会話をしていたのだったっけ?
話題選びに倦ねいて会話を交わせないまま糸こんにゃくを咀嚼していると、前触れもなく土方が箸を止め、口を開いた。
「…………たな」
「ふぁい?」
意識が散漫だったせいか、上手く聞き取ることが出来なかった。
土方は間の抜けた返事をするシンパチの咀嚼が止むのを待ち、もう一度同じ言葉を口にする。
「……だから。昨日は、悪かったって」
顰めっ面で目を逸らした。
相変わらず、目が合わないなとシンパチは思う。
……だが、悪くないと思う。
シンパチの口許が緩む。
この人間の、この素直ではない素直さをシンパチは案外気に入っていた。
「……次は在りませんよ?」シンパチはニヤリと目を細め、肩身の狭そう視線を泳がす土方に応えてやった。
*
切り出すタイミングを、倦ねいていた。
午前。目を醒ました土方は酒の抜けない重石のような頭を抱え、リビングへと向かった。
薄手のカーテン越しに見える藍色を残す空で、朝焼けが燃えていた。
案の定、シンパチは眠りに付いていた。
視線をずらすと、ダイニングのテーブルの上に片されることなくこれ見よがしに乗せられていた鍋を見付け。
土方はまた、頭の重石を増やされたような気分になった。
「……次は在りませんよ?」
悪い顔をして笑うシンパチに、土方は自分でも不可解なほど、胸を撫で下ろした。
……なんだかな。と土方は思う。
絆されているなと、感じる。
シンパチがあまりにも、人間らしくそこに在るから。
もしもこのシンパチという吸血鬼が、……例えばそう。幼い頃から慣れ親しんだ物語の中の存在のような。吸血鬼と聞いて、人がごく一般的に幻想として想い抱くような。
そんな、おどろおどろしい存在であってくれたなら、良かった。
―――そうで、あったならば。
目を背けていなければ、こんな風に笑いかけてしまいそうになることなんか、きっとなかっただろうに。
土方は緩みそうになる顔にぐっと力を込め、ポーカーフェイスを保つ。
未だ昨日のアルコールは多少尾を引いているが、それも時期に治まるだろう。
「ちゃんと野菜も食べてくださいよ?」
すっかり普段通り気を良くしたシンパチが言う。
「……はいはい。分かってるよ、母さん」
「だから、誰がお母さんですか」取りとめの無い会話が、二人の間で流れていく。
ふと、土方が目を細め掛けた時。
気を緩めたシンパチの一言が、そんな二人の温い空気を、打ち壊した。
……こいつは今、何と言った。
シンパチの吐いた台詞を脳が理解した途端、全身から残っていたアルコールも熱も、足元に吸い寄せられて引いていくような感覚を覚えた。
「お嫁さん、すごく綺麗な方で―――」
そこまで言うと、シンパチはハッとした顔をして口を噤んだ。
鍋をつつく箸を止め、恐る恐る土方の様子を伺う。
―――だって、あれは。夢じゃあ、なかったのか。
アルコール漬けで酷く曖昧な意識の中で見た、あの暗闇に浮かんだ人影は。
土方は震え出しそうな手を、渾身の力で握り締める。拳の中で木製の箸がみしみしと小さく軋んだ。
「…………お前、入ったのか。……あの、部屋」
ひどく渇き出す喉から、声を絞り出す。
土方のその唐突に訪れたただならぬ変化に、シンパチは怖じ気付いたように僅かに身を引いた。
「だ、だって、あれは不可抗力っていうか……」
「元はと言えばあんな風に酔って帰ってきたアンタが悪いんじゃないですか」冷や汗を滲ませるシンパチの応えに、引いた筈の熱が全身へと返ってくる。
「……勝手なことはするなって、初めに言わなかったか……俺は」
引き釣る口元が震えた。
「だ、だからそれは……」
―――もう、終わりだ。全部。
土方の脳内だけが、また急激に熱を失っていく。
冷静を通り過ぎた冷たさが、土方の頭を覆う。
土方は静かに箸を下ろした。
「……あの……?」
シンパチが懸念するような瞳で首を傾げる。
土方はその瞳を受け止め、心を鎮めるように呼吸を整え、そして告げた。
「……出ていってくれ」
瞬間、シンパチは時を止めたように呼吸を忘れた。
数秒を要し、その言葉の意図がシンパチの頭に届いたのか、目を見開いて呆然とした顔を土方へと向ける。
「……え、」
沈黙が訪れる。
真ん中でぐつぐつと煮えたぎる鍋の音も、此処ではない、何処か遠くの方に聞こえた。
「……悪いけど、もう限界だ」
土方は引き釣る唇で、歪んだ弧を描く。
「今回のことは、確かに俺が全部悪かったんだ。それは謝るよ。すまなかった」
滑り出した口が、淡々と言葉を吐き散らしていく。
もう、シンパチの目は見られなかった。
「だから、……だからもう、此処に居座るのは、やめてくれないか」
「……頼む」土方は、頭を下げた。
パチン、と、食器が擦れ合う音がした。
土方は顔を上げ、シンパチに視線を向ける。
シンパチは靄の向こうで顔を俯かせ、僅かに肩を震わせていた。
「……アンタ、」
シンパチが、緩やかに顔を上げた。
―――二つの瞳が宝石のように、鈍く赤色の光を蓄えていた。
椅子から立ち上がり、土方の方へと距離を詰める。
「アンタ、何か思い違いをしてるみたいですけど」
妖しく光を帯びたシンパチの瞳が、土方を見下ろす。
「僕がその気になれば、今この場で、アンタなんかあっという間に骨の髄まで食い尽くしてやれるんですよ」
―――絶対零度。
それ意外の表現が、上手く思い浮かばなかった。
「……まあ、今のアンタのクソ不味い身体なんか、頼まれたって食してなんかあげませんけど」
「吸血鬼っていうのは美食家なんです」そう吐き捨てるように、シンパチは土方に背中を向けた。
リビングを突っ切り、ベランダへと続くガラスサッシを開く。
冷たい夜風が吹き込んで土方とシンパチの身体の熱を奪っていく。
シンパチが振り向いた。
その瞳は、もう赤く光を灯してはいなかった。
闇を吸い込む黒い二つの硝子玉が、戸惑いの色を浮かべて土方を見ただけだった。シンパチは息を吸い込むと眉を潜め、最後に一言「アンタなんか」土方に浴びせた。
「高血圧拗らせて早死にすれば良いんだバカヤロー!!」
「ンだとコノヤロー!!」
ベランダの縁に手を掛け、ひらりと宙に身を乗り出すシンパチ追って、土方もベランダへと飛び出した。
下方を覗き込むと、まるで猫のように駐車場のアスファルトに着地したシンパチは、目にも止まらぬスピードで夜を駆けていった。
「……人に見られたらどうすんだっつうに」
幸い、駐車場に人の気配はないようだった。
「本当に無茶苦茶な奴だな」土方は息を吐いた。
靴下一枚の足が冷たかったので、土方は直ぐに部屋の中へと引き返す。
シンパチと土方。二人の事情などお構いなしにテーブルの上で淡く湯気を立て続ける鍋の火元を絶った。
……これで良い。
これで良かったんだ。全てが元通りで、不自由は何もない。
土方は自分をそう言い包めるように、まだ温かい二人の夕食に、静かに蓋を閉じた。
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